『西郷どん』あれこれ「斉彬暗殺」2018-03-20

2018-03-20 當山日出夫(とうやまひでお)

『西郷どん』2018年3月18日、第11回「斉彬暗殺」
https://www.nhk.or.jp/segodon/story/11/

前回は、
やまもも書斎記 2018年3月13日
『西郷どん』あれこれ「篤姫はどこへ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/13/8802495

さて、では、犯人は誰なのだろうか、という展開であった。

見どころはいろいろあると思うが、何よりも、西郷の斉彬への忠誠心である。封建的主従関係において、西郷は絶対的な忠誠心を斉彬に対していだいている。その西郷を、斉彬は、お庭方としてつかっている。

西欧列強が迫り来るなか、斉彬には一刻の猶予もない。軍備を固めねばならない。また、将軍の後継を決めなければならない。だが、その一橋慶喜は、将軍になどはなる気はないらしい。

このドラマ……ナショナリズムのドラマとして見ている。少なくとも、そのような面はある。(ただ、私は、ナショナリズムを悪い意味で使おうとは思っていない。)

幕末から明治期にあって、我が国が「日本」として一つにまとまっていく理念として、ナショナリズムは必須のものだった。それを、どのように説得力をもって描くかということになる。

この意味では、今のところ、なんとなく斉彬一人が、日本のナショナリズムを背負っているかのごとくである。これも、立場を変えれば、水戸ならば、水戸なりのナショナリズムがあってもいいのだろう。ただ、それは、歴史の激変のなかでついえていくことになるのだが、ドラマは、まだその前の段階である。

明治期の日本のナショナリズムを描いたドラマとしては、近年では、『坂の上の雲』があった。司馬遼太郎にしたがって、明治期のナショナリズムを、ある意味では健全なものとして描いていた。たぶん、斉彬から、西郷、そして、『坂の上の雲』の登場人物たちは、つながっていくのだろう。その根底にあるものは、パトリオティズム(愛郷心)を基礎とした上にある、素朴なナショナリズムの感情と理念である。

ところで、このドラマが、ここで、斉彬暗殺未遂を描いたということの意図はどこにあるのだろうか。この事件の後、実際に斉彬は死ぬことになる。それは、病死であったのか、あるいは、暗殺であったのか、謎につつまれているようだ。

たぶん、この後におこる斉彬の死の伏線として、今回の出来事があったことになるにちがいないと思って見ている。となると、やはり、斉彬暗殺説ということになるのだろうか。

ともあれ、斉彬のお庭方である西郷が、独自に封建的忠誠心とパトリオティズムとナショナリズムを融合させた一つの人格として育っていくのが、これからの展開ということになるのだろう。そのような西郷の成長の物語が、このドラマの基本にあるように見ている。

そして、そこにからんでくるのが篤姫。篤姫の今後も楽しみである。

追記 2018-03-27
この続きは、
やまもも書斎記 2018年3月27日
『西郷どん』あれこれ「運の強き姫君」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/27/8812513

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