『今昔物語集』(一)新日本古典文学大系2019-03-16

2019-03-16 當山日出夫(とうやまひでお)

今昔物語集(一)

今野達(校注).『今昔物語集』(一)新日本古典文学大系.岩波書店.1999
https://www.iwanami.co.jp/book/b259641.html

『源氏物語』『平家物語』と読んで、次に『今昔物語集』を読んでおきたくなった。

私の専門領域は、国語学ということになる。それを学んだのは、学生のとき……慶應義塾大学にはしかるべき先生がいなかったので、大学の外で、山田忠雄先生のもとで学ぶことになった。

山田先生のもとで、国語学、特に、文献学的な国語史を学ぶとなると、『今昔物語集』(日本古典文学大系)は、必須だった。私が、勉強を始めたころは、すでに古典大系の刊行も終わっていたのだが……このシリーズは、なかなか一筋縄ではいかない……他の古典大系の本とちがって、「刷」によって、校注の内容が異なる。

これは、『今昔』の校注、研究を進めるにしたがって、新たに得た知見によって、先に刊行した巻であっても、「刷」が新しくなるときに、手をいれてある。だから、大学図書館などにはいっているのは、概ね「初刷」ではいっているが、一般の書店などで買うと、新しい「刷」のものを買うことになる。だから、『今昔』の古典大系の本文といっても、どの「刷」によったかで変わってくる、ということがある。

渋谷にあった先生の研究室での研究会のとき……『今昔物語集』はそなえてあった。何かのときに、その『今昔物語集』を何気なく手にして、ぱらぱらとページを繰って、ほらここにこのように用例がある、と示してくださるようなことが何度となくあった。

無論、私も、古典大系の『今昔物語集』は買ってそろえた。そして読んだ。そこから学び取るべきものがあるとすれば……それは、『今昔物語集』の校注にしめされた、批判的精神とでも言うしかないものである。

確かに『今昔物語集』は、それとして読んで面白い読み物ではある。だが、それをより一層知的な営みとして高めているのは、それを解読していく学問的姿勢にある。いたずらに本文を読みやすく改編したりしないで、ひたすら本文の示していることばの世界に、実証的にせまっていく。

そんな『今昔物語集』からとおざかってしまって久しい。齢七旬に達して、再度、古典を読み返しておきたくなって、手にすることにした。昔、学生の時に買った本も今でも手元にある。が、ここは、新しい新日本古典文学大系のテキストで読むことにした。

新日本古典文学大系の第一冊目は、「天竺」の巻である。読んでみての印象は、昔の古典大系の校注の姿勢を継承している、そして、そのうえに、各説話の典拠となった文献を考証することによって、その読みを深めている。

まずは、新しい新日本古典文学大系版で読んでおきたい。通読である。ただ、ひたすらテキストを追っていく。必要に応じて、脚注に目をやる。『今昔物語集』を読む、という世界で時間をつかっておきたい。これが楽しみの読書でなくてなんであろうか。

追記 2019-03-18
この続きは、
やまもも書斎記 2019年3月18日
『今昔物語集』(二)新日本古典文学大系
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/18/9048584

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