『夜明け前』(第二部)(下)島崎藤村2018-03-09

2018-03-09 當山日出夫(とうやまひでお)

夜明け前(第二部)下

島崎藤村.『夜明け前』第二部(下)(新潮文庫).新潮社.1955 (2012.改版)
http://www.shinchosha.co.jp/book/105511/

続きである。
やまもも書斎記 2018年3月5日
『夜明け前』(第二部)(上)島崎藤村
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/05/8798048

私がこの小説を最初に読んだのは、いつのころだったろうか。高校生のころか、大学生になっていたか。ともかく読んだのは憶えている。それから、数十年がたって再読してみて感じることは……明治維新というできごとを、同時代の感覚でとらえる感性が、この小説の書かれた時(昭和のはじめ)には、まだ残っていたのだな、ということである。

物語は、第二部の下巻に来て、急速に展開する。明治維新をむかえて、半蔵の身の上にも様々なできごとがおこる。半蔵は東京にも行っている。そこで、天皇の行幸の列にとびこむということをする。逮捕され、裁判所からの沙汰を待つ。そして、帰郷。半蔵は、神職となって飛騨の神社に赴く。数年の後、再び馬籠にもどるが、すでに戸長の職にはない。明治維新の結果、本陣も問屋も庄屋もなくなってしまっている。廃仏毀釈がおこる。村には学校ができる。半蔵は、早々と隠居する。その流れのなかにあって、明治維新はこんなはずではなかったという屈折した思いから、半蔵は精神を病むことになる。座敷牢に入れられ、そして最後には、その死を描いて、この長編の物語は閉じる。

第二部(下巻)まで読んで思うことは、「明治維新」……この語が使われるようになったのは、明治になってからしばらくのこと、それまで「御一新」とよばれていた旨の記述が中にある……これにいだいた、平田篤胤門下としての理想が、ことごとく挫折していく、鬱屈した感情である。

この小説『夜明け前』の書かれた昭和のはじめ、「昭和維新」ということが言われていたことは、歴史の知識としては知っている。このことについて、この小説を読むと、ただ、「維新」ということばを流用してきただけのことではなく、「維新」の出来事が、人びとの記憶の延長のなかでとらえられていた時代、まだ人びとの共通の体験としてあったことが、理解される。ここには、「維新」のときにおこったできごとが、まだ生々しい記憶として残っている。言い換えれば、「維新」は歴史上のできごととして、単純に理想化できるものではない。

例えば、明治という時代を語るとき、不平等条約の改正が大きな課題であった。これは、今の我々は忘れてしまっている。ただ歴史の知識としてある。だが、明治の同時代にあっては、日本の背負っている最大の課題の一つであったことになる。このような明治という時代を同時代のものとして考える感覚が、この小説の中の随所に見られる。

また、明治維新を描きながら、それを賛美するだけにおわっていない。確かに明治維新で新しくなり、改革されていくことを描く一方で、理想とした国のあり方はこんなではなかったはずである、という半蔵の思いが描かれる。そして、さらに、山とともにあった信州馬籠の人びとの生活を語るとき、江戸時代からの流れを見ている。江戸時代(享保のころ)は山の森林はどのように管理されていたか、そこから説きおこして新時代にあるべき、人びとの暮らしのあるべき姿を思っている。明治維新を断絶ととらえずに、江戸時代からの流れのなかで見る視点である。

これは、一つには、平田篤胤門下として国学の徒であるという視点もある。だが、それだけではなく、森林の経営と、そこに生きる人びとの生活が、明治維新ごときでどうにかなるものではなく、もっと長期的な視点から見るべきものであるという、その土地に根ざした人間の視点でもある。

このように大きな歴史的スケールのもとに、この小説は語られる。

そして、忘れてはならないのが、文章の素晴らしさである。『夜明け前』の冒頭の一文は、よく知られている。この小説を読むと、特に、木曽地方の山々の風景の描写が美しい。これは、詩人でもあった島崎藤村ならではの、筆の運びであると感じて読んだ。

また、ところどころに書かれる料理も珍しい。人が来たときのもてなし、何か行事があったときの宴会の献立、これらが、簡潔な描写ながら、記されている。このような箇所を読むと、信州の山奥の宿場に住む人びとの生活が、しみじみと感じられる。

ともあれ、明治という時代を語るとき、明治維新150年ということで、歴史として語る視点に、我々はいる。だが、それも、今から数十年前、昭和のはじめごろの人びとにとっては、同時代の体験のうちにあるものであった、このことを再認識させてくれる作品である。『夜明け前』は、日本における自然主義文学の最高傑作の一つとして読まれてもいいが、その一方で、明治維新を記憶のうちにもっていた人びとのことに思いをおよぼしてみることの必要を感じる作品でもある。

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