『今昔物語集』(五)新日本古典文学大系2019-03-25

2019-03-25 當山日出夫(とうやまひでお)

今昔物語集(五)

森正人(校注).『今昔物語集』(五)新日本古典文学大系.岩波書店.1996
https://www.iwanami.co.jp/book/b259645.html

続きである、
やまもも書斎記 2019年3月22日
『今昔物語集』(四)新日本古典文学大系
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/22/9050091

『今昔物語集』を、新日本古典文学大系版で、第一巻から順番に読んできて、ようやく第五巻を読み終わった。『今昔物語集』の全巻を読むのは、久しぶりである。若いときには、昔の日本古典文学大系で読んだ。それから、折に触れて手にすることはあったとはいうものの、今回は、天竺のところから、ひたすら順番に読んでみた。

読み終えて感じるところは次の二点であろうか。

第一に、巻二十七である。怪異譚をおさめる。

昔、若いとき、『今昔物語集』を読むとき、この巻二十七は、読むのが怖かったのを憶えている。どうということのない昔の話しではあるのだが、読んでいて、鬼気迫るものがその文章の行間からたちのぼってくる。今回も、この巻二十七については、思わずその作品のなかにのめりこんで読みふけってしまうところがあった。(まあ、昼間、明るいときに自分の部屋でよんだのだが、今回は、あまり怖いと感じるところななくてすんだのだが。)

文章を読んで本当に怖いと感じるものとして、私の場合、『遠野物語』(柳田国男)がある。前にも書いたと思うが、実は、私は、『遠野物語』を全部読んでいない。怖いからである。

『今昔物語集』、『遠野物語』、時代を異にする作品ではあるが、その文章の力とでも言うべきものを感じずにはいられない。華美な文章というのではない。実に素朴な文章である。しかし、そこで語られる怪異譚には、心の底から恐怖を感じるところがある。

第二に、「説話」というのは、近代になってから確立した、文学史のジャンルであること。

もし『今昔物語集』が無かったならば、今日のように、説話というものが、日本文学史の中のひとつのジャンルとして確立したものとしてあっただろうか。『日本霊異記』『宇治拾遺物語』などだけでは、ちょっと難しいのではないかと感じる。やはり、『今昔物語集』があってのことである。

この近代における、説話という文学史の位置づけには、おそらく、芥川龍之介に代表されるような文学者の作品が寄与しているにちがいない。いや、今の目で、『今昔物語集』を読んで、芥川を意識してしまう。

ただ、新日本古典文学大系の校注には、これは当然のことかもしれないが、芥川龍之介などについての言及はない。しかし、読んでいくと、ああこれが、『羅生門』の、『藪の中』の、『六の宮の姫君』の、『芋粥』の、出典になった話しであると、感じ取りながら読むことになる。これは、近現代になってからの、『今昔物語集』の新しい読み方なのかもしれない。

以上の二点が、今回、『今昔物語集』を読んでみて感じるところである。

もう『今昔物語集』を題材にして、論文を書こうという気をもっていない。とはいえ、読みながら気になることば、語法、表現、というものはあるのだが、それらのうちいくつかには付箋をつけてはみたが、ただ、それだけのことである。ただ、純然とした、読書の楽しみとして『今昔物語集』を読むことにした。

続けて、日本の古典文学について、ただ読書として読んでいきたいと思っている。




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