『1Q84』BOOK2(前編)村上春樹2019-04-01

2019-04-01 當山日出夫(とうやまひでお)

1Q84(3)

村上春樹.『1Q84』BOOK2(前編)(新潮文庫).新潮社.2012(新潮社.2009)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100161/

続きである、
やまもも書斎記 『1Q84』BOOK1(後編)村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/29/9052759

いったい「1Q84」の世界とは何なのか、小説を読むにしたがって、その章を追っていくにしがたって、謎は深まる。

この第三冊目になっても、青豆と天吾の章が交互に語られる。基本的に交わるところがないのだが、ふと交錯するところがでてくる。それが、いったい何なのか、青豆と天吾の正体はいったい何なのか、読み進むごとに謎がどんどんと深くなっていく。そして、新たに登場した不気味な宗教教団のリーダーとはいったい何者なのか。

村上春樹の小説の文章の魅力は、言うまでもなくその文体の描き出す世界にある。これは、ただひとつの世界を描くのではなく、世界が反転するような、あるいは、世界が一枚ずつベールを剥がされていくような、そしてその向こうにまた別の世界の謎があるような、そのような文体である。

青豆と天吾の二つの物語が触れあう瞬間に、二つの世界が震撼し亀裂が生じる。

このような文体について、なるほどこのような文体で世界を描くことが「文学」なのか、そう思えるようになってきた。私も年をとったということなのかもしれない。しかし、この文体になじめない人にとっては、ただ退屈なだけに終わってしまうだろうが。

世界を反転してみせるような村上春樹の小説世界、これが達成しているものは、おそらく「平成」という時代と深くかかわっているのかもしれない。それが、どのような時代であったのか、平成の時代ももうじき終わろうとしている。その平成の最後の段階になって……そういえば、次の年号が公表されるのは今日(平成31年4月1日)である……平成の文学としての『1Q84』を読んでおきたい。

追記 2019-04-04
この続きは、
やまもも書斎記 2019年4月4日
『1Q84』BOOK2(後編)村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/04/9055285

『いだてん』あれこれ「復活」2019-04-02

2019-04-02 當山日出夫(とうやまひでお)

『いだてん~東京オリムピック噺~』2019年3月31日、第13回「復活」
https://www.nhk.or.jp/idaten/r/story/013/

前回は、
やまもも書斎記 2019年3月26日
『いだてん』あれこれ「太陽がいっぱい」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/26/9051551

四三は、マラソンを走ることができなかった。その経緯について触れた回であった。

この回、これまでの放送を見て感じることは……オリンピックは、参加することに意義がある、平和の祭典として開催することに意義がある、というメッセージである。

無論、勝つにこしたことはないであろう。だが、その勝負の相手は、他の国、選手ではない。記録との戦いである。

四三も、他の国の選手も……その中には、ラザロもふくまれる……それぞれの国を代表して参加している。そのプレッシャーも、もちろんある。だが、国のためだけに競技に参加しているのではない。他国の選手とともに、公正に戦い記録にいどむ、そのオリンピック精神、スポーツの精神のために参加している。

たしかにこのドラマでは、これまで、国というものを登場させてきている。日の丸も、また、各国の国旗も出てきている。だが、これが、ナショナリズムを感じさせる作り方にはなっていない。ナショナリズムよりも、さらに強いものとして、各個人のオリンピックへの思いが描かれていたように感じる。(ただ、私は、ナショナリズムを悪いものだとは思っていないのだが。)

オリンピックの精神を語れば語るほど、来年の2020年の東京オリンピックへの批判として見えてくる、という感じがしてならない。それほどまでに近年のオリンピックは、当初のオリンピック精神から離れてしまっているということなのであろう。

次週は、一回休みになるようだ。この回で、ストックホルム編は終わりということになる。日本で最初のオリンピック参加というできごとを描きながら、このドラマでは、近代日本におけるスポーツの黎明と、そこにおける様々な個々人の思いを語っていたのだと思う。

次の回から、時代は大正になって、いよいよ近代日本のスポーツを描くことになるようだ。

ところで、この回においても思ったことなのだが、どうにも、志ん生の落語家の部分が面白くない。作中で演じる落語も今一つという感じだった。近代日本というものを、距離をおいて見る視点として、志ん生という存在があると思うのだが、まだそれは、近代というもの、スポーツをというものを相対化して見るところにいたっていない。

たかがオリンピック、たかがメダル、と言い切るだけの毒をもった存在としての、ビートたけしの起用であったと思っているのだが、まだその本領を発揮するにいたっていない。

次回以降を楽しみに見ることにしよう。

追記 2019-04-16
この続きは、
やまもも書斎記 2019年4月16日
『いだてん』あれこれ「新世界」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/16/9060306

木瓜の花2019-04-03

2019-04-03 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので花の写真。今日は木瓜である。

前回は、
やまもも書斎記 2019年3月27日
山茱萸の花
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/27/9051950

この木瓜(ぼけ)の木については、まだ冬のうちに写真を撮っている。

やまもも書斎記 2019年2月27日
木瓜の冬芽
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/27/9041267

木瓜の花が咲いている。赤い花である。

三月になって温かくなってくると、木瓜、梅、沈丁花、梅などの花が順次咲いていく。桜の花の開花は、去年よりも遅いようだが、だいたい平年なみといったところであろうか。もう梅の花が終わり、桜が咲き始めている時期になる。木瓜はちょうど満開である。

掲載の写真は、先週のうちに写しておいたものである。写真にとるとなると、なかなか形のいい花が少なくて苦労する。ちょっと距離をおいて写してみることにした。

毎日、朝起きて、太陽が昇って明るくなったころに外に出る。何かしら、庭の花の写真を写す、そんな生活をつづけている。今は、桜の花が咲いていく様子を撮っているところである。しばらくすると、山吹、それから、藤の花がさくだろうか。これらも今年も順番に写真に撮っていくつもりでいる。

木瓜

木瓜

木瓜

木瓜

木瓜

Nikon D500
AF-S VR Micro-Nikkor 105mm f/2.8G IF-ED

追記 2019-04-10
この続きは、
やまもも書斎記 2019年4月10日

http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/10/9057854

『1Q84』BOOK2(後編)村上春樹2019-04-04

2019-04-04 當山日出夫(とうやまひでお)

1Q84

村上春樹.『1Q84』BOOK2(後編)(新潮文庫).新潮社.2012(新潮社.2009)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100162/

続きである、
やまもも書斎記 2019年4月1日
『1Q84』BOOK2(前編)村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/01/9054067

たしか、この小説が単行本で発売になった時、この「BOOK2」までが先に出たはずである。その後、しばらくしてから、「BOOK3」の刊行になった。この意味では、『1Q84』という小説は、この「BOOK2」で一区切りと言ってもいいのかもしれない。

まさにそのように読める。最初の青豆のシーン、首都高でのタクシーの描写が、ここで、ひとまわりまわって再登場する。そして、青豆と天吾の二つの物語が、この第三冊目になって、一つに融合する。「1984」の世界ではなく、「1Q84」の世界であること。「1Q84」の世界のなかで、『空気さなぎ』、リトル・ピープル、二つの月……これらが、ひとつの世界のなかに、しかし、これまでの世界とは反転した世界のなかで融合する。

ところで、この小説の中に「猫の町」という作品が登場する。これは、どうしても、『猫町』(萩原朔太郎)を思い浮かべてしまうのだが、このような読み方は間違っているだろうか。

しかし、この「BOOK2」の終わり方は、『猫町』がそうであるように、ある種の散文詩とでもいった方がいい。言い換えれば、リアリズムの描写ではない、ということである。そして、散文詩として読んで、その詩情はあくまでも奥深いものがある。

『1Q84』をここまで読んで来て感じることは、この作品は、散文詩であるということである。少なくとも、私がこの作品に感じるのは、リアリズムの現実的描写ではなく、散文詩の詩情である。

この読み方がどうなのか、次の第五冊目を楽しみに読むことにしよう。

追記 2019-04-05
この続きは、
やまもも書斎記 2019年4月5日
『1Q84』BOOK3(前編)村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/05/9055671

『1Q84』BOOK3(前編)村上春樹2019-04-05

2019-04-05 當山日出夫(とうやまひでお)

1Q84(5)

村上春樹.『1Q84』BOOK3(前編)(新潮文庫).新潮社.2012(新潮社.2010)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100163/

続きである、
やまもも書斎記 2019年4月4日
『1Q84』BOOK2(後編)村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/04/9055285

私は、基本的にSFは読まないことにしている。が、この作品、「BOOK3」になって、ふと違和感を感じる。これは、壮大な叙述トリック……あるいは、パラレルワールドではないのだろうか。「BOOK2」の首都高のシーンから反転して、別の世界に紛れ込んでしまったのではないのか、そのような印象を持つ。その世界が、「1Q84」(「1984」ではなく)なのではないのだろうか。

読んでいって感じるのは、この物語は、ある意味で荒唐無稽である。だが、読んでいくと、ふと我知らずそのストーリーの中にはいってしまっていることに気付く。そして、時折ではあるのだが、非常に抒情的なシーンがでてくる。散文詩のように。

ただ、この小説が刊行された時の事情は記憶している。「BOOK1」「BOOK2」が先に出て(2009年)、その一年後に「BOOK3」が刊行になった(2010年)。その間、一年ほど空いている。この間に何があったのだろうか。

また、この小説は、ある不気味な宗教教団……カルトと言ってもいいか……が登場する。平成という時代、ある宗教教団の起こした事件はあまりにも有名である。その事件のことを、この小説はふまえていないわけはない。だが、読んでいって、少なくとも私には、そのようなことは特に気にならなくなっている。これはこれとして、一つの確固とした小説世界を構築している、そのことだけは言える。

が、ともあれ、ここまで読んで来て、残るは、一冊になった。最後まで読み切ってしまおう。最後に、青豆と天吾がどのような結末をむかえるこになるのか、楽しみに読むことにしよう。

追記 2019-04-06
この続きは、
やまもも書斎記 2019年4月6日
『1Q84』BOOK3(後編)村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/06/9056096

『1Q84』BOOK3(後編)村上春樹2019-04-06

2019-04-06 當山日出夫(とうやまひでお)

1Q84(6)

村上春樹.『1Q84』BOOK3(後編)(新潮文庫).新潮社.2012(新潮社.2010)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100164/

続きである、
やまもも書斎記 2019年4月5日
『1Q84』BOOK3(前編)村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/05/9055671

読み終わった。先に書いたように、村上春樹の小説は、若いころにいくつか手にした記憶があるのだが、それほど熱心な読者になるということもなく、今まで来てしまった。平成が終わるときにあたって、村上春樹を読んでおきたくなって読んだ。

『1Q84』の全編を読んで感じることは、次の二点だろうか。

第一には、やはりこれは、パラレルワールドの話しであったということ。読みながら、何となくそんな予感があったのだが、結末のところにいたって、別の世界に移動することになる。そして、その世界の入り口は、例の首都高である。

第二には、この作品にどことなくただよっている詩情である。ストーリーの展開は、ある意味でどうでもいい。この作品が、ふとしたところで描いてみせる、きわめて抒情的なシーン。

『1Q84』は、『猫町』(萩原朔太郎)を意識していると感じさせる。ふとした瞬間に、この世界が反転してネガがポジになるような、あるいは、上下がひっくり返って別の世界にほうりこまれるような、そんな場面が、いくつかある。

この意味……強いていえば、散文詩的要素とでもいえようか……この作品のストーリーの展開は、どうでもいいことのように思える。荒唐無稽であっても、それで十分なのである。リアリズムの作品として読んではいけない。詩情を感じながら読むべき作品である。

以上の二点が、この『1Q84』を読んで感じるところである。

たぶん、これは、平成という時代を代表するにふさわしい作品である。もはやリアリズムの手法では描くことのできない、この世界というもの。まさに、失われた時代というべき平成にふさわしいと感じる。

平成の次の時代、村上春樹はどんな作品を書いていくことになるのだろうか。その前に、これまでの村上春樹作品、まずはその長編を読んでおきたいと思う。次は、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』である。

追記 2019-04-09
この続きは、
やまもも書斎記 2019年4月9日
『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/09/9057420

『なつぞら』あれこれ「なつよ、ここが十勝だ」2019-04-07

2019-04-07 當山日出夫(とうやまひでお)

『なつぞら』第1週「なつよ、ここが十勝だ」
https://www.nhk.or.jp/natsuzora/story/01/

開拓者精神のドラマであると思う。

この週の放送で印象的だったのは、柴田家のじいさんの泰樹(草刈正雄)となつが帯広の街でアイスクリームを食べるシーン。そこで、泰樹は語っていた……きちんと仕事をすればむくわれる。堂々と生きていけ……このような意味のことを、アイスクリームを食べながらなつに語りかけていた。

おそらく、このシーンは、歴代の朝ドラの中で記憶に残る名場面となるにちがいない。

泰樹は開拓者である。自分自身の力で、堂々と生きようとしている。そして、なつにも、そのように生きることを教えている。

今後、ドラマでは、なつは戦後日本においてアニメーションの世界で活躍することになるはずである。新しい世界における開拓者である。その開拓者としての生き方を、幼いなつは、泰樹から学んでいる。

まさに朝ドラの王道を行く作りになっていると感じる。

次週、まだ幼いなつをめぐっていろいろあるようだ。この新しい朝ドラも楽しみに見ることにしよう。ナレーション風に言うならば……なつよ、開拓者たれ、と言いたくなるドラマである。

追記 2019-04-14
この続きは、
やまもも書斎記 2019年4月14日
『なつぞら』あれこれ「なつよ、夢の扉を開け」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/14/9059453

『おしん』あれこれ2019-04-08

2019-04-08 當山日出夫(とうやまひでお)

NHKのBSで朝ドラ再放送で、『おしん』を放送している。第一週が終わったところである。見ていて思ったことなど書いてみたい。

私は、『おしん』の放送の時は見ていない。たしか、そのころの私は、テレビも持っていなかったのでなかろうか。だが、この朝ドラが、世の中の話題になっていることは知っていた。

10年ほど前になるだろうか、一週間ごとにまとめて再放送したことがあった。これは、録画しておいて、ほぼ毎回を見ていた。私が、『おしん』の全話を見たのは、これが最初ということになる。

今回の再放送であるが、とりあえず、第一週を見て思うことは……かつて日本にはこのような時代があったのだという、ある種の感慨のようなものである。その時代とは、まさに幼い時のおしんのような境遇であり、また、年取ってからのスーパーの経営者としての生き方でもある。それは、今ではもう過去のことになった高度経済成長期の日本である。

再放送を見て感じたことであるが、このドラマは、現代(放送時)からスタートしている。年取ったおしん(乙羽信子)が、家を出るところからはじまる。ここで、視聴者は、おしんとともに、その過去をさかのぼることになる。

その過去は極貧の小作農の生活である。しかし、いずれ、おしんはこの境遇から脱却して、会社の経営にもたずさわり、家族にもめぐまれている、その現在の様子が描写されている。だから、貧乏な境遇にあるおしんの姿を見ても、どこかで安心して、その行く末を見ることができる。(しかし、その人生は安穏なものではないことを、知ってはいるのだが。)

『おしん』ほど、世界に名の知られた日本のドラマはないであろう。最近では、アニメなどが海外で話題のようだが、それ以前は、おそらく、日本のテレビドラマとしては、まず『おしん』が知られていたはずである。

たしかに、『おしん』は、「近代」の日本のある姿を描いていると思う。そのような生活があり、暮らしがあり、社会の制度があり……だが、そのようななかから、高度経済成長の時代を迎えて、現代日本の繁栄とでもいうべきものがある。

やはり、『おしん』は、日本の国民的ドラマとして、これからも残っていくにちがいないと思う。いや、そうでなければならないとも思う。かつての日本の人びとの暮らしに、このドラマのようなことがあったということは、忘れられてはならない。

追記 2019-04-22
この続きは、
やまもも書斎記 2019年4月22日
『おしん』あれこれ(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/22/9062890

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』村上春樹2019-04-09

2019-04-09 當山日出夫(とうやまひでお)

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

村上春樹.『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文春文庫).文藝春秋.2015(文藝春秋.2013)
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167905033

『1Q84』につづけて読んだ。

やまもも書斎記 2019-04-06
『1Q84』BOOK3(後編)村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/06/9056096

私は、これまであまり村上春樹の書いたものを読んでこなかった。若い時にそのいくつかの作品を手にしたことはあるのだが、その後、読者になることすぎてしまった。だから、村上春樹の世評が高いことは知ってはいるが、その評価の内実ということにはとんとうとい。

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読んで感じること、それは、主人公のつくるが、駅を作っていることへの関心である。駅……それは、現代において、〈境界〉を意味する空間かもしれない。かつて、古代から中世において、河原や橋や峠などが、この世とあの世、この世界と別の世界、その分岐点であり、それらをつなぐ存在であったように。このようなことは、民俗学、あるいは、民族学において、常識的な見解だろう。

駅をとおって、人は旅に出る。移動する。別の空間に向かう。この現代の〈境界〉とでもいうべき駅をつくる主人公が設定されているのは、どういう理由によるのだろうか。別にこの小説の主人公の仕事が駅を作ることでなくても、たとえば銀行員などであっても、十分にこの小説はなりたつのかもしれない。しかし、読後感としては、やはり、駅でなければならない何かがあるように感じさせる。

村上春樹の文章を読んで思うことは、読み進むにしたがって、この世界から、ひとつベールを隔てた別の世界に迷い込むような感覚である。あるいは、街をあるいていて、角をまがるごとに、別の風景が展開するとででもいうべきだろうか。

この小説において、主人公のつくるは、ある謎を追っていく。そして、旅に出る。旧友と再会する。だが、その結果は、何も得られていないようである。謎の真相があきらかになるということはない。謎は謎のままである。だが、そこに不満は感じない。読んで感じるのは、主人公の旅の充足感である。

あるいは、その先の世界を感知するギリギリのところに位置しながら、立ち止まっている、何かしら奇妙な感覚とでもいうべきだろうか。その向こうの世界への漠とした予感のようなもの。それを感じながら、そこで立ち止まっている、何かしら不思議な感覚。

駅にはさまざまな人のながれがある。その生活がある。旅がある。その〈境界〉の場所である駅に、主人公は魅了されている。多くの人びとの結節点であり、分岐点である駅。その駅にたたずむことが、主人公の位置する場所ということになる。

この小説は、現代において人びとをひきつけるだけの魅力をもっている。

追記 2019-04-11
この続きは、
やまもも書斎記 2019年4月11日
『海辺のカフカ』(上)村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/11/9058266

2019-04-10

2019-04-10 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日は花の写真。桜である。

前回は、
やまもも書斎記 2019年4月3日
木瓜の花
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/03/9054844

我が家の桜も、もう散りかけている。掲載の写真は、先週のうちに撮っておいたものである。桜の花の満開の時期というのは、ほんのわずかの間である。その咲き始めから、散っていくまでの様子を、写真に撮っている。

去年にくらべると今年は、いろんな花の咲くのが遅い。去年の写真を見ると、この時期には、藤の花が咲き始めていたし、ヤマブキの花も咲いていた。今年は、まだ咲きそうな気配がない。来週ぐらいから、花の種類も増えるかと思っている。

桜

桜

桜

桜

桜

Nikon D500
AF-S VR Micro-Nikkor 105mm f/2.8G IF-ED
AF-P DX NIKKOR 70-300mm f/4.5-6.3G ED VR

追記 2019-04-17
この続きは、
やまもも書斎記 2019年4月17日
スノーフレーク
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/17/9060713