新常用漢字:解釈による運用 ― 2009-02-13
2009/02/13 當山日出夫
先日の、国語研でのワークショップ。小形さんの発表は、大日本印刷の拡張新字体の利用は、当用漢字表の理念を解釈によって運用していたものである(と、私は理解して聞いた。)
そして、これまで、「文字の理念と規格と規範」で述べてきたことは、まさに、文字は解釈によってしか運用できないものである、ということの、きわめて個人的的な体験談である。極言すれば、これと同じ字(字体)は、康煕字典にのっていないので読めない・・・こんなことを言い出したら、おそらく、東洋の古典籍の大部分はよめない、はずである。
しかし、現実にはそうなっていない。なぜなら、康煕字典に載っているこの字は、実際の典籍のこの字と同じであるということが、暗黙のうちに諒解されているから、である。
これは、現代についても同じ。でなければ、観光客が、京阪電車で、「祇園四条」で降りて、八坂神社に行けるはずがない。また、京都大学にも行けない。
※印刷標準字体「示氏」。京阪電車の使用字体「ネ氏」。
※京都大学への生き方は、四条からであれば、「201系統 祇園百万遍」とある。しかし、私の見た範囲では、京都大学の刊行物は「ネ氏」。京都市バスは「示氏」。
印刷においても、この「解釈による運用」を、もっと現実のものとして考えるべきではないか。そうすると、クライアントが・・・ということになるが。
ともあれ、「新常用漢字表(仮称)」などについて、なぜ、こまかな一点一画にこだわるのか、この点こそが、「新常用漢字表(仮称)」が、今回、われわれに問いかけたものである。
當山日出夫(とうやまひでお)
先日の、国語研でのワークショップ。小形さんの発表は、大日本印刷の拡張新字体の利用は、当用漢字表の理念を解釈によって運用していたものである(と、私は理解して聞いた。)
そして、これまで、「文字の理念と規格と規範」で述べてきたことは、まさに、文字は解釈によってしか運用できないものである、ということの、きわめて個人的的な体験談である。極言すれば、これと同じ字(字体)は、康煕字典にのっていないので読めない・・・こんなことを言い出したら、おそらく、東洋の古典籍の大部分はよめない、はずである。
しかし、現実にはそうなっていない。なぜなら、康煕字典に載っているこの字は、実際の典籍のこの字と同じであるということが、暗黙のうちに諒解されているから、である。
これは、現代についても同じ。でなければ、観光客が、京阪電車で、「祇園四条」で降りて、八坂神社に行けるはずがない。また、京都大学にも行けない。
※印刷標準字体「示氏」。京阪電車の使用字体「ネ氏」。
※京都大学への生き方は、四条からであれば、「201系統 祇園百万遍」とある。しかし、私の見た範囲では、京都大学の刊行物は「ネ氏」。京都市バスは「示氏」。
印刷においても、この「解釈による運用」を、もっと現実のものとして考えるべきではないか。そうすると、クライアントが・・・ということになるが。
ともあれ、「新常用漢字表(仮称)」などについて、なぜ、こまかな一点一画にこだわるのか、この点こそが、「新常用漢字表(仮称)」が、今回、われわれに問いかけたものである。
當山日出夫(とうやまひでお)
電子出版における良心的とは ― 2009-02-13
2009/02/13 當山日出夫
『内村鑑三全集』のデジタル版の件については、先日の、ワークショップ(国語研)でも、斎藤みちさんから紹介があった。
この仕事で、今、私が、考えていることは、電子出版における、文字のあつかい。その「良心的」な態度とは、ということ。
簡単にいえば、
1.
どのような手段をつかおうが、文字を正確に見えるようにする。この場合、全部が、「画像」であるならば、問題ない。しかし、テキスト、あるいは、PDFで、となると、そう簡単にはいかない。なんらかのグリフをそこに埋め込んで、見えるようにする。しかし、この場合、処理の方法によっては、コピーして、ワープロにもっていったら、とたんに字が化けることがあり得る。(現在のデータは、そうなっている。)
2.
逆に、見えない字があることを前提に、ゲタ(〓)にする。どうみても、今の時代の、日本のコンピュータで使用できる漢字は、混乱している。使用するマシンによって、見える字・見えない字・かたちの変わる字、などが、錯綜している。では、いっそのこと、実用的な部分(検索やデータのコピー)にかかわる部分は、現時点で安定して見える文字だけにしてしまう。それ以外は、ゲタ(〓)にする。
すでに紙の本はある。岩波書店刊の『内村鑑三全集』(全40巻)。まともに、内村鑑三研究にかかわる研究者なら、全集が手元にあって当然だろう(と、私ぐらいの年代であれば、考えてしまう)。
これまで、出版社や印刷業は、どんな方法でも、紙の上に印刷できればよかった。このことについては、鉛活字の時代でも、写植の時代でも、さまざまな現場の苦労と工夫があった。
しかし、電子媒体に変わったとき、ディスプレイは紙ではない。そこに見える文字は、紙の上に印刷された文字ではない。所有しているのは、デジタルのデータ(文字の符号)にすぎない。
現時点では、それを強制的に、ある特定の文字として見せるためには、フォント埋め込みのPDFが、もっとも妥当な方法だろう。だが、その裏には、文字コードがある。PDFから、論文を書くために、引用してコピーしたら、文字が化けてしまう、では困る。化けるぐらいなら、いっそのことゲタ(〓)の方がいい。
このように考えるのは、デジタルのテキストを扱ってきた人間の発想かもしれない。しかし、このところを、なんとかして、克服しないでは、デジタル人文学の未来はない。
このあたり、現実的にどのように処理するか、また、どう説明するか、難しいのである。
當山日出夫(とうやまひでお)
『内村鑑三全集』のデジタル版の件については、先日の、ワークショップ(国語研)でも、斎藤みちさんから紹介があった。
この仕事で、今、私が、考えていることは、電子出版における、文字のあつかい。その「良心的」な態度とは、ということ。
簡単にいえば、
1.
どのような手段をつかおうが、文字を正確に見えるようにする。この場合、全部が、「画像」であるならば、問題ない。しかし、テキスト、あるいは、PDFで、となると、そう簡単にはいかない。なんらかのグリフをそこに埋め込んで、見えるようにする。しかし、この場合、処理の方法によっては、コピーして、ワープロにもっていったら、とたんに字が化けることがあり得る。(現在のデータは、そうなっている。)
2.
逆に、見えない字があることを前提に、ゲタ(〓)にする。どうみても、今の時代の、日本のコンピュータで使用できる漢字は、混乱している。使用するマシンによって、見える字・見えない字・かたちの変わる字、などが、錯綜している。では、いっそのこと、実用的な部分(検索やデータのコピー)にかかわる部分は、現時点で安定して見える文字だけにしてしまう。それ以外は、ゲタ(〓)にする。
すでに紙の本はある。岩波書店刊の『内村鑑三全集』(全40巻)。まともに、内村鑑三研究にかかわる研究者なら、全集が手元にあって当然だろう(と、私ぐらいの年代であれば、考えてしまう)。
これまで、出版社や印刷業は、どんな方法でも、紙の上に印刷できればよかった。このことについては、鉛活字の時代でも、写植の時代でも、さまざまな現場の苦労と工夫があった。
しかし、電子媒体に変わったとき、ディスプレイは紙ではない。そこに見える文字は、紙の上に印刷された文字ではない。所有しているのは、デジタルのデータ(文字の符号)にすぎない。
現時点では、それを強制的に、ある特定の文字として見せるためには、フォント埋め込みのPDFが、もっとも妥当な方法だろう。だが、その裏には、文字コードがある。PDFから、論文を書くために、引用してコピーしたら、文字が化けてしまう、では困る。化けるぐらいなら、いっそのことゲタ(〓)の方がいい。
このように考えるのは、デジタルのテキストを扱ってきた人間の発想かもしれない。しかし、このところを、なんとかして、克服しないでは、デジタル人文学の未来はない。
このあたり、現実的にどのように処理するか、また、どう説明するか、難しいのである。
當山日出夫(とうやまひでお)
土方巽の舞踏と舞踏譜 ― 2009-02-13
2009/02/13 當山日出夫
私の年代であれば、土方巽(ひじかたたつみ)の舞踏(ぶとう)は、デフォルトの知識であるのだが、どうも、最近の若い人はそうでもないらしい。しかし、先日の、
土方巽・舞踏フィルム上映 in 京都
http://d.hatena.ne.jp/p-butoh/20090203
の前日の方は、結構、若いひとがいた。どういうつながりで、知っているのだろう。
この件については、きわめて多くの書きたいことがある。が、それを、簡略にまとめるならば・・・人間の身体表現の極致とまで賞された土方巽、普通に思い浮かぶのは、「疱瘡譚」、ひとが床のうえでのたうちまわっているかのごときシーンであろう、これが、まったくアドリブなし、完全に「舞踏譜」という「ことば(語)」で記述され構成されたものである、ということ。また、舞踏譜とその身体動作は、訓練によって、身につけることが可能。この舞踏譜のトレーニングは、まったく個性の入り込む余地がない。
近代の芸術が、もし、個人・個性の表現と分かちがたいものであるとするならば、土方巽の舞台は、完全に、没個性の表現(?)になる。舞踏譜による訓練を受けた人であれば、土方の舞台を再現可能なのである。
ある「かた」にはまった身体動作による表現ということでは、いわゆる伝統的な芸能(能楽や日本舞踊)が思い浮かぶ。一般的に、その対極あるものとして、土方の舞踏が位置づけられてきたように思う。実際は逆で、土方の舞踏の方が、完璧に「かた」を組み立てたものである。
さて、このようなことから、人間の身体動作の伝承とか、うごきの規範ということに発想がながれていく。今後は、慶應アートセンターの土方アーカイヴの研究に注目することにしよう。
當山日出夫(とうやまひでお)
私の年代であれば、土方巽(ひじかたたつみ)の舞踏(ぶとう)は、デフォルトの知識であるのだが、どうも、最近の若い人はそうでもないらしい。しかし、先日の、
土方巽・舞踏フィルム上映 in 京都
http://d.hatena.ne.jp/p-butoh/20090203
の前日の方は、結構、若いひとがいた。どういうつながりで、知っているのだろう。
この件については、きわめて多くの書きたいことがある。が、それを、簡略にまとめるならば・・・人間の身体表現の極致とまで賞された土方巽、普通に思い浮かぶのは、「疱瘡譚」、ひとが床のうえでのたうちまわっているかのごときシーンであろう、これが、まったくアドリブなし、完全に「舞踏譜」という「ことば(語)」で記述され構成されたものである、ということ。また、舞踏譜とその身体動作は、訓練によって、身につけることが可能。この舞踏譜のトレーニングは、まったく個性の入り込む余地がない。
近代の芸術が、もし、個人・個性の表現と分かちがたいものであるとするならば、土方巽の舞台は、完全に、没個性の表現(?)になる。舞踏譜による訓練を受けた人であれば、土方の舞台を再現可能なのである。
ある「かた」にはまった身体動作による表現ということでは、いわゆる伝統的な芸能(能楽や日本舞踊)が思い浮かぶ。一般的に、その対極あるものとして、土方の舞踏が位置づけられてきたように思う。実際は逆で、土方の舞踏の方が、完璧に「かた」を組み立てたものである。
さて、このようなことから、人間の身体動作の伝承とか、うごきの規範ということに発想がながれていく。今後は、慶應アートセンターの土方アーカイヴの研究に注目することにしよう。
當山日出夫(とうやまひでお)
『全国まずいものマップ』 ― 2009-02-13
2009/02/13 當山日出夫
たしか、同じような内容のことを、このアサヒネットの前身の、パソコン通信の時に書いたことがあるような気がする。
電車の中で本を読む(いまは、自動車が主な移動手段になってしまって、あまりそういう機会はないが)。ただし、そのとき、絶対に選ばない作者がいる。清水義範、である。
理由は簡単、読んでいて、笑い出したらとまらないからである。
いま、私のてもとには、『全国まずいものマップ-清水義範パスティーシュ100-三の巻』(ちくま文庫)がある。ゆえに、ここしばらくは、知的生産能力は(もともと、そんなもの無いかもしれなが)、おちるのである。
筑摩書房は、まことに、罪作りなのである。あ、そういえば、『罪と罰』の2冊目も読まないと。
當山日出夫(とうやまひでお)
たしか、同じような内容のことを、このアサヒネットの前身の、パソコン通信の時に書いたことがあるような気がする。
電車の中で本を読む(いまは、自動車が主な移動手段になってしまって、あまりそういう機会はないが)。ただし、そのとき、絶対に選ばない作者がいる。清水義範、である。
理由は簡単、読んでいて、笑い出したらとまらないからである。
いま、私のてもとには、『全国まずいものマップ-清水義範パスティーシュ100-三の巻』(ちくま文庫)がある。ゆえに、ここしばらくは、知的生産能力は(もともと、そんなもの無いかもしれなが)、おちるのである。
筑摩書房は、まことに、罪作りなのである。あ、そういえば、『罪と罰』の2冊目も読まないと。
當山日出夫(とうやまひでお)
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