映像の世紀プレミアム第12集「昭和 激動の宰相たち」2019-03-11

2019-03-11 當山日出夫(とうやまひでお)

NHK映像の世紀プレミアム 第12集 昭和 激動の宰相たち
http://www4.nhk.or.jp/P4235/x/2019-03-09/10/15092/2899077/

3月9日の放送を録画しておいて、翌日(10日)に見た。

思うところを、思いつくままに記してみる。

「映像の世紀」はNHKの良心である……このようなことばを目にしたことがある。この意味において、この番組を見てその印象をつよく持つ。

岸信介は、自分の判断の結果は歴史が決めてくれるだろう、という意味のことを語っていた。だが、その判断が正しかったかどうかどうか、このことの答えはまだ出ていないのではないのだろうか。高度経済成長の時代には、軍備をアメリカに依存する安保体制は、ある意味で評価されたことかもしれない。だが、その後、平成の時代になった、失われた時代を経ることになって、その評価もゆらいできているように思えてならない。

近衛文麿は自殺している。近衛について、私が憶えていることは、確か、武田泰淳の『政治家の文章』(岩波新書)のなかで、近衛の書いたものについて触れてあったかと思う。また、その自殺の知らせを聞いた昭和天皇の言ったことば、「近衛はよわいね」、どの本で読んだのだろうか、憶えている。松本健一の著作においてであったろうか。

東条英機については、ある種の歴史観からすれば、日本を対米戦争にひきづりこんだ張本人ということになるのだろうが、歴史の流れを見るならば、これは、首相の判断で回避できたことのようには思えない。いや、絶対にアメリカとは戦争をしないという決意を持つことはできたかもしれないが、では、その当時の世界情勢の中で具体的にどうすればよかったのか、その答えは簡単ではないように思えてならない。

吉田茂は、1955(昭和30)年生まれの私には記憶がない。しかし、歴史の知識としては知っている。確かに、昭和の戦後の政治を語るうえで、その存在は大きなものがある。その死去の時のことはニュースになったのを記憶している。

昭和の時代の首相として、とりあげるとするならば、戦後には、佐藤栄作がいることになるが、ここまでは描かない方針であったようだ。それから、田中角栄もいる。が、ここは、戦前の満州事変から60年安保までを、一つの歴史として見ていることになる。これはこれで一つの見方だと思う。

昭和戦前の首相としては、近衛文麿、東条英機、このあたりが出てくるのは当然だろう。が、東条英機で終わりにして、戦前・戦中までを描くとなる、東条英機を悪役にしておわりになってしまう。その東条のおこした戦争、特にアメリカとの戦争の決着を戦後になってどう始末をつけるかとなると、吉田茂、岸信介といったところまで描くことにならざるをえない。

などなど、思うことはいくつかあるのだが……結局は、歴史における個人の役割、とは何であるのか、という思いが去来する。首相として権力の頂点にあって、国の舵取りをする立場にある。だが、そのような立場にあっても、それでも、どうにもできない歴史の流れのようなものがあるのかもしれない。

この番組において登場していないのが、昭和天皇である。これは、意図的にそのように編集して作ってある。昭和天皇こそが、まさに昭和史の最重要の人物であるにちがいないのだが、ここは、あえて昭和天皇を登場させないことにしたようだ。

そして、やはり最後に感じるのは……時の権力者である首相の判断と、国民の思い、それから、歴史の流れ、これらを総合的に考えてみるならば……現政権への批判的まなざしが、この番組を見たあとに感じたところである。

『いだてん』あれこれ「真夏の夜の夢」2019-03-12

2019-03-12 當山日出夫(とうやまひでお)

『いだてん~東京オリムピック噺~』2019年3月10日、第10回「真夏の夜の夢」
https://www.nhk.or.jp/idaten/r/story/010/

前回は、
やまもも書斎記 2019年3月5日
『いだてん』あれこれ「さらばシベリア鉄道」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/05/9043522

ストックホルムについた四三と弥彦、彼らは孤独だった。これは、ナショナリズムではなく、ヒューマニズムのドラマである。

印象的だったのは、「君が代」を歌うシーン、それから、最後の四三のことば、「日本」としてほしい(JAPANではなく)。これら、一見すると、ナショナリズムに傾きがちな題材であるが、まったくそれを感じさせない。そのような脚本であり、演出である。

このドラマが始まったときから感じていたのは、やはりオリンピックにまつわるナショナリズムをどのように描くか、あるいは、描かないか、ということである。今のところ、日本で最初のオリンピック参加ということでストックホルムについた、四三と弥彦はナショナリズムとは無縁であるかのごとくである。すくなくともナショナリズムを背負っているようには描かれていない。

それよりも、彼らを悩ませるのは、なれない異国での生活、そこでの孤独な練習……たぶん、夏目漱石の英国留学の時のことばをつかっていうならば「神経衰弱」とでもいうべき、精神的な負担。だが、それは、日本の代表としての気負いによるものではない。もっと、人間的な、ひとりの人間として、異国において感じる不安のようなものである。

この人間としての孤独感を描くことによって、このドラマは、ナショナリズムを払拭している。その中にあって、四三は、弥彦とちがって、日本を強く意識しているようだ。だが、その四三のことばは熊本方言である。熊本という日本の一つの地方のリージョナリズムをもちこむことによって、日本という国へのナショナリズムを、それと強く感じさせない作り方になっている。

日本、日本人とオリンピックという題材のドラマではあるが、そこで描いているのは、あくまでもひとりの人間として、オリンピックというものにどう立ち向かっていくかという、ヒューマニズムと精神のドラマである。

ところで、ここまで見てきて思うことなのだが、落語家(志ん生)の部分が、今ひとつ面白くない。まあ、確かに、オリンピックにまつわるナショナリズムを、毒をもって制すという意味で、ビートたけしの起用ということになったのだろうと思っているのだが、いまのところ、その毒が効果を出しているとは思えない。これは、たぶん、これから登場する、人見絹枝とか前畑秀子とかのあたりを描くときに、たかがメダル、たかが日の丸、ということになるのかもしれない。

次回、オリンピックの開催になるようだ。楽しみに見ることにしよう。

追記 2019-03-19
この続きは、
やまもも書斎記 2019年3月19日
『いだてん』あれこれ「百年の孤独」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/19/9048972

梅が咲き始めた2019-03-13

2019-03-13 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので、花の写真。今週は、花である。我が家にある梅の木がようやく花を咲かせ始めた。だいたい三月の中旬にならないと花をさかせない。

前回は、
やまもも書斎記 2019年3月6日
桜の冬芽
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/06/9043856

見ていると、木の上の方、陽当たりのいいところからまず花が咲く。しかし、高いところに咲く花なので、写真にとるのはちょっと難しい。それが、だいたい目の高さのあたりのつぼみが、花を開きはじめた。この高さに咲く花でないと、マイクロのレンズで接写することができない。

例年、各地の梅のたよりがテレビのニュースで流れるようになっても、まだつぼみのままである。それが、やっと写真のとれるようなところで花を咲かせるようになった。

この梅が咲いて、次は木瓜の花が咲くだろうか。今はまだつぼみである。それから桜が咲くようになる。沈丁花はすでに花が咲いている。この春も、花の写真を写していきたいと思っている。

写した写真は、ホワイトバランスの調整だけしてある。写したとき、ちょうど日陰になる位置にあるので、ホワイトバランスを調整しないと、青みがかった色になってしまう。実際の梅の色よりやや明るいかなというぐらいにしてある。花の写真をとるとき、基本的にカメラまかせにしているのだが、ホワイトバランスの調整だけは必要と感じるので、RAW画像を処理している。

梅

梅

梅

梅

梅

Nikon D500
AF-S VR Micro-Nikkor 105mm f/2.8G IF-ED

追記 2019-03-20
この続きは、
やまもも書斎記 2019年3月20日
梅が咲いた
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/20/9049299

第30回「東洋学へのコンピュータ利用」に行ってきた2019-03-14

2019-03-14 當山日出夫(とうやまひでお)

東洋学へのコンピュータ利用

2019年3月8日は、京都大学で恒例の「東洋学へのコンピュータ利用」の第30回のセミナーがあったので行ってきた。

今回は、発表件数が少なく、午後からだった。昼前に家を出て駅まで送ってもらう。近鉄と京阪をのりついで、出町柳まで。途中、昼食をすませて会場の人文科学研究所に行った。

東洋学へのコンピュータ利用第30回研究セミナー
http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/seminars/oricom/2019.html

今回も文字の発表が多かった。それから、前回に引き続き図書館学の発表もあった。

文字についていえば、今は、ユニコードで文字(漢字)が増えすぎていると言ってもよいのかもしれない。しかし、それでも、特定の文献……古典籍、古辞書など……をコンピュータでとりあつかうためには、足りない文字がある。それをどうするか、これからの課題である。ユニコードに提案するというのが、本筋なのであろうが、そのためには、その文字の必要性、それから、確固たる典拠の説明、これをどうしていくか、考えなくてはならないことが多くあるように感じた。

そして、そもそも「文字」(漢字)というものを、どのように定義するのか、これもまた根本的なところから問いなおされなければいけない問題でもある。

質疑応答もかなり活発で、充実した研究会であった。

終わって、だいたいいつものようなメンバーで、百万遍近くのお店で懇親会。いろいろと話しをして……しかし、何を話したのが憶えていないが……比較的早めに終わって帰ることにした。家に帰ったら、10時ごろになっていた。

次回は、変則的に、7月26日に、東京の立川の国立国語研究所で開催である。

『大鏡』新潮日本古典集成2019-03-15

2019-03-15 當山日出夫(とうやまひでお)

大鏡

石川徹(校注).『大鏡』新潮日本古典集成(新装版).新潮社.2017
https://www.shinchosha.co.jp/book/620831/

『大鏡』を読み直すのは、ひさしぶりである。以前は、岩波の古典大系本で読んだかと憶えている。新しくなった新装版の新潮日本古典集成で読むことにした。

この新潮版は、底本は東松本。ただ、その本文校訂の方針は、既存のそれまでの『大鏡』の注釈書を意識して、かなり批判的な立場である。そのような箇所は、頭注などに記してあるので、それを参照しながら読んだ。国語学的に見て、ちょっとどうかなという箇所が無いではなかったが、全体としては、良質な校訂本文になっていると感じる。

が、ともあれ、国語学的に何かものを言おうと思って読んでいるのではない。古典を読みたいと思って読んでいる。

読んで感じることは、六国史を意識した歴史書として書かれていることである。だが、その「歴史」として何を記述するかとなると、藤原摂関家の栄華の歴史、そうなる必然性の説明とでも理解できるだろうか。

また、その一方で、感じることは、説話的な面白さである。この『大鏡』の中のエピソードのいくつかは、まさに説話といってよい。おそらく、大寺院での法要などで人びとがあつまったような時、おのづから語られたものとしての説話ということを考えてみてもいいだろう。

そのなかにあって、特に印象深いのは、花山院の話し。「狂ひ」ということばで表現してあるが、まさに花山院の「狂ひ」にまつわる話しは、興味深い。

それから、これは、国語史として有名な事例。犬の鳴き声の擬音語で「ひよ」とある。

文学史的な常識的な知識からするならば、歴史物語ということになるのだが、今回、読んで見ての印象としては、あまり「歴史」を感じない。むしろ説話的なものを強く感じる。「歴史」ということを、人びとが強く意識するようになるのは、やはり、平安末から鎌倉にかけての激変の時代を通ってからのことになるのかもしれない。

『今昔物語集』(一)新日本古典文学大系2019-03-16

2019-03-16 當山日出夫(とうやまひでお)

今昔物語集(一)

今野達(校注).『今昔物語集』(一)新日本古典文学大系.岩波書店.1999
https://www.iwanami.co.jp/book/b259641.html

『源氏物語』『平家物語』と読んで、次に『今昔物語集』を読んでおきたくなった。

私の専門領域は、国語学ということになる。それを学んだのは、学生のとき……慶應義塾大学にはしかるべき先生がいなかったので、大学の外で、山田忠雄先生のもとで学ぶことになった。

山田先生のもとで、国語学、特に、文献学的な国語史を学ぶとなると、『今昔物語集』(日本古典文学大系)は、必須だった。私が、勉強を始めたころは、すでに古典大系の刊行も終わっていたのだが……このシリーズは、なかなか一筋縄ではいかない……他の古典大系の本とちがって、「刷」によって、校注の内容が異なる。

これは、『今昔』の校注、研究を進めるにしたがって、新たに得た知見によって、先に刊行した巻であっても、「刷」が新しくなるときに、手をいれてある。だから、大学図書館などにはいっているのは、概ね「初刷」ではいっているが、一般の書店などで買うと、新しい「刷」のものを買うことになる。だから、『今昔』の古典大系の本文といっても、どの「刷」によったかで変わってくる、ということがある。

渋谷にあった先生の研究室での研究会のとき……『今昔物語集』はそなえてあった。何かのときに、その『今昔物語集』を何気なく手にして、ぱらぱらとページを繰って、ほらここにこのように用例がある、と示してくださるようなことが何度となくあった。

無論、私も、古典大系の『今昔物語集』は買ってそろえた。そして読んだ。そこから学び取るべきものがあるとすれば……それは、『今昔物語集』の校注にしめされた、批判的精神とでも言うしかないものである。

確かに『今昔物語集』は、それとして読んで面白い読み物ではある。だが、それをより一層知的な営みとして高めているのは、それを解読していく学問的姿勢にある。いたずらに本文を読みやすく改編したりしないで、ひたすら本文の示していることばの世界に、実証的にせまっていく。

そんな『今昔物語集』からとおざかってしまって久しい。齢七旬に達して、再度、古典を読み返しておきたくなって、手にすることにした。昔、学生の時に買った本も今でも手元にある。が、ここは、新しい新日本古典文学大系のテキストで読むことにした。

新日本古典文学大系の第一冊目は、「天竺」の巻である。読んでみての印象は、昔の古典大系の校注の姿勢を継承している、そして、そのうえに、各説話の典拠となった文献を考証することによって、その読みを深めている。

まずは、新しい新日本古典文学大系版で読んでおきたい。通読である。ただ、ひたすらテキストを追っていく。必要に応じて、脚注に目をやる。『今昔物語集』を読む、という世界で時間をつかっておきたい。これが楽しみの読書でなくてなんであろうか。

追記 2019-03-18
この続きは、
やまもも書斎記 2019年3月18日
『今昔物語集』(二)新日本古典文学大系
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/18/9048584

『まんぷく』あれこれ「見守るしかない」2019-03-17

2019-03-17 當山日出夫(とうやまひでお)

『まんぷく』第24週「見守るしかない」
https://www.nhk.or.jp/mampuku/story/index24_190311.html

前回は、
やまもも書斎記 2019年3月10日
『まんぷく』あれこれ「新商品!?」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/10/9045349

この週は、まんぷくヌードルの話し。

まんぷくヌードルを、一つ100円で売るとして、それに入れる具を考えることになる。ここで登場してきたのが、フリーズドライという製法だった。今では、フリーズドライということばも身近なものになっている。

世の中に、カップヌードルが登場した時のこと、どうだったろうか。かすかに記憶にあるような、ないような、微妙なところである。ただ、新しいインスタントラーメンの形として、このようなものがあるのか、と思ったのは憶えている。

これも、考えてみれば画期的な新商品である。ただ、お湯を入れるだけでできる。また、その味も、画期的であったといえるかもしれない。それまでの、ラーメンの味の概念をくつがえすものであった。個人的には、その後に発売になった、シーフードの方が好みではあるのだが。

ともあれ、カップヌードルの発明は、それまでのインスタント食品の世界に革命をおこすようなものであったことになる。このあたりの斬新さと、その開発の苦労を描いていた。このドラマを見て、カップヌードルがいかにすぐれた発明であり、新商品であったのか、認識をあらためることになったというのが、正直なところでもある。

だが、その開発の苦労話だけでおわるのではなく、立花家の人びと……特に、幸の失恋がからんでいた。会社の社長として、また、家庭の人としての萬平であった。仕事一筋に打ち込んでいるように見えるが、その実、家族のことも気にしている。

次週、いよいよまんぷくヌードルの完成にいたるようだ。だが、鈴さんが困ったことになるらしい。思い起こせば、鈴さんは、第一回の時から毎回登場していたのではなかったろうか。どうなるか、楽しみに見ることにしよう。

追記 2019-03-24
この続きは、
やまもも書斎記 2019年3月24日
『まんぷく』あれこれ「できました!萬平さん!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/24/9050807

『今昔物語集』(二)新日本古典文学大系2019-03-18

2019-03-18 當山日出夫(とうやまひでお)

今昔物語集(二)

小峯和明(校注).『今昔物語集』(二)新日本古典文学大系.岩波書店.1999
https://www.iwanami.co.jp/book/b259642.html

続きである。
やまもも書斎記 2019年3月16日
『今昔物語集』(一)新日本古典文学大系
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/16/9047787

第二冊目には、巻六~巻十(巻八欠)を収める。「震旦」つまり今のことばでいえば、中国の話しをあつめてある。『今昔物語集』のことばについて、その前半部、巻一~五(天竺)、巻六~十(震旦)の部分と、後半部、本朝については、ことばが異なるというのは、国語学、国語史として常識的なことがらだろう。

が、これがあきらかなものとなったのは、特に、古い古典大系の校注の仕事を通じてであったということも、忘れてはならないことでもある。そして、『今昔物語集』を読む面白さは、それにおさめられた説話の数々を読むことの面白さもあると同時に、その校注を読んでいくことの知的な面白さにある、と言っても過言ではないと私は思う。この意味で、古い古典大系の『今昔物語集』は、昭和戦後の古典の校訂、校注、国語学的研究のなかで、群を抜いている。

この第二冊目、中国の話しをあつめてある。それも、仏教説話というべきものが多い。そのせいか、読んでみて、話しとして面白いと感じるものはそう多くないというのが、一般的な理解かもしれない。だが、『今昔物語集』という作品全体を理解するためには、なぜ、「震旦」という部分があるのか、その当時の「作者」の、歴史・地理についての理解がどんなであったか、そこのところへの想像力が必要になってくる。「震旦」の部分も、しかるべき理由があって編纂されたものである。

ただ、私個人の興味・関心からして興味深いのは、「長恨歌」の話しがはいっていることである。巻十、第七話。一般に、「長恨歌」は、白楽天の作。白氏文集巻十二におさめられている。今では、その古鈔本「金沢文庫本白氏文集」(鎌倉写)が、影印本で読める。鎌倉の写本であるが、その読み(訓点)は、平安時代にさかのぼって考えることができる。

「長恨歌」は、『源氏物語』などに多大の影響がある。和漢の比較文学においては、最重要の位置をしめる作品のひとつである。

さて、「長恨歌」を論じるとき、純然たる漢籍(中国文学作品)として読む方法がある。また、日本で読まれた訓点資料として見る立場もある。また、『源氏物語』などへの影響を考えて読むこともできる。そして、『今昔物語集』などにおける説話の世界で、この作品を読むこともできる。

これらは、平安時代のおわりごろ、意外と近いところにあったのではないだろうか。だが、今、「長恨歌」を読むとき、中国文学、訓点語学、平安物語文学、説話文学……これらの研究分野の間にさかんに交渉があるということではない。むしろ、研究分野の細分化・専門化にともなって、分断されてしまっている方向にむかっているともいえる。

もう、国語学という分野からは退きたくなって、ただ楽しみとして本を読んでいるのだが、そのような立場にたって読んでみて、はじめて、上述の諸々のジャンルにまたがったものとしての、「長恨歌」とその日本での受容の世界の一端が見えてきたような気がする。

そう思ってみれば、「長恨歌」という作品自身、かなり説話的である。『今昔物語集』に収録されていることを考えて見るならば、平安時代の人びと……王朝貴族や女房などの人びと、さらには『今昔物語集』の周辺に位置するような人びと……にとって、かなり親しみやすい、説話的世界の話しとして読まれていたことを想像することもできようか。

追記 2019-03-21
この続きは、
やまもも書斎記 2019年3月21日
『今昔物語集』(三)新日本古典文学大系
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/21/9049698

『いだてん』あれこれ「百年の孤独」2019-03-19

2019-03-19 當山日出夫(とうやまひでお)

『いだてん~東京オリムピック噺~』2019年3月17日、第11回「百年の孤独」
https://www.nhk.or.jp/idaten/r/story/011/

前回は、
やまもも書斎記 2019年3月12日
『いだてん』あれこれ「真夏の夜の夢」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/12/9046269

オリンピックへの参加は、プレッシャーがつきものである。そのことを否定はしていない。しかし、それを乗り越えるものとして、オリンピックに参加することの充足感を描いた回であった。弥彦は、短距離走で惨敗する。だが、そこには、自己充足があった。負けて悔いはなかった。

日本で初のオリンピック出場、それをナショナリズムを感じさせない描写になっている。「NIPPON」も日の丸も出てくるのだが、それを相対化して見せているのは、このドラマの脚本と演出の巧さということになるのだろう。

橘家円喬(志ん生の師匠)は言っていた……なんで好き好んでストックホルムまで行って、かけっこをするのか、と。

四三は、ストックホルムについても、熊本方言のままである。JAPANではなく、日本であることを主張しているのだが、そのことばは、いわゆる標準的な日本語(共通語)になってはいない。この四三の、熊本に対するパトリオティズム(愛郷心)、リージョナリズム(地方主義)が、日本という国についてのナショナリズムを相対化していることになる。

ただ、このドラマを見ていて感じることは……オリンピックの理念……参加することに意義がある……を強く語れば語るほど、現在の、商業主義的な、また、メダル至上主義的な、オリンピックのあり方に対する批判となっていることである。あるいは、まだ、ストックホルムの段階だからこそ、オリンピックについての精神を高らかに語ることができるといえるのかもしれない。

これが、この次の時代、例えば、人見絹枝とか、前畑秀子とかが出てくる時代になれば、国家というもののプレッシャーは、大きくなりこそすれ、純粋に競技に参加することに意義があるという理念は、難しいものになるのかもしれない。日本で最初のオリンピック参加だからこそ、ただひたすらに参加することに意義がある、との理念を語ることができているようにも思える。

オリンピックへの参加は、必然的に日本という国を背負ったものになる。そこには、プレッシャーがある。しかし、それがあるとしても、一人の人間として、オリンピック競技に参加することに意義がある、このことを語って見せたのが、今回のドラマであるといえるだろう。

次週は、いよいよマラソンになるようだ。楽しみに見ることにしよう。

追記 2019-03-26
この続きは、
やまもも書斎記 2019年3月26日
『いだてん』あれこれ「太陽がいっぱい」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/26/9051551

梅が咲いた2019-03-20

2019-03-20 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので花の写真。ちょうど梅の花が咲いている。

前回は、
やまもも書斎記 2019年3月13日
梅が咲き始めた
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/13/9046628

去年の今ごろも同じ梅の木の花を写している。
やまもも書斎記 2018年3月21日
梅の花が咲いた
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/21/8807678

先週に引き続いて、庭の梅の木である。三月の中旬になって、温かくなってくると、一斉に花がひらく印象がある。紅の八重咲きである。この木の花は、近寄って見るよりも、遠くから赤い花が咲いているのをながめている方が、きれいに見えるように感じる。

桜の花も、近所の早咲きの桜は開花しているようだが、我が家の桜はまだ咲かない。木瓜の花もそろそろかという感じになってきた。沈丁花の花が、ちょうど満開の時期である。また、地味な花ではあるが、山茱萸も黄色い花をひらきはじめた。

これから、春になって、花の写真を写していくことができればと思っている。

『徒然草』にある。「花はさかりに月はくまなきをのみ見るものかは」。花の満開のときは美しい。が、それと同時に、まだ花の咲く前の様子、花が散っていく様子、これらにもこころをいたしていきたいものである。

梅

梅

梅

梅

梅

梅

Nikon D500
AF-S VR Micro-Nikkor 105mm f/2.8G IF-ED

追記 2019-03-23
この続きは、
やまもも書斎記 2019年3月23日
桜の花芽
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/23/9050405