『1973年のピンボール』村上春樹2019-05-06

2019-05-06 當山日出夫(とうやまひでお)

1973年のピンボール

村上春樹.『1973年のピンボール』(講談社文庫).講談社.2004 (講談社.1980)
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000203631

『風の歌を聴け』につづけて読んだ。
やまもも書斎記 2019年5月4日
『風の歌を聴け』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/05/04/9068083

読後感をひとことでいえば……これは傑作である。文学である。そして、詩である。

何よりもこの作品には詩情を感じる。この意味では、小説というよりも、散文詩といった方がいいかもしれない。

そういえば、私が村上春樹をふと読み始めた(再読をふくむ)のは、『1Q84』からであった。『1Q84』を読んで感じたのは、まさに散文詩、詩情である。

近代の文学史を通覧してみると、「詩」というものが頂点をきわめたのは、萩原朔太郎においてであったかもしれない。(あまりに通俗的理解かもしれないが。)少なくとも。萩原朔太郎以降、近代の憂愁とでもいうべき詩情は、日本の文学から影をひそめているように思える。

だが、ここで、村上春樹を読んで、特にその初期の作品を読んで感じるのは、萩原朔太郎につながる詩情にほかならない。私は、これを強く感じる。

そして、この作品が、「1973」という年を明記したタイトルになっている意図は何なのであろうか。この作品の発表は、1980年である。その当時において、1973年はどんな意味を持っていたのか。

おそらくは、70年安保以降の、ある種の精神的な空白である。この時期、私は、高校生から大学生を過ごしていることになる。ふりかえってみて、1980年のころの、精神的、文化的な雰囲気を思うとき、そこには、一種の脱力感があり、そして、その反面、ある種の充足感のようなものもある、複雑な文化的時空間であったように回想される。

この時代を、散文詩として、詩情豊かに描ききっていると読める。

これは、もう二十一世紀になって、かつての政治の季節の終焉をふりかえって感じる、過去への追想のようなものかもしれない。

文学者が、何よりも詩人であるとするならば、村上春樹は、まごうことなき近代の詩人である。

追記 2019-05-09
この続きは、
やまもも書斎記 2019年5月9日
『羊をめぐる冒険』(上)村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/05/09/9070215

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