ETV特集「ねちねちと、問う ーある学者の果てなき対話ー」 ― 2025-05-23
2025年5月23日 當山日出夫
ETV特集 ねちねちと、問う ーある学者の果てなき対話ー
こういうことをやってはいけないなあ、と思って見たのが……京大ELPに参加した社員の人が、会社にもどって上司に、報告していたこと。これでは、はっきりいって、京大ELPに参加することで、なにか「成果」を得てこなければいけない、ということになってしまう。
私の思うところでは、京大ELPというのは、会社が社員をそこに派遣して参加させて、それが何かの「成果」とならなければならない……そもそも、こういう価値観を否定するところに意図あったのではないだろうか。これでは、会社のために役に立つかどうかという、まさに社会のものさしで、参加していたことになる。これは、どう考えてみても、根本的に間違っていると思う。(この意味では、宮野公樹も、会社も、NHKも、何も分かっていない。)
社会のものさし、自分のものさしも、突き詰めて考えてみれば、どちらも、ある歴史的文化的文脈のなかに形成されたものである。歴史と文化をはなれて、まったく自由に個人の価値観がつくられるということはない。
強いていえば、であるが……数学への関心も、昆虫への関心も、なぜ自分がそれに興味をいだいたのか、ということを自省してみるならば、人生における何かのきっかけがあったり、育った環境だったり、たまたま習った先生の影響だったり……ということになるだろう。究極的には、純粋な学問への興味関心ということは、成立しない。
ただ、一歩、その世界に踏み込んでしまうと、その後、その人間を研究者として駆り立てていくのは、知的探究心であることは確かである。このことは、否定しない。また、絶対に否定してはいけない。
宮野公樹という人が、もともと工学系の研究をしていたということだが、これを思うと、こんなふうに考えることは理解できる。ものさしが外にある分野である。それは、学会での評価であったり、社会での評価であったり、である。
これに対して、文学部などの領域だと、まず、ものさしは自分のなかにある。自分のなかにものさしがもてないと、文学とか思想とか宗教とかは、分からない。ただし、研究者としては、学会での発表とか論文数とかは、確かに重要であるが、だからといって、それが自分の研究についての価値のすべてであるとは、(たぶん)絶対に思わない。科研費がとれなかったからといって、自分の研究が否定されたと思うことは、まあ無いだろう。科研費がとれれば儲けものではあるけれど、それだけが自分の研究の価値の評価だと考えることはないのが普通だろう。
今の時代としては、学位(博士)がとれて、どこか専任の職が得られれば、それでもう十分といっていい……こういう状況にあることは確かではあるのだが。
なぜ自分はその問いを立てるのか、そして、その自分はいったい何者なのか、その問いは自分にとってどういう意味があるのか、こういう部分を根底にもっているのが、人文学というものである。この意味で、人文学的な基礎教養(ただの知識ではなく)というというのは、研究者にとっても、また、ビジネスの分野においても、政治の分野においても、非常に重要だと思っている。
自分のものさしでは重要だが、さらに重要なのは、なぜ自分はそのものさしで考えるのか、という自分自身にむけてのさらに深い問いかけなのである。これは、これまでの人間の歴史としては、神、魂、心、文化、というようなことばで語られてきたものであり、ときとしてそれは、逆説的に沈黙ということによってしか語りえないものでもある。
自分のものさしを言語化する……これは現代において貴重であることは確かであるが、ここにとどまるとするならば、あまりにも浅薄である。言語化しえないものへの畏敬の念が欠けている。(この程度のことでも価値があるというなら、それこそ現代社会の深い問題である。)
人間が生きていくうえで、なにがしかのものさしは必要だろう。というよりも、現代はそういう社会になってしまっている。これが前近代の世界だったら、それは、社会の共同体で共有される、あるいは、神があたえてくれるものだった。現代に生きている人間がこういうものであるということを、まず掘り下げて問いかけることが何よりも重要である。
また、ビジネスにおけるモチベーション、学問的知的好奇心、さらには、人間としての生きがい……これらのことを、あまり整理せずに語っていると感じる。
さしあたっては、自分のものさしであれ、社会のものさしであれ、それに優劣をつけるのではなく、どういう経緯でそれが自分のなかにあるのか問いかける……自分の生いたち、生育環境、教育、読んだ本、見た映画、友達、先生、やってきた仕事、などなど……これらについて、おちついて自省することが、必要である。さらには、近代社会とは何なのか、考えることにもなる。
はっきりいって、宮野公樹という人はこの程度の人なのか、京大ELPとはこの程度のことなのか、というのが、番組を見て率直に思うところである。
2025年5月20日記
ETV特集 ねちねちと、問う ーある学者の果てなき対話ー
こういうことをやってはいけないなあ、と思って見たのが……京大ELPに参加した社員の人が、会社にもどって上司に、報告していたこと。これでは、はっきりいって、京大ELPに参加することで、なにか「成果」を得てこなければいけない、ということになってしまう。
私の思うところでは、京大ELPというのは、会社が社員をそこに派遣して参加させて、それが何かの「成果」とならなければならない……そもそも、こういう価値観を否定するところに意図あったのではないだろうか。これでは、会社のために役に立つかどうかという、まさに社会のものさしで、参加していたことになる。これは、どう考えてみても、根本的に間違っていると思う。(この意味では、宮野公樹も、会社も、NHKも、何も分かっていない。)
社会のものさし、自分のものさしも、突き詰めて考えてみれば、どちらも、ある歴史的文化的文脈のなかに形成されたものである。歴史と文化をはなれて、まったく自由に個人の価値観がつくられるということはない。
強いていえば、であるが……数学への関心も、昆虫への関心も、なぜ自分がそれに興味をいだいたのか、ということを自省してみるならば、人生における何かのきっかけがあったり、育った環境だったり、たまたま習った先生の影響だったり……ということになるだろう。究極的には、純粋な学問への興味関心ということは、成立しない。
ただ、一歩、その世界に踏み込んでしまうと、その後、その人間を研究者として駆り立てていくのは、知的探究心であることは確かである。このことは、否定しない。また、絶対に否定してはいけない。
宮野公樹という人が、もともと工学系の研究をしていたということだが、これを思うと、こんなふうに考えることは理解できる。ものさしが外にある分野である。それは、学会での評価であったり、社会での評価であったり、である。
これに対して、文学部などの領域だと、まず、ものさしは自分のなかにある。自分のなかにものさしがもてないと、文学とか思想とか宗教とかは、分からない。ただし、研究者としては、学会での発表とか論文数とかは、確かに重要であるが、だからといって、それが自分の研究についての価値のすべてであるとは、(たぶん)絶対に思わない。科研費がとれなかったからといって、自分の研究が否定されたと思うことは、まあ無いだろう。科研費がとれれば儲けものではあるけれど、それだけが自分の研究の価値の評価だと考えることはないのが普通だろう。
今の時代としては、学位(博士)がとれて、どこか専任の職が得られれば、それでもう十分といっていい……こういう状況にあることは確かではあるのだが。
なぜ自分はその問いを立てるのか、そして、その自分はいったい何者なのか、その問いは自分にとってどういう意味があるのか、こういう部分を根底にもっているのが、人文学というものである。この意味で、人文学的な基礎教養(ただの知識ではなく)というというのは、研究者にとっても、また、ビジネスの分野においても、政治の分野においても、非常に重要だと思っている。
自分のものさしでは重要だが、さらに重要なのは、なぜ自分はそのものさしで考えるのか、という自分自身にむけてのさらに深い問いかけなのである。これは、これまでの人間の歴史としては、神、魂、心、文化、というようなことばで語られてきたものであり、ときとしてそれは、逆説的に沈黙ということによってしか語りえないものでもある。
自分のものさしを言語化する……これは現代において貴重であることは確かであるが、ここにとどまるとするならば、あまりにも浅薄である。言語化しえないものへの畏敬の念が欠けている。(この程度のことでも価値があるというなら、それこそ現代社会の深い問題である。)
人間が生きていくうえで、なにがしかのものさしは必要だろう。というよりも、現代はそういう社会になってしまっている。これが前近代の世界だったら、それは、社会の共同体で共有される、あるいは、神があたえてくれるものだった。現代に生きている人間がこういうものであるということを、まず掘り下げて問いかけることが何よりも重要である。
また、ビジネスにおけるモチベーション、学問的知的好奇心、さらには、人間としての生きがい……これらのことを、あまり整理せずに語っていると感じる。
さしあたっては、自分のものさしであれ、社会のものさしであれ、それに優劣をつけるのではなく、どういう経緯でそれが自分のなかにあるのか問いかける……自分の生いたち、生育環境、教育、読んだ本、見た映画、友達、先生、やってきた仕事、などなど……これらについて、おちついて自省することが、必要である。さらには、近代社会とは何なのか、考えることにもなる。
はっきりいって、宮野公樹という人はこの程度の人なのか、京大ELPとはこの程度のことなのか、というのが、番組を見て率直に思うところである。
2025年5月20日記
知恵泉「不屈の美術商 林忠正 “国賊”と呼ばれて」 ― 2025-05-23
2025年5月23日 當山日出夫
知恵泉 不屈の美術商 林忠正 “国賊”と呼ばれて
録画してあったのをようやく見た。
見ながら思ったことは、林忠正について、『英雄たちの選択』で、磯田道史と鹿島茂が話したら、どんな内容になっただろうか……ということがある。(あるいは、もう放送してしまったことなのかとも思うけれど。どうなのだろうか。)
学生のとき、東洋の美術史、陶磁器のことが専門の先生に習ったことがある。その先生の言っていたこととして、日本から多くの浮世絵が海外に流出していったのは、陶磁器を輸出するとき、割れないようにすきまにつめてあった紙くずに絵が描いてあって、それが、実は浮世絵だったから。それに西洋の人びとが着目した。
浮世絵は、江戸時代から明治のはじめのころまで、日本ではゴミだったのである。現代では、いくつかの美術館などが多く所蔵しているが、江戸時代からつづくコレクションによるもの、というのはなかったかと思うが、この点について、浮世絵の専門家はどう思うのだろうか。(慶應にも、高橋誠一郎コレクションははいっているはずなのだが、やはり近代になってからのコレクターということになるだろう。太田記念美術館のコレクションも、近代になってからのものである。)
大局的な観点から考えるならば、西欧におけるオリエンタリズムのなかの一つとして考えることになるだろう。端的にいえば、この時代の西欧人にとって、中国や日本は、未開の地域だったのであり、たまたまそこに珍奇な美術品があり、価値を見出した、ということになるだろう。日本文化という独自の存在が、対等なものとして認められるようになるのは、かなり後のことになるはずである。
江戸時代から明治の初めのころ、浮世絵は、日本国内では、どこにどのように存在していたものなのか。貴重な美術品として、厳重に蔵のなかにしまってあった、というわけではなかっただろう。
それは、いくらぐらいの値段で取引され、日本国内で流通していたのだろうか。その取引にかかわっていたのは、どのような業種だったのだろうか。おそらくは、絵双紙をあつかう本屋か、骨董屋だったかとも思うが、どうなのだろうか。
『べらぼう』では、蔦重は歌麿や写楽を見出したということになるのだが、しかし、その同時代の人びとにとって、歌麿は見捨てられ、写楽は相手にされなかった……かなり極端にいえば、このようになるかもしれない。フランスでも、印象派の画家たちは、同時代では相手にされなかった。美術の世界の評価の変遷ということは、もうすこし考えてもいいのではないだろうか。
2025年5月22日記
知恵泉 不屈の美術商 林忠正 “国賊”と呼ばれて
録画してあったのをようやく見た。
見ながら思ったことは、林忠正について、『英雄たちの選択』で、磯田道史と鹿島茂が話したら、どんな内容になっただろうか……ということがある。(あるいは、もう放送してしまったことなのかとも思うけれど。どうなのだろうか。)
学生のとき、東洋の美術史、陶磁器のことが専門の先生に習ったことがある。その先生の言っていたこととして、日本から多くの浮世絵が海外に流出していったのは、陶磁器を輸出するとき、割れないようにすきまにつめてあった紙くずに絵が描いてあって、それが、実は浮世絵だったから。それに西洋の人びとが着目した。
浮世絵は、江戸時代から明治のはじめのころまで、日本ではゴミだったのである。現代では、いくつかの美術館などが多く所蔵しているが、江戸時代からつづくコレクションによるもの、というのはなかったかと思うが、この点について、浮世絵の専門家はどう思うのだろうか。(慶應にも、高橋誠一郎コレクションははいっているはずなのだが、やはり近代になってからのコレクターということになるだろう。太田記念美術館のコレクションも、近代になってからのものである。)
大局的な観点から考えるならば、西欧におけるオリエンタリズムのなかの一つとして考えることになるだろう。端的にいえば、この時代の西欧人にとって、中国や日本は、未開の地域だったのであり、たまたまそこに珍奇な美術品があり、価値を見出した、ということになるだろう。日本文化という独自の存在が、対等なものとして認められるようになるのは、かなり後のことになるはずである。
江戸時代から明治の初めのころ、浮世絵は、日本国内では、どこにどのように存在していたものなのか。貴重な美術品として、厳重に蔵のなかにしまってあった、というわけではなかっただろう。
それは、いくらぐらいの値段で取引され、日本国内で流通していたのだろうか。その取引にかかわっていたのは、どのような業種だったのだろうか。おそらくは、絵双紙をあつかう本屋か、骨董屋だったかとも思うが、どうなのだろうか。
『べらぼう』では、蔦重は歌麿や写楽を見出したということになるのだが、しかし、その同時代の人びとにとって、歌麿は見捨てられ、写楽は相手にされなかった……かなり極端にいえば、このようになるかもしれない。フランスでも、印象派の画家たちは、同時代では相手にされなかった。美術の世界の評価の変遷ということは、もうすこし考えてもいいのではないだろうか。
2025年5月22日記
映像の世紀バタフライエフェクト「AI 未来を夢みたふたりの天才」 ― 2025-05-23
2025年5月23日 當山日出夫
映像の世紀バタフライエフェクト AI 未来を夢みたふたりの天才
コンピュータとAIの開発史を、手堅くまとめたという印象である。
チェスで世界チャンピオンに勝ったIBMのDeepBlueは、その演算能力の速さで勝った。(このニュースに接したとき、私が思ったことは、勝ったのはコンピュータではなくて、プログラマではないのか、と感じたことを憶えている。計算機の処理スピードは、技術が進歩すれば速くなるのは当たり前である。この時代、すでに、世の中でパソコンがかなり普及していて、私も使っていた。)
AlphaGOが勝ったときは、おそらく質的に根本的な変化があったにちがいない。ただの計算速度の速さではない何かがあったのだろう。しかし、それが何であったのかを、説明できないのが、あるいは、現代のAI研究の姿なのかとも思う。これが、本当に人間の考えていることと同じようなことであったのか、それとも別の何かであったのか。いったいどうなのだろうか。
この番組では生成AIのことについては触れていなかった。私が勉強してきた言語の研究の分野では、まさに生成AIを抜きにして言語というものを考えられなくなってきている。それを否定的に見るにせよ、肯定的に見るにせよ。(もう、こういうことにつきあうのが嫌になったということもあって、それにもう年だし、言語の研究からは手をひくことにしたのだが。)
少なくとも、生成AIが作りだした(?)ことばを読んだり聞いたりして、それを、普通に言語として、人間の側がうけとめてしまうことになるのならば、それは、もう言語であるとしかいいようがない。
もっと具体的にいえば、これからの言語研究、特に、辞書の編纂などにおいて、生成AIによることばを、ことばの用例として使っていいのだろうか、という、これは研究者にとってすぐに直面することになる切実な課題がある。現在、WEB上にあることばのなかには、かなりAIによるものがあるだろう。また、世の中に流布している書籍や文書などでも、AIによるものがあるはずである。これらを、(旧来の意味での)人間のことばの用例と同じにあつかうことが妥当なのだろうか。このことのこたえは、今のところない。
少なくとも現在のところ、生成AIのことばは、人間のことばとは、質的にことなっているというのが、認知言語学などの立場からの、批判的見解だろうと思う。だが、これも、これからどうなるか分からない。
AIを制するものが世界を制する……たしかにこのとおりだろう。だが、ひょっとするとAIに人間が制せられる時代になってしまうかもしれない、という危惧はある。
チューリングやノイマンのことについて、映画を使っていたが、それなら、『2001年宇宙の旅』を使ってもよかったかもしれない。
さらに重要なことは、AI開発をささえているのは、単なる技術の進歩だけではなく、基本的な人間観、世界観の問題でもあるのだが、これは、この番組の趣旨からは無理なことかもしれない。映像記録で語ることのむずかしいところである。
2025年5月20日記
映像の世紀バタフライエフェクト AI 未来を夢みたふたりの天才
コンピュータとAIの開発史を、手堅くまとめたという印象である。
チェスで世界チャンピオンに勝ったIBMのDeepBlueは、その演算能力の速さで勝った。(このニュースに接したとき、私が思ったことは、勝ったのはコンピュータではなくて、プログラマではないのか、と感じたことを憶えている。計算機の処理スピードは、技術が進歩すれば速くなるのは当たり前である。この時代、すでに、世の中でパソコンがかなり普及していて、私も使っていた。)
AlphaGOが勝ったときは、おそらく質的に根本的な変化があったにちがいない。ただの計算速度の速さではない何かがあったのだろう。しかし、それが何であったのかを、説明できないのが、あるいは、現代のAI研究の姿なのかとも思う。これが、本当に人間の考えていることと同じようなことであったのか、それとも別の何かであったのか。いったいどうなのだろうか。
この番組では生成AIのことについては触れていなかった。私が勉強してきた言語の研究の分野では、まさに生成AIを抜きにして言語というものを考えられなくなってきている。それを否定的に見るにせよ、肯定的に見るにせよ。(もう、こういうことにつきあうのが嫌になったということもあって、それにもう年だし、言語の研究からは手をひくことにしたのだが。)
少なくとも、生成AIが作りだした(?)ことばを読んだり聞いたりして、それを、普通に言語として、人間の側がうけとめてしまうことになるのならば、それは、もう言語であるとしかいいようがない。
もっと具体的にいえば、これからの言語研究、特に、辞書の編纂などにおいて、生成AIによることばを、ことばの用例として使っていいのだろうか、という、これは研究者にとってすぐに直面することになる切実な課題がある。現在、WEB上にあることばのなかには、かなりAIによるものがあるだろう。また、世の中に流布している書籍や文書などでも、AIによるものがあるはずである。これらを、(旧来の意味での)人間のことばの用例と同じにあつかうことが妥当なのだろうか。このことのこたえは、今のところない。
少なくとも現在のところ、生成AIのことばは、人間のことばとは、質的にことなっているというのが、認知言語学などの立場からの、批判的見解だろうと思う。だが、これも、これからどうなるか分からない。
AIを制するものが世界を制する……たしかにこのとおりだろう。だが、ひょっとするとAIに人間が制せられる時代になってしまうかもしれない、という危惧はある。
チューリングやノイマンのことについて、映画を使っていたが、それなら、『2001年宇宙の旅』を使ってもよかったかもしれない。
さらに重要なことは、AI開発をささえているのは、単なる技術の進歩だけではなく、基本的な人間観、世界観の問題でもあるのだが、これは、この番組の趣旨からは無理なことかもしれない。映像記録で語ることのむずかしいところである。
2025年5月20日記
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