『今昔物語集』(四)新日本古典文学大系 ― 2019-03-22
2019-03-22 當山日出夫(とうやまひでお)

小峯和明(校注).『今昔物語集』(二)新日本古典文学大系.岩波書店.1994
https://www.iwanami.co.jp/book/b259644.html
続きである。
やまもも書斎記 2019-03-21
『今昔物語集』(三)新日本古典文学大系
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/21/9049698
『今昔物語集』も、第四冊目になって、いわゆる「世俗」の部分になる。(ただ、この第四冊目の校注者である小峯和明は、解説において「世俗」のことばをさけている。)
この第四冊目になって、印象的なのは、やはり「兵」の登場であろう。『今昔物語集』で最も著名な話しとされる、巻二十三、第十四……どこからともなく現れ、また、どことへもなく消えていく警護の兵。また、巻二十五、第十二……馬盗人を射殺した兵の親子の話。これら、『今昔物語集』において、著名な印象的な話しをおさめる。
まさに「兵」という種類の人びとの登場が、この『今昔物語集』の、まさに中世を予見させるところであろうかと感じる。これは、ただ、ひたすら、順番に『今昔物語集』を読んでいくなかで、あきらかに、仏教や霊験譚、また、鬼神の話しなど、古代を感じさせる話しとは異質なものである。
平安のおわり、古代の末期に書かれた『今昔物語集』において、次の時代である中世を感じさせるところである。
今から思い起こしてみれば、若いとき『今昔物語集』(日本古典文学大系)は、読んだものであるが、天竺の最初から順番にページを繰るということはしていなかったように思う。私が勉強しはじめたころは、すでに日本古典文学大系の『今昔物語集』は完結していて、その「刷」による校注の異同というようなところに、関心が移っていった時期でもある。また、その天竺・震旦と本朝の間のことばの違いというようなことに注目があつまってもいた。とにかく全部のページを繰ることはしていたが、ただテキストを読もうとして、順番には読んで来なかった。
それが、齢七旬に達して、ようやく、『今昔物語集』を最初から順番にページを繰ってみるということをしている。もう『今昔物語集』を題材にして、論文を書こうという気を持っていないせいもある。(とはいえ、新しい校注本を読みながら、いくつかのことばについては、やはり気になるところはあるのだが。)
新日本古典文学大系の本で、天竺から順番に読んできた感じることは、この『今昔物語集』という作品を書いた「作者」の意図、あるいは、その精神、とでもいうべきものである。
「兵」という新しい人びとを描きながらも、その一方では、王朝貴族については今一つ描写が及ばないと感じさせる……例えば『源氏物語』にくらべてであるが……しかし、これは、『源氏物語』が書きえなかった、王朝貴族の周辺にいた雑多な人びと……それが盗人であるかもしれない、また「兵」でもある……を、見事に活写している。この人びとの生き生きとした描写にこそ、『今昔物語集』が、今なお読まれ続けている理由があるのであろう。
https://www.iwanami.co.jp/book/b259644.html
続きである。
やまもも書斎記 2019-03-21
『今昔物語集』(三)新日本古典文学大系
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/21/9049698
『今昔物語集』も、第四冊目になって、いわゆる「世俗」の部分になる。(ただ、この第四冊目の校注者である小峯和明は、解説において「世俗」のことばをさけている。)
この第四冊目になって、印象的なのは、やはり「兵」の登場であろう。『今昔物語集』で最も著名な話しとされる、巻二十三、第十四……どこからともなく現れ、また、どことへもなく消えていく警護の兵。また、巻二十五、第十二……馬盗人を射殺した兵の親子の話。これら、『今昔物語集』において、著名な印象的な話しをおさめる。
まさに「兵」という種類の人びとの登場が、この『今昔物語集』の、まさに中世を予見させるところであろうかと感じる。これは、ただ、ひたすら、順番に『今昔物語集』を読んでいくなかで、あきらかに、仏教や霊験譚、また、鬼神の話しなど、古代を感じさせる話しとは異質なものである。
平安のおわり、古代の末期に書かれた『今昔物語集』において、次の時代である中世を感じさせるところである。
今から思い起こしてみれば、若いとき『今昔物語集』(日本古典文学大系)は、読んだものであるが、天竺の最初から順番にページを繰るということはしていなかったように思う。私が勉強しはじめたころは、すでに日本古典文学大系の『今昔物語集』は完結していて、その「刷」による校注の異同というようなところに、関心が移っていった時期でもある。また、その天竺・震旦と本朝の間のことばの違いというようなことに注目があつまってもいた。とにかく全部のページを繰ることはしていたが、ただテキストを読もうとして、順番には読んで来なかった。
それが、齢七旬に達して、ようやく、『今昔物語集』を最初から順番にページを繰ってみるということをしている。もう『今昔物語集』を題材にして、論文を書こうという気を持っていないせいもある。(とはいえ、新しい校注本を読みながら、いくつかのことばについては、やはり気になるところはあるのだが。)
新日本古典文学大系の本で、天竺から順番に読んできた感じることは、この『今昔物語集』という作品を書いた「作者」の意図、あるいは、その精神、とでもいうべきものである。
「兵」という新しい人びとを描きながらも、その一方では、王朝貴族については今一つ描写が及ばないと感じさせる……例えば『源氏物語』にくらべてであるが……しかし、これは、『源氏物語』が書きえなかった、王朝貴族の周辺にいた雑多な人びと……それが盗人であるかもしれない、また「兵」でもある……を、見事に活写している。この人びとの生き生きとした描写にこそ、『今昔物語集』が、今なお読まれ続けている理由があるのであろう。
追記 2019-03-25
この続きは、
やまもも書斎記 2019年3月25日
『今昔物語集』(五)新日本古典文学大系
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/25/9051184
この続きは、
やまもも書斎記 2019年3月25日
『今昔物語集』(五)新日本古典文学大系
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/25/9051184
最近のコメント