『光る君へ』「星落ちてなお」2024-04-08

2024年4月8日 當山日出夫

『光る君へ』第14回「星落ちてなお」

兼家が死んだ。病死なのか、それとも呪詛によるものなのか。このドラマでは、呪詛が本当に力を持っているようだ。ならば、生き霊とか、物の怪とか、これから活躍するだろうか。

しかし、平安時代の貴族の死生観はどんなものであったか、あまりに現代的に描きすぎのような気もする。この時代ならば、浄土思想、極楽往生の考え方はあったはずだが、あまりそのような気配はない。また、死をけがれとして描くこともしていない。これは、このドラマの方針のようである。

人殺しは悪であり、罪である。しかし、死はけがれではない。このあたりの価値観は、いかにも現代的という感じがする。

制作の予算の都合でそうなったのか、そのように考証したのか、見ていると宮中の天皇の玉座よりも、藤原の屋敷の方が豪華に見える。

まひろの家は貧乏である。しかし、貴族でもある。ちょっと貧乏すぎるかと感じるところもある。実際のところはどうだったろうか。

まひろ(紫式部)とききょう(清少納言)の会話は、もしあったとしたらということなのだが、こんなものだったのだろうかと思う。

それから気になるのは、まひろが字を教えていること。この時代の庶民としては、文字など知らなくて十分に生きていけたかと思う。また、身分差はあったには違いないが、今日で感じるような階級差としては意識されていなかったかもしれない。社会のシステムとして、身分の違いというものは厳然としてあったにはちがいないが、それぞれがそのなかで充足して生きていたと考えることもできよう。

文字を読める=貴族=支配者=豊か、文字が読めない=庶民=被支配者=みじめ、という図式的な構図では、古代、中世の人々の精神世界をとらえることができないと、私は思っている。文字にたよらないコミュニケーションと精神文化の世界を想像できなくなっているのが、むしろ文字によって貧しくなった現代人の想像力であるかもしれない。

『万葉集』の時代、その詠まれた歌は、基本的には文字によらないものであった。それが、後に漢字を使って日本語を書くことが可能になって、文字に記されて、最終的に書物になり、現代では、それを文字で書いた書物として詠んでいる。だが、そもそもが文字の無い時代の日本語の歌であったことを忘れてはならない。

どうでもいいが、伊藤敏恵アナウンサーの声で、独裁が始まった、と言われると「映像の世紀」を見ている気分になる。

2024年4月7日記

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
このブログの名称の平仮名4文字を記入してください。

コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://yamamomo.asablo.jp/blog/2024/04/08/9674086/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。