『源氏物語』(七)新潮日本古典集成2019-03-01

2019-03-01 當山日出夫(とうやまひでお)

源氏物語(七)

石田穣二・清水好子(校注).『源氏物語』(七)新潮日本古典集成(新装版).新潮社.新潮社.2014
https://www.shinchosha.co.jp/book/620824/

続きである。
やまもも書斎記 2019年2月28日
『源氏物語』(六)新潮日本古典集成
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/28/9041643

第七巻には、「総角」「早蕨」「宿木」「東屋」の巻をおさめる。いわゆる「宇治十帖」になる。

ここまで読んできて感じることは……やはり、「宇治十帖」の別作者説である。このことについては、いろんなひとがいろんなことを言っているかと思うが、とりあえず、私が読んで感じたところを記すならば次のようになろうか。

それは、同じ作者が書いたとして、とりあえず『源氏物語』の本編(「紫上」「玉鬘」)を書いて、一息おいて、改めて構想を練って筆をとったにちがいない。また、逆に、別の人間が書いたとするならば、よほど『源氏物語』のそれまでの巻に親しんでいる人間であるにちがいない。(このようなひと、紫式部に匹敵するほどの物語の構想力と文章力を持った人物が、他にいただろうか。)

まあ、以上のようなことを思ってみるのだが、少なくとも、「宇治十帖」になって明らかに物語のストーリーの運び、それから、筆致が変わっていることに気付く。『源氏物語』本編でみられたような、あざやかに季節の風物の描写で場面転換を図るということがなくなっている。そのかわりに、延々とした、そして、非常に屈折した心理描写。この屈折した心理描写ということについては、本編を読んでも、「若菜」(上・下)を読んだあたりから、感じるところではあった。

さて、「宇治十帖」では、浮舟が悲劇のヒロインとして登場することになる。これは、文学史の常識として知っていることである。また、若い時に、ざっくりと読んだときのこととしても憶えている。最後の、新潮版の第八巻で、この浮舟、特に、その心理がどのように描写されることになるのか、ここを楽しみに読むことにしよう。

追記 2019-03-02
この続きは、
やまもも書斎記 2019年3月2日
『源氏物語』(八)新潮日本古典集成
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/02/9042336

『源氏物語』(八)新潮日本古典集成2019-03-02

2019-03-02 當山日出夫(とうやまひでお)

源氏物語(八)

石田穣二・清水好子(校注).『源氏物語』(七)新潮日本古典集成(新装版).新潮社.新潮社.2014
https://www.shinchosha.co.jp/book/620825/

続きである。
やまもも書斎記 2019年3月1日
『源氏物語』(七)新潮日本古典集成
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/01/9042032

『源氏物語』五十四帖を読むのに、二週間ぐらいかかっただろうか。途中、一日、家を留守にした以外は、基本的にずっと本を読んできた。全巻を一気に読んでしまったといってよい。

そして、最後に残るのは……文学的感銘である。

若い時にも、『源氏物語』は読んでいる。その後も、折りにふれて手にしてきた作品である。だが、全体を一つの文学作品として順番に通読するというのは、今回がはじめてである。読んでみて、この作品が、日本文学の中で、あるいは、世界の文学の中で高く評価される理由が、自ずと納得されることになる。まさに文学であるとしかいいようがない。

そのラストのシーンについては、若い時に読んだ印象では、なんだか中途半端な終わり方をしているという印象を持ったのを憶えている。しかし、今回、読み直してみて、この作品の終わり方としては、これはまさにこのような形で終わらざるをえない、そのように読めることに気付く。

今回は、新潮の日本古典集成版で読んだ。底本は、青表紙本系統の善本を選んで校訂してある。ただし、表記は歴史的仮名遣いに改めてある。無論、いわゆる平安古文であるので、すぐには意味のとれないところもある。が、これも、最小限の理解は傍注でなんとかなる。また、それでも理解の及ばないところは頭注を読むことになる。

読みながら、宇治十帖のヒロインである浮舟の心中思惟の中にのめりこんで読んでしまっている自分に気付くことがあった。今から千年以上も前に書かれた物語作品であるが、その心理描写に、二十一世紀の今日になって読んで、感銘を覚える。文学が時代を超えて読み継がれるということは、こういう体験を通じてなのであろう。

『源氏物語』のことばについて、いろいろ思うところもある。だが、言語資料として見るよりも、まず、文学作品として『源氏物語』がある、このことの認識を新たにした。これから先、文学を、古典を、読むことに時間をつかっていきたいと思う。

岩波文庫版の『源氏物語』の第五巻がようやく刊行になるようだ。次回は、岩波文庫版で読むことにしようかと思う。

ただ古い作品が古典であるのではない。それが読まれ続けてきた歴史があり、そして、今なお、そのテキストを読むことに文学的感銘を感じる、これこそ古典でなければならない。

『まんぷく』あれこれ「きれいごとは通りませんか」2019-03-03

2019-03-03 當山日出夫(とうやまひでお)

『まんぷく』第22週「きれいごとは通りませんか」
https://www.nhk.or.jp/mampuku/story/index22_190225.html

前回は、
やまもも書斎記 2019年2月24日
『まんぷく』あれこれ「作戦を考えてください」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/24/9039959

どうやらこの週で、チキンラーメン編は終わりになるらしい。

インスタントラーメンを開発したものの、偽物が出てくる。それには、特許を取って対抗しようとする。これは、普通だろう。

だが、このドラマで描いたことのは、その先のことだった。マネをした粗悪な類似品が出回るのをふせぐには、特許を解放するしかない。そのためには、インスタントラーメンの業界団体をつくる。それに加盟するならば、特許が自由に利用できる。

そのために、萬平は東京に行って、国会議員にあって話しをする。食糧庁に顔が利くらしい。そのかいあって、無事に業界団体の設立にこぎつける。

この週、光っていたと思うのは、福子。特許を取って、これで、インスタントラーメンの製造を独占できると自身満々の萬平に、福子は助言する。かつて萬平は、世の中の役にたつ仕事がしたいと言っていた。なのに、特許を独占して一人勝ちになるのを誇るようでは、萬平らしくないと……このような意味のことを語る。

史実はどうだったかは知らないが……ここは、ものづくりで世の中に貢献しようしている萬平という人間を、うまく描いていたかと思われる。ものづくりの理念ということを、再認識させてくれる脚本であったと思う。

そして、次週からは、(チキンラーメン編の次として)カップヌードル編になるようだ。期待して見ることにしよう。

追記 2019-03-10
この続きは、
やまもも書斎記 2019年3月10日
『まんぷく』あれこれ「新商品!?」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/10/9045349

『平家物語』(一)岩波文庫2019-03-04

2019-03-04 當山日出夫(とうやまひでお)

平家物語(一)

梶原正昭・山下宏明(校注).『平家物語』(一)(岩波文庫).岩波書店.1999
https://www.iwanami.co.jp/book/b245703.html

『平家物語』も若いときに、読んだ作品である。これを資料として論文を書いたこともある。が、その後、遠ざかってしまっていた。『源氏物語』を読んだ次に、『平家物語』を最初から順番にページを繰っていきたくなって読んでいる。

昔は、古い岩波の古典文学大系で読んだものである。これは、新しい新日本古典文学大系にもはいっている。岩波文庫版は、これをもとに、表記等を整理したものである。新日本古典文学大系も持っているのだが、気楽に通読するには、文庫版でいいだろうと思って……というよりも、もはや底本の表記とかにいちいち気をとめることなく、割り切って読んでいきたいという気になって、文庫版の方で読んでいる。

文庫版で四巻につくってある。かなり詳細に注がついているのだが、とりあえずストーリーを追っていくには、本文だけ読んでいけばなんとかなる。(無論、国語学的に子細に見れば、この注についても、いろいろと考えるべきところはあるのだが、今回は、そのようなことはあまり考えないことにした。)

読み始めてであるが……古文といっても『平家物語』ぐらいならそう難しいことばも出てこない。固有名詞、引用の出典などは、注に書いてあるのだが、いちいち確認するのはわずらわしいので、ひたすら本文のことばをたどっていく。そこに感じるのは、ある種のことばのリズムである。

『平家物語』が、いわゆる琵琶法師によって語られたということは周知のことであろう。だが、現存するテキストが、語りのテキストそのままであるかどうかは、疑問のあるところのようだ。読み本系といわれるテキストとの交渉など、『平家物語』の成立論をめぐっては、いろいろと議論のあるところらしい(第一巻の解説による)。

そのような知識を前提として読むとしても、この『平家物語』の文章は、読んでいて、心地の良さを感じる。ここには、やはり語られたテキストというものがあってのことであろうか。あるいは、「読む」テキストであったとしても、そこには、耳にして感じるところのなにがしかの言語感覚というものがあったにちがいない。

また、『平家物語』は、歴史の結果がわかってから書かれたテキストであることも重要かもしれない。平家が栄華をきわめて、没落していく、その結果を知っているものの視点から描かれている。

これを現代の歴史観でいうならば、「歴史の必然」とでも言ってしまうところなのかもしれないが、しかし、『平家物語』の作者は、そのような捉え方はしてないようだ。強いていうならば、「運命」……これも、ある意味では現代的な感覚のことばかもしれないが……である。

この意味において、特に印象深く描かれていると感じるのは、重盛である。父・清盛をいさめることになるのだが、結局、そのこともむなしくなってしまう。これも、歴史の結果を知っている人間の視点から懐古して描写にはちがいないが、とどめようもない歴史の流れの中にあって、なんとかそれに抵抗しようとしたかのごとくに描き出されている。

いや歴史の結果を知っているからこそ、そのような重盛の言動こそが際だってくると言った方がいいのかもしれない。

ともあれ、老後の楽しみとしての読書である。次の第二巻を読むことにしたい。

追記 2019-03-07
この続きは、
やまもも書斎記 2019年3月7日
『平家物語』(二)岩波文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/07/9044222

『いだてん』あれこれ「さらばシベリア鉄道」2019-03-05

2019-03-05 當山日出夫(とうやまひでお)

『いだてん~東京オリムピック噺~』2019年3月3日、第9回「さらばシベリア鉄道」
https://www.nhk.or.jp/idaten/r/story/009/

前回は、
やまもも書斎記 2019年2月26日
『いだてん』あれこれ「敵は幾万」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/26/9040869

四三と弥彦は、シベリア鉄道でストックホルムへと向かう。この行きの行程を描いていた。

明治の終わり、日本で初のオリンピック参加となる四三と弥彦であるが、日本という国を背負って参加しているという感じがまったくしない。ナショナリズムを感じさせない、オリンピック参加の物語として、これは確かに異色であると思う。そして、私の見るところでは、この意図は成功していると感じる。(ただ、私は、ナショナリズムを悪いものとは思っていないのだが。)

さりげなく描いていたところであるが、ハルビンで下りた二人。ここで伊藤博文が暗殺されたことを思う。その当時の満州の情勢……各国列強の権益のひしめきあう土地として……描いていた。日露戦争に勝って「一等国」(このことばはこのドラマの中ではつかわれていなかったと思うが)になった日本であるが、しかし、実際に満州の地においては、まだ弱小な存在にすぎない。

シベリア鉄道での旅行は、まさに珍道中としかいいようのないものである。ここをコミカルに、しかし、日本人としての自信を持ったものとして描いてみせたこの回は、私は、実にうまいと思う。日本人はあくまでの日本人である。いたずらに西洋人のマネをして、恰好だけとりつくろってもしかたがない。ただ、ありのままの日本人として、オリンピックに参加して、競技に全力をつくせばいいのである……このような意味のことを、四三は日記に綴っていた。

これは、現代のオリンピックに対する、痛烈な風刺である。一〇〇年以上前のオリンピック、しかも、日本人として初参加のオリンピックを描くことによって、メダルの数を競い、また、商業主義化した、現代のオリンピック……その2020年の東京大会は、もう来年である……を、痛烈に皮肉っている。このようなところが、このドラマの脚本の意図しているところなのであろう。

ところで、この回の最後に出てきた、ストックホルムのオリンピックのスタジアム、これは、その当時のものがそのまま残っているのを使っているはずである。これは、たまたまそうであったということなのかもしれないが、しかし、日本において、新しい国立競技場の建設をめぐる問題を考えるとき、これもまた、来年の2020年の東京大会への批判的まなざしを感じてしまう。

最後に四三は、日の丸が掲揚されることを願う。だが、ここまでこのドラマを見てきて、そのようなことはもうどうでもいいと感じる。ただオリンピックに参加して、マラソンを完走してくれればいい、そのように感じさせた。

そして、シベリア鉄道でも、ストックホルムについてからでも、熊本方言でおしとおしている四三のことばは、故郷の熊本にいるスヤとつながっている。

追記 2019-03-12
この続きは、
やまもも書斎記 2019年3月12日
『いだてん』あれこれ「真夏の夜の夢」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/12/9046269

桜の冬芽2019-03-06

2019-03-06 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので花の写真の日。まだ、梅は咲かない。沈丁花がそろそろ咲き始めたところである。

前回は、
やまもも書斎記 2019年2月27日
木瓜の冬芽
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/27/9041267

この木については、去年も写している。

やまもも書斎記 2018年2月14日
桜の花芽
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/02/14/8787560

我が家にはいくつかの桜の木がある。そのうち、駐車場にある木である。毎年、春になると花をさかせる。特に早くもなく、遅くもなく、といったところであろうか。

その桜の木の冬の間の様子である。冬芽を写そうと思ってみたのだが、実際に写してみて、その写真を見ると、そろそろ春の気配を感じさせるように思える。今年は、去年よりも暖かい。桜の咲くのも早くなるかもしれない。この木に花が咲いたころ、また写真をとりたいと思っている。

去年はD7500で85ミリをつかっていたが、今年はD500で105ミリである。

桜の冬芽

桜の冬芽

桜の冬芽

桜の冬芽

桜の冬芽

Nikon D500
AF-S VR Micro-Nikkor 105mm f/2.8G IF-ED

追記 2019-03-13
この続きは、
やまもも書斎記 2019年3月13日
梅が咲き始めた
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/13/9046628

『平家物語』(二)岩波文庫2019-03-07

2019-03-07 當山日出夫(とうやまひでお)

平家物語(二)

梶原正昭・山下宏明(校注).『平家物語』(二)(岩波文庫).岩波書店.1999
https://www.iwanami.co.jp/book/b245704.html

続きである。
やまもも書斎記 2019年3月4日
『平家物語』(一)岩波文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/04/9043160

岩波文庫は、全部で四巻につくってある。その二巻目まで読んで、全体の前半が終わることになる。ここまで読んだところで、清盛は死ぬ。「あっち死に」である。

『平家物語』についても、最初から順番に読んでおきたいと思って読んでいる。若いときに、全部のページを繰ったことはあるのだが、順番に全部を読み通すということはなかった。あるいは、索引をひいて、その該当箇所を探すということはやっている。そのためにも、全体の概要を知らなければならないので、とにかく読むことには読んでいた。

この年になって……『平家物語』の表現をかりて言えば、「七旬」になって……ただひたすらテキストを読みたいと思って読んでいる。

『平家物語』であれば、強いて現代語訳が必要ということもない。要所要所に注がついていればいい。とはいえ、本文について細かなことをいえば、岩波文庫版の『平家物語』も、やや不満が無いわけではない。ルビが現代仮名遣いにつくってある。これは、これで一つの方針であろうが、どうせなら、開合や四つ仮名などを区別して、歴史的仮名遣いで作っておいてほしいところである。それでも、疑問の残るところは、注に書いてあればいいのだが。

この第二巻を読んで、思うところには付箋をつけて読んでみた。踊り字、「く」がいったい何に対して機能しているか、ちょっと気になった。

短い単位としては、一つの語、あるいは、文字にして二~三文字、に対して機能することになる。だが、そうではない例もいくつか見いだせる。

例えば、

「六位や候」とあって、「く」とある。これは、「六位や候、六位や候」と、かなり長い単位に対して機能していると判断される。このような箇所、他にもいくつか見いだせる。(p.58)

このことが気になっているのは、『徒然草』の「猫またよや」のあとの「く」の判読についてである。「猫またよや、よや」なのか、「猫またよや、猫またよや」なのか……若いとき、山田忠雄先生のもとで勉強していたとき、話題になったこととして記憶している。

ただ、二文節以上の繰り返しが、すべて「く」であるかというとそうでもない。

「竜王やある、竜王やある」のように表記されている例もある。(p.196)

岩波文庫の本文から、これ以上のことは言えない。これ以上のことを考えるためには、底本となった本の原本か複製本などで、表記の実態を見るしかない。あるいは、新日本古典大系本の本文である程度のことは言えるかもしれないが。

それから、「しおじお」が出てきたので付箋をつけた。

「八重の塩路を」(p.22)

なぜこの箇所が気になったかというと、

やまもも書斎記 2017年5月20日
『椰子の実』の歌詞を誤解していた
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/20/8567357

「やえのしおじお」……この箇所、『平家物語』に従って解釈するのならば、「塩路を」ということになる。

『平家物語』と島崎藤村を結びつけて考える人もあまりいないかと思って、ここに書いておく。

一つの文学作品として『平家物語』をここまで読んだ印象としては、まさに歴史の変化を「運命」ということばであらわしている文学である、ということである。「運命」のことばは、この作品中にもでてくる。

「運命の末になる事あらはなりしかば」(p.322)

「運命」ということばの意味していることは、現代の我々とは違っているのかもしれない。しかし、そうは思ってみても、歴史の進歩とか変革とかという概念になじんでいる現代の我々からすれば、「運命」ということばで平家の没落と源氏の勃興を見ていた時代の人びとに思いをはせておきたい気がする。

追記 2019-03-08
この続きは、
やまもも書斎記 2019年3月8日
『平家物語』(三)岩波文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/08/9044547

『平家物語』(三)岩波文庫2019-03-08

2019-03-08 當山日出夫(とうやまひでお)

平家物語(三)

梶原正昭・山下宏明(校注).『平家物語』(三)(岩波文庫).岩波書店.1999
https://www.iwanami.co.jp/book/b245705.html

続きである。
やまもも書斎記 2019年3月7日
『平家物語』(二)岩波文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/07/9044222

岩波文庫版で第三巻まで読んできて、平家の劣勢は決定的なものになる。そして、最終的に勝つことになる源氏、負けることになる平家、この両者の死闘がここでは描かれる。

読んで感じるところを書いておくならば、次の二点だろうか。

第一には、この第三巻(巻七~九)でも、「運命」の語がでてくる。

「源氏は、近年よりこのかた、度々のいくさに討勝ッて、運命ひらけんとす。なんぞ当山ひとり、宿運尽きぬる平家に同心して、運命ひらくる源氏をそむかんや。」(p.64)

源氏が勝ち、平家が負けることになるのは、「運命」によっているのである。『平家物語』の「作者」にとって、「運命」とはいったいどんなものとしてとらえられていたのだろうか。

第二に感じるところは、多くの合戦・戦闘の場面があるのだが、素朴な疑問として、いったい何故、このような凄惨というべき戦闘の場面が、文章として残っているのであろうか、ということ。あながち『平家物語』のでっちあげということもでもないだろう。それを見聞していた誰かがいたにちがいない。そして、それを『平家物語』という文学に書いた「作者」がいたことになる。

激動の歴史のなかにあって、いったいどのような人間が、源平の争乱の有様を記録して、文章化して、残す……このようなことになったのだろうか。

非常に素朴な疑問であるが、これを強く感じる。

これは、『源氏物語』のような女房の世界、王朝貴族の世界とも違う。また、『今昔物語集』のような説話の世界ともちがっている。いったいどのような人間が、この『平家物語』のような、戦闘と諸行無常の、そして「運命」の文学を書いたのだろうか。

以上の二点が、岩波文庫版の第三巻を読んで思うことなどである。次は、第四巻になる。平家は滅ぶことになる。それはどのような「運命」なのか、読んでみることにしよう。

追記 2019-03-09
この続きは、
やまもも書斎記 2019年3月9日
『平家物語』(四)岩波文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/09/9044925

『平家物語』(四)岩波文庫2019-03-09

2019-03-09 當山日出夫(とうやまひでお)

平家物語(四)

梶原正昭・山下宏明(校注).『平家物語』(四)(岩波文庫).岩波書店.1999
https://www.iwanami.co.jp/book/b245706.html

続きである。
やまもも書斎記 2019年3月8日
『平家物語』(三)岩波文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/08/9044547

第四巻まで読んで、私の読後感としては、『平家物語』というのは、「運命」の物語である、と強く感じる。強いて対照的に見るならば、『源氏物語』は「宿世」(すくせ)の物語であるのかもしれない。

例えば、次のような箇所。

「天竺・震旦にも、日本我朝にもならびなき名将、勇士といへども、運命尽きぬれば力及ばず。」(p.188)

これは、平知盛の言ったことばである。その知盛は、その最期のシーンで、かの有名なことばを語ることになる。

「見るべき程の事は見つ。今は自害せん。」(p.212)

まさにこの知盛のことばのなかに『平家物語』が凝縮されていると感じて読むのは、やや古風にすぎるだろうか。

現代の『平家物語』の理解としては、源氏と平家と様々な人びとが織りなす群像劇のように、そして、その人びとがどうしようもなく動かされてしまうことになる「歴史」というもの、このように理解するのが、一般的であるのかもしれない。

ともあれ、「見るべき程の事は見つ」というならば、『平家物語』の「作者」としては、「語るべき程の事は語りつ」とでも言いたいのではないだろうか。源平の争乱の中にあって、この世の中でおこるべきことのすべてを見つくして、それを語りつくしたものとして『平家物語』があることになる。

今回、岩波文庫版(四巻)で読んでみたのだが、この作品は、新日本古典文学大系版でも読んでおきたいと思う。また、説話、歴史といったジャンルの古典作品を読んでみたい。

『まんぷく』あれこれ「新商品!?」2019-03-10

2019-03-10 當山日出夫(とうやまひでお)

『まんぷく』第23週「新商品!?」
https://www.nhk.or.jp/mampuku/story/index23_190304.html

前回は、
やまもも書斎記 2019年3月3日
『まんぷく』あれこれ「きれいごとは通りませんか」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/03/9042740

萬平は、「発明家」あるいは「ものづくりの人間」であると思う。

たしかに、今では、会社も大きくなり、萬平もその社長として仕事をしている。が、萬平の人間としての本質は、やはり「発明家」「ものづくりの人間」である。

まんぷくラーメンの次の商品の開発のアイデア……カップにはいっていてお湯をかければ食べられる……これは、海外の市場も視野にいれた商品である。今の我々は、カップヌードルの存在を知っている。これは、考えて見れば、インスタントラーメンが世に出て以来の画期的な新商品であった。今や、カップヌードルは、生活の中に浸透している。

だが、そのカップヌードルというアイデア、それを商品化する開発のプロセスは、一筋縄ではいかない。いろいろと紆余曲折があったようである。

そのひとつは、やはり、萬平という人物像にあるだろう。「発明家」ではあるが、企業の開発チームを統括する役割は、また違っている。企業という組織の中における人間、これは、朝ドラのようなドラマでは、描くところが難しいところかもしれない。

「発明家」であると同時に、企業人であるべき萬平という人物をこれからどう描いていくことになるのだろうか。また、同時に、家庭においては父親である。そして、それを、ささえる、まさに「内助の功」としかいいようのない存在として、福子がいることになる。

このドラマも、あと一ヶ月をきっている。最後、カップヌードルの開発にむけて、どんなドラマが展開するか、楽しみに見ることにしよう。

追記 2019-03-17
この続きは、
やまもも書斎記 2019年3月17日
『まんぷく』あれこれ「見守るしかない」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/17/9048189