『半分、青い。』における方言(二)2018-05-31

2018-05-31 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2018年4月19日
『半分、青い。』における方言
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/04/19/8829326

ドラマを見ていると……東京に出てきて秋風羽織のもとで漫画家修業にはげむことになった鈴愛は、岐阜方言が抜けていない。これは、まわりの秋風のスタッフの人たちも気付いていることである。このことのドラマとしての意味は、何なのだろうか。

第一には、漫画家をめざすならば、特に、方言は気にならないということなのかもしれない。別に、作品中で方言を使うわけではない。漫画を描く時には、きちんとした標準的な日本語で台詞を描いているようだ。これが、接客業のような仕事をするならば、東京に出てきて岐阜方言のままというのは、問題があるのかもしれない。

第二に、岐阜方言を残しているということは、帰る家があることを意味しているとも理解できる。岐阜には、つくし食堂があり、両親と祖父それに弟がいる。帰ろうと思えば、いつでも帰れる。あるいは、何かあれば、電話がある。この岐阜出身で、いざとなれば帰る場所を持っている、この安心感を感じさせることばでもある。

以上の二点ぐらいが、鈴愛が、いまだに岐阜方言で話していることの、ドラマとしての演出かなと思って見ている。

その一方で、律の方は、すっかり東京方言になっているようだ。いや、むしろ岐阜方言を消して話そうとしている。清と再会したとき、岐阜方言を意図的に消していた。これは、これから、律が東京の人として生きていくことを示唆するものかと思う。鈴愛は、岐阜に帰ることがあるかもしれないが、律は帰ることはないのだろう。

また、理工学部でロボットに関心があるように描かれている。ロボット工学の世界で生きていくとなれば、岐阜出身ということは関係ないだろう。世界に通用することばで生きていくことになる。

しかし、岐阜方言を残している鈴愛は、故郷を背負ってこれから生きていくことを暗示している。それは、自分の心に忠実に生きていく人間の生き方である。今の時点では、このように理解している。自分自身に素直である人間の生き方、これが今の鈴愛の生き方だと思うのである。それを象徴しているのが、岐阜方言である。