人文学は何の役にたつか2017-07-31

2017-07-31 當山日出夫(とうやまひでお)

あまりこういうことを考えるのは好きではない。しかし、あえて、時として、自らに問いかけてもいいような気がするので、書いてみる。人文学は何の役にたつのか、と。

私なりいえば、それは、「問い」をたてる考え方にある……このようにいってもよいのではないだろうか。

たぶん、世の中の大学の文学部のほとんどは、卒業論文が必須になっていると思う。なぜ、論文を書くのか。それは、「答え」を出すためではない。「問い」をたてるためである。

学部の四年間ほどの勉強で、どれほどの「答え」をだすこともできないだろう。その研究分野の概略がざっとわかり、研究の方法論の入り口ぐらいまで、たどりつければいい方である。それでも、なにがしが論文を書くことの意義はどこにあるのか。

人間にかかわること、人生にかかわること、文化にかかわること、歴史にかかわること、このようなことについて、考えて、自分なりになにがしかの「問い」をたてることができるかどうか、だと思う。その「答え」を出すのには、ひょっとする、その後の人生を全部つかっても無理かもしれない。しかし、それでも、「問い」をたてなければならない。

今の世の中、テレビでも、ネットでも、マスコミでも、「答え」は、ある意味であふれている。だが、そのなかにあって、自分で考えて、「問い」をたててみる価値はある。いや、自分で「問い」をたてた経験のある人間にしか、「答え」の真価はわからないともいえる。

これは、実務的にすぐに役にたつ知識や技能ではない。しかし、人間が生きているなかで、何かしらの問題に直面して、すぐに「答え」が出ないことがあるだろう。人生の問題かもしれない、国際的な社会・文化の問題かもしれない。そのようなとき、何が自分にとって、人間にとって、本当の問題点であるのか、その「問い」をたてることができれば、すこしは、見晴らしがよくはなろう。

性急に「答え」だけをもとめるのではなく、「問い」をたてることによって、自分が何を問題としているのか、その位置を確認すること。見取り図を描くこと。将来への展望をひらくこと。そのとっかかりになるのが、「問い」をたてることである。

たぶん、これから、従来ならば自明とされてきた、伝統的価値とか、文化的価値が、さまざまな要因……いわゆるグローバル化のなかで……によって、ゆらいでくるだろう。そんなとき、自らのよってたつ価値や文化や人生観といったものについて、自覚的になり反省してみる立脚点を自らのうちにもつことができるか、このような発想が、今後、求められる時代になる。

このような意味において、あえて、人文学は役にたつ……といっておきたい。そして、それをささえるような教育があり、研究が価値あるものとして、人びとに認識されるような社会であってほしい。

さらに考えなければならないこととしては、人文学は専門領域でもあると同時に、基礎教養(リベラル・アーツ)にもかかわっている。「教養」の歴史という観点から考えてみることも必要だろうと思う。