『赤と黒』スタンダール2017-06-01

2017-06-01 當山日出夫(とうやまひでお)

スタンダール.小林正(訳).『赤と黒』(上・下)(新潮文庫).新潮社.1957(2012.改版)
http://www.shinchosha.co.jp/book/200803/
http://www.shinchosha.co.jp/book/200804/

この作品も、若い時に読みかけて挫折した作品のひとつ。まあ、学生のころは、世界文学の名作といわれるような作品には、片っ端から手をつけていって、途中で挫折してしまうことが多かった。これも、たしか、岩波文庫版で読みかけたかと憶えている。今回は、新潮文庫版で読んでみることにした。

読んでみて……やはり、若い時にこの作品に挫折してしまったのは、無理もないと感じる。

第一に、時代背景が1830年代ということである。この作品の副題には、「1830年代史」とある。高校生とか大学生のころに、西洋史を専門にでもしていない限り、フランス革命後の1830年代がどんな時代であったかと言われても、わかるはずもない。高校でならった世界史の知識程度では、時代背景をじっくりと吟味することなどできない。

第二に、ジュリヤン・ソレルという特異な人物に、感情移入できるかどうかということがある。貧しい製材小屋の子どもとして生まれた主人公は、なりあがっていく。その野望とでもいうべき心情に、共感することができるかどうか、このあたり、高校生や大学生では、無理であったと、今になって読み返してみて思う。

以上の二点から考えて、この作品を若い時に読みかけて途中で挫折してしまったのも、無理のないことであったかと、思い返したりしてみたりしている。

そうはいっても、この年になって、なんとかこの作品を読み通すことのできたのは、訳文の見事さによるものである。端正で平易な文章。実に見事な訳文であると感じて読んだ。おそらくもとのフランス語は、読み安いながらも格調のある文章なんだろうと思う。この訳文の文体の魅力がなければ、私は、この作品を、再度投げ出していたかもしれない。

そして、読んでみて……最後に、この作品が、時代と国を超えて、世界文学の名作として読み継がれてきた理由がわかったような気がする。

追記 2017-06-03
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年6月3日
『赤と黒』スタンダール(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/06/03/8583789

ササユリ2017-06-02

2017-06-02 當山日出夫(とうやまひでお)

我が家で、ササユリが咲いている。たぶん、ササユリであっていると思うのだが、いまひとつ自信がない。

ササユリで思い出すのは、『奔馬』(三島由紀夫)の冒頭の大神神社での神事のシーンである。『奔馬』については、すでに書いたが、ササユリのことについては、言及することがなかった。

やまもも書斎記 2017年3月24日
『豊饒の海』第二巻『奔馬』三島由紀夫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/24/8418304

大神神社のHPを見ると、ささゆり園で花が開花したとある。ここに掲載の写真をみると、どうやら、我が家で咲いているのもササユリと判断していいかなと思ったりする。

大神神社HP
http://oomiwa.or.jp/

6月には、三枝祭り(ゆりまつり)があるとのこと。これは、『奔馬』でも描かれていたと記憶する。

三枝祭り
http://oomiwa.or.jp/saiten/06-saikusanomatsuri/

我が家で咲いているといっても、ほんのわずかである。それでも、見頃になるのは、もうすこし先のことになるだろうか。今は、開花しているのが二つほど、他はまだつぼみである。

季節のながれのなかで、咲いている花、あるいは、散ってしまった花などに、ふと気持ちをとどめるような生活をおくりたいと思っている。

これを書いていると、外でホトトギスの鳴いているのが聞こえてきている。ホトトギスの鳥の姿を写真にとるのは、かなり難しい。しかし、ササユリの花なら、私のカメラでもなんとかなる。

ササユリ
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『赤と黒』スタンダール(その二)2017-06-03

2017-06-03 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。
やまもも書斎記 2017年6月1日
『赤と黒』スタンダール
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/06/01/8581779

この作品、本当にわかるためには、フランス革命後の19世紀初期のフランスの状況について知っていないといけないだろう。翻訳(新潮文庫版)にも、このあたりのことは、かなり細かく注がついている。

しかし、そのさらに前提となる、フランスの歴史についてうとい私には、せっかくの注もあまり役にたたなかった。もうすこし、西欧の歴史、フランスの歴史、文学史などについて、これまでに勉強しておけばよかったと思うことしきりである。

だが、そのようなこと……時代的背景への理解……ということを、さしおいても、この作品は、ある種の文学的感銘を与えてくれる。(だからこそ、世界文学の古典というべきなのであるが。)

はっきりいって、私は、ジュリヤン・ソレルという人物が好きになれなかった。たしかに、貧しい生いたちから、なんとかしてのぼりつめていこうとする意思については、なんとなく分からなくはないのだが、強く共感するといことはない。これは、私の理解が浅いというだけのせいかもしれないが。

しかし、最後のところ、ジュリヤン・ソレルが死を前にしての述懐のあたりになると、思わず作品世界に引き込まれる。ああ、こんな人間が、こんな生き方を選んで、最後には、死を迎えることなるのか……と、深く感銘を覚えた。

ここまで読んで来て、この作品『赤と黒』が、これまで世界文学の名作として読み継がれてきた理由が、自分なりに納得できたと感じた。(やはり、途中で挫折して投げ出してしまっては、この作品に感動するということはない。最後まで読まないとだめである。)

私も、この年になって……還暦をすぎた……あまり新規なものに手を出したいと思うことがなくなってきた。それよりも、昔読みかけて挫折しているような本を、再度チャレンジしてみたいと思っている。古典、名著、名作である。

今では、古本で安く買えるようになっている。あるいは、新しい活字本(字が大きくなっている)があったりする。

『赤と黒』もそんな本のひとつ。再読してみてよかったと思う。

さて、今、読みかけているのは、『ボヴァリー夫人』。新しい新潮文庫版で読んでいる。翻訳については、毀誉褒貶あるようだが、私としては気にいっている。読後感などは、追って。

『ひよっこ』あれこれ「小さな星の、小さな光」2017-06-04

2017-06-04 當山日出夫(とうやまひでお)

ひよっこ
http://www.nhk.or.jp/hiyokko/index.html

第9週「小さな星の、小さな光」
http://www.nhk.or.jp/hiyokko/story/09/

この週は、群像劇という印象の回だった。物語の主人公(ヒロイン)は、みね子であるにはちがいないのだが、それよりも、周辺の登場人物が丁寧に描かれていたと見た。

特に、向島電機の乙女寮の仲間たち……幸子、裕子、澄子、豊子、時子、それから、舎監の愛子、これらの女性たちが、個性豊かに描かれていた。同じような環境にいる幾人かの人物の個性を描き分けていくところに、この脚本の良さがあるのだろうと思う。

岡田惠和の過去の作品であれば、「おひさま」の白紙同盟の仲間三人であったり、「ちゅらさん」の一風館の住人たちであったり、同じような環境にいる人間を、それぞれの個性を際立たせて描いていく。時として、その脇役の方がメインになるような回もある。

この週では、豊子が大きくあつかわれていた。優等生で、次の就職もきちんと決まっている。にもかかわらず、今の会社の工場が閉鎖になることに反抗する。ひとりで工場のなかに立てこもってしまう。

そんな豊子の姿に、同じ工場ではたらいてきた仲間たちの、職場への愛着、仲間意識のようなものを見て取ることもできるだろう。

この週でも、コーラスがあった。印象的なのは、「見上げてごらん夜の星を」である。乙女寮にいる仲間たちは、この歌の歌詞のように小さく名も無い星かもしれないが、それぞれに光っている。

次週の予告を見ると、舞台は、向島電機から、すずふり亭にうつるようだ。ここでも、これまでのような群像劇的な展開が見られるだろうか。

しかし、乙女寮がなくなってしまうと、もうコーラスのシーンは出てこないだろう。これは、残念な気がしている。

NHK「祇園 女たちの物語」2017-06-05

2017-06-05 當山日出夫(とうやまひでお)

2017年6月3日放送の、NHKスペシャル「祇園 女たちの物語」、録画しておいて、翌日になってみた。

私の興味のあったのは、ただ一点……「ぎおん」の文字をどう表記するか、である。番組で、画面に出た字幕、それから、字幕表示で表示された文字、すべて、「ネ氏」であった。「示氏」は、一切、つかっていなかった。字幕表示で示される文字は、どことなくギザギザがあった。これは、作字したものだろう。

これはNHKの方針なのだろうか。

たしかに、祇園における、いわゆる伝統的字体としては「ネ氏」の方であるということは、私は、いくつか論文に書いたことがある。しかし、現在では、「0213:04」規格に準拠した文字も、景観文字としては、いくつか観察できる。また、誤字とされる「祗園」の方も、珍しいものではない。

そういえば、以前に放送していた、これもNHKの「ブラタモリ」の祇園の回でも、使用していた文字は、徹底して「ネ氏」の方であった。

やまもも書斎記 2017年4月14日
『ブラタモリ』「祇園」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/04/17/8490529

この文字、現在、一般のコンピュータ……Windows7以降の機種、Windows10などでは、「示氏」の方が出るようになっている。意図的に、フォントを切り替えないと「ネ氏」は使えない。

つまり、NHKの「ぎおん」の表記の方針は、現在のコンピュータ文字の流れに反したものになっている。これが、いつまでつづくだろうか。あるいは、コンピュータ文字が、人びとの言語生活(文字・表記)に、徐々にではあっても影響を与えていくことになるのであろうか。

これからも、この点については、注意して見ていきたいと思っている。

『おんな城主直虎』あれこれ「虎と龍」2017-06-06

2017-06-06 當山日出夫(とうやまひでお)

『おんな城主直虎』2017年6月4日、第22回「虎と龍」
http://www.nhk.or.jp/naotora/story/story22/

前回は、
やまもも書斎記 2017年5月30日
『おんな城主直虎』あれこれ「ぬしの名は」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/30/8579438

この回も、まだ和尚は健在であったし、ネコも出てきていた。今回は、ネコの映っているカットが多かったような気がする。これは、見ていて楽しい。

ところで、今回は、やはり社会経済史的な観点から、井伊という戦国領主と、その支配下にある人びととのあり方ということになるだろうか。

見ていると、百姓=農民=定住民、それに対して、盗賊団=非農業民=非定住民、というような図式でとらえているように思える。これはこれで、ひとつの歴史の見方なのであろう。

今回は、綿の栽培、その加工ということは出てこなかったが、農業にかかわることとしては、百姓の仕事になるだろう。それに対して、山林の伐採などは、非農業民の仕事、そして、それは、移動する人びと……それが、今回は、盗賊団という設定なのであるが……ということになっている。このような社会経済史的な戦国時代史観というのは、専門家にとってはどうなのかという気がしないでもない。しかし、これはこれとして、ドラマとしては、よく出来ていると思う。

少なくとも、戦国時代の領主は、武芸、武力だけで、支配していたのではない、ということを描き出そうとしている。ここはあくまでも、井伊谷という狭い領地の範囲を、どのように経営していくか、そのために、どのような人材に、どのような仕事を与えるか、また、その人びとと、領主との関係は、どのような人間関係のもとになりたっているのか……このあたりのことを、このドラマは描こうとしているのだと理解する。

これまでのところ、今川、松平(徳川家康)は、たまに登場するとはいえ、基本的に、今川の影響下にある存在としての、井伊の一族である。その狭いなかで、どのように生き延びていくのか、領主としての直虎の手腕が問われることになる。

信長もいずれ登場するのだろうが、まだ出てきてはいない。家康もまだ特にその存在感があるというわけではない。武田、北条も、出てきても、基本的に名前だけである。あくまでも、井伊谷の中で物語は進行する。このあたりが、戦国時代ドラマとして、逆に、新鮮な感じがするところでもある。名の知られた戦国の英雄、大名たちではなく、地方の限られた領地をどのように守り、経営していくのか、その土地にねざした人びとの生活を描こうとしている。

直虎は、どう考えても、「天下」を狙うということはない。「天下」を狙うことのない戦国時代ドラマとして、この物語はあるのだと思う。前作『真田丸』では、信繁自身は「天下」を狙うということはなかったが、「天下」をめぐる騒乱の中で自分の生き方をみつけていた。

「天下」を狙う戦国大名ではなく、盗賊団とどのような関係をとりもっていくことになるのか……まだ、龍雲丸は、直虎の支配下にはいるというわけではない……このあたりが、これからの展開の見どころであろうか。

さて、次回も、和尚とネコは出てくるのだろうか。

このつづきは、
やまもも書斎記 2017年6月13日
『おんな城主直虎』あれこれ「盗賊は二度仏を盗む」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/06/13/8593116

卯の花2017-06-07

2017-06-07 當山日出夫(とうやまひでお)

ちょうどいまごろ、初夏を感じさせるようなシーズンに咲く花である。ウツギ、卯の花ともいう。

唱歌「夏は来ぬ」に歌われているので、名前はよく知られていると思う。

http://j-lyric.net/artist/a00126c/l006325.html

そのウツギが、いま家のまわりのところどころで咲いているのが見られる。写真は、2017年5月28日に撮影したもの。家のすぐそばである。今朝も、外に出ると、ホトトギスの鳴いているのが聞こえてきていた。

これまで、この歌は知っていて、「卯の花」ということばも知っていたのだが、具体的に、これがウツギであると見定めて写真を撮るのは、はじめてになる。その目で見ていくと、そんなに珍しい花があるというわけではないが、普通に見られるような花、樹木なら、我が家の周囲にある。このような身近な草花、樹木の季節の変化にきづくような生活をおくりたいと思っている。

本を読む時間を大切にしたい。そして、それと同時に、季節の移り変わりを自分の目、耳で、確認しながら時間をすごしたいと思うようになってきた。

ウツギ

ウツギ

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『憲法サバイバル』加藤陽子・長谷部恭男2017-06-08

2017-06-08 當山日出夫(とうやまひでお)

ちくま新書編集部(編).『憲法サバイバル-「憲法・戦争・天皇」をめぐる四つの対談-』(ちくま新書).筑摩書房.2017
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480069535/

筑摩書房から、ちくま新書の一冊として、この本が出たので読んでみた。四つの対談を編集したものなので、一日に一つづつ読んでいくことにする。まず、最初は、加藤陽子と長谷部恭男である。

加藤陽子、長谷部恭男については、以前にこのブログでも書いたことがある。たとえば、

やまもも書斎記 2016年7月9日
加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』憲法とE・H・カーのこと
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/09/8127772

やまもも書斎記 2016年
長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』「ホッブズを読むルソー」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/21/8135281

他にも触れたことがある。この対談でも、戦争とは、相手国の憲法を書きかえさせることに目的がある、との議論が両者の間で展開されている。この点について、さらに理解しておくためには、上記のところでとりあげたような、二人の書いた本を読んでおくべきかもしれない。

読みながら、いくつか付箋をつけたが、そのいくつかを引用しておきたい。

(長谷部)(大日本帝国憲法には)「天皇は全国家権力を掌握しているけれど、それを行使する時は自身がつくった憲法の条規に従う。この国家法人理論と君主制原理は、とても相性が悪いんです。」(p.20)

としたうえで、現在の憲法について、

「実は人民主権原理にも、同じような問題があります。人民は全国家権力・主権を持っているが、自らが制定した憲法の範囲内でのみそれを行使する。そんなことは本当に、理論的にあり得るのかということです。」(p.21)

と述べる。国民の主権ということは、今の憲法において当たり前のことのように思っているが、理論的に考えると、いろいろ問題をはらんでいるらしいことがわかる。といって、昔のように天皇主権にもどせばよいというものでもない。

それから、次のような発言も興味深かった。

(加藤)「つまり大日本帝国憲法というのは、究極の押しつけ憲法だと。」(p.28)

今の憲法についての改憲議論のなかに、GHQの押しつけ憲法だから改憲すべきだという意見もある。であるならば、その前の、大日本帝国憲法は、どうであったのか、考えてみてもいいだろう。

他にも、この対談で興味深い箇所がいくつかある。

憲法学という法律の学問分野は、意外と新しいのである、という指摘などは、憲法の専門家に言われてみて、なるほどそういうものかと思ったりする。また、憲法についての議論としては、美濃部達吉を非常に高く評価している。国家法人説、天皇機関説である。そして、今、その美濃部の著作を読もうとしても、全集、著作集のような形にはなっていないともある。そんなものなのかと思ってしまう。

ところで、どうでもいいことのようだが……加藤陽子は、山田風太郎が好きらしい。これはなるほどと感じる。特に、歴史、また、文学に関心があるのなら、その明治伝奇小説の一群の作品は、私は、高く評価されてよいと思っている。山田風太郎は、司馬遼太郎が描かなかった明治、近代日本というものを描き出した作家だと思う。

『憲法サバイバル』上野千鶴子・佐高信2017-06-09

2017-06-09 當山日出夫(とうやまひでお)

ちくま新書編集部(編).『憲法サバイバル-「憲法・戦争・天皇」をめぐる四つの対談-』(ちくま新書).筑摩書房.2017
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480069535/

この本の二つ目の対談は、上野千鶴子と佐高信である。じつにきっぱりとした対談といえる。

憲法、あるいは、改憲をめぐっては、いくつか論点があるが、その中で、緊急事態条項について、言及してあるあたりが、まともな憲法論か。(まあ、それ以外は、左翼的な放談だと思って読めばいいと思う。)

ただ、軍隊は何のためにあるのかについて、次のようにあるところは、見逃すべきではなかろう。来栖弘臣という人(統合幕僚会議議長をつとめた)が書いた『日本国防軍を創設せよ』という本にふれて、

(佐高)「その中に「自衛隊は国民の生命・財産を守るためにあると誤解している人が多い」と書いてある(笑)。」

(上野)「じゃあ、何を守るんですか?」

(佐高)「国の独立と平和を守る。彼らの中では、国民の生命・財産と国の独立・平和は違うんだよ。」

(佐高)「国とは、何とかに基づく伝統意識である。要するに天皇制でしょう。」

以上、p.83

左翼的な立場からの、かなり雑な議論である。そのところを大幅に割り引いて考える必要はあるが、ともかく、国家が何のために武力(軍隊)を持っているのか、ということに問いかけを発していることは確かである。

この対談は、私には、左翼的な与太話としか読めないのであるが、国家が軍事力を持つとするならば、それは何のためにあるのか、また、どのようにコントロールされるべきか、という問題意識を提起しているところは、評価して読むことができようか。

それから、現時点での改憲論議にふれては、最後にある次のような指摘は見ておくべきだろう。

(上野)「(伊勢崎賢治の言っていることとして)今さら「九条を守れ」なんて言うな。世界ではもうとっくに、日本は戦争をする国と思われてしまっている。そこで「九条を守れ」なんて言ったら、世界中にわざわざ「日本は嘘つきの国だ」と言って回るようなものじゃないか。」(p.90)

この指摘には同意できる。だが、そうは言っても、憲法の文言として九条があることが、ある種の歯止めになっていることも、また事実ではあろう。嘘をつくことになるかもしれないが、それでも歯止めとしの九条の役割はあると見るべきだろうか。それとも、実際に軍事力をもっている以上は、それを憲法に位置づけるべきなのであろうか。現在の改憲論議の焦点になっているところである。

ここで出てきた伊勢崎賢治は、次の対談に登場する。

『憲法サバイバル』冨澤暉・伊勢崎賢治2017-06-10

2017-06-10 當山日出夫(とうやまひでお)

ちくま新書編集部(編).『憲法サバイバル-「憲法・戦争・天皇」をめぐる四つの対談-』(ちくま新書).筑摩書房.2017
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480069535/

この章を読んで、一番に感じたことは、ちくま新書の編集部の見識である。この本は、2016年に池袋のジュンク堂でおこなわれた対談を編集したものである。その観点からは、すべての対談を同列にあつかう必要がある。しかし、この本を読むとそうはなっていない。一見すると、同じようにあつかっているようだが、二番目の対談(上野千鶴子・佐高信)とは、あつかいで一線を画している。

単純に使っているページ数をみても、上野千鶴子・佐高信では、25ページほどの分量だが、冨澤暉・伊勢崎賢治では、65ページほどをつかっている。対談時間にそんなに差があったとも思えない。明らかにあつかいの上で差をつけている。

まあ、相変わらずの左翼与太話につきあっている暇はない……というのが、ここまで読んでの感想。逆に言えば、三番目の対談(冨澤暉・伊勢崎賢治)は、読み応えがあり、内容も充実している。(この本『憲法サバイバル』の中におさめるのは惜しい気がする。これだけで独立して一冊にした方がよかったのではないかと思わせる。)

中世が終わり、ナポレオンが出てきてから、国家と国家の戦争がはじまったと指摘する。それは、1945年までつづいた。その後、核兵器によって、戦争が抑止されてきたという現実を直視する観点を導入する。

また、憲法九条に関連して、「交戦権」こそが問題であるという。この「交戦権」については、護憲派の立場からきちんと理解されていないことを述べる。

緊急事態条項については、それを批判的にとりあげるリベラル陣営の側こそが、その本質を理解していないことを言う。

さらに、国連PKOについては、国連が交戦の主体となっている現状を指摘する。そのうえで南スーダンにおけるPKO活動の問題点を指摘する。(この点については、この本で指摘された議論がふかまることなく、日本は撤退ということで、終わってしまっている。)

この対談は、現実に世界の国々が、軍事力をもっていること、そして、現在では、テロリストなど新たな脅威と立ち向かわなければならなくなっている現状を、冷静に見ている。この本で、この対談まで読んでくると、その直前の、上野千鶴子・佐高信の言っていたことが、いかにも空虚に見えてくる。たまたまかもしれないが、そのような編集になっている。この意味では、上野千鶴子・佐高信の対談の最後に、伊勢崎賢治のことばの引用で終わらせているのは、かなり皮肉な編集をしていると感じさせる。

この章を読むためにだけでも、『憲法サバイバル』は買って読んで損はないと思う。