ドキュメント72時間「国道4号線 ドライブインは眠らない」 ― 2024-04-09
2024年4月9日 當山日出夫
ドキュメント72時間 国道4号線 ドライブインは眠らない
この番組としては、食堂シリーズといっていいだろうか。この前は、アイスクリーム屋さんだった。同じNHKの「サラメシ」もそうなのだが、人がものを食べているところというのは、それがおいしそうに食べている場合であれば、何かしら見ている側も幸福感を感じることができる。これは何故だろう。食べるということが、人間が生きていくことの根底にかかわることからなのかもしれない。
テレビの歴史、あるいは、映画の歴史をふくめてになるが、人間がものを食べる場面とは、どのように扱われてきたのか……これは、面白い研究テーマかもしれない。(あるいは、すでにあるのかもしれないが。)
ホームドラマというのは最近では無くなってしまったが、居間に卓袱台があって家族みんなで御飯を食べる。まあ、今では、朝ドラのなかではよく出てくる場面設定である。一緒に御飯を食べるということに、何か意味を感じるようになっているのだろう。
国道沿いのドライブインである。そんなに劇的な人生ドラマがあるというのではないのだが、しかし、そこで食事をしている人には、それぞれの人生がある。ごく普通に生きている人の、普通の生活とはこんなものなのだろうと思うことになる。いわゆるグルメというのではなく、ありふれた食べ物である。お弁当であっても、焼き芋であっても、鯛焼きであっても、アイスクリームであっても、それを食べている人を見るだけで、なんとなく気持ちが休まる。
最後に出てきていた、母と娘。世の中の人情というものを感じる。
2024年4月6日記
ドキュメント72時間 国道4号線 ドライブインは眠らない
この番組としては、食堂シリーズといっていいだろうか。この前は、アイスクリーム屋さんだった。同じNHKの「サラメシ」もそうなのだが、人がものを食べているところというのは、それがおいしそうに食べている場合であれば、何かしら見ている側も幸福感を感じることができる。これは何故だろう。食べるということが、人間が生きていくことの根底にかかわることからなのかもしれない。
テレビの歴史、あるいは、映画の歴史をふくめてになるが、人間がものを食べる場面とは、どのように扱われてきたのか……これは、面白い研究テーマかもしれない。(あるいは、すでにあるのかもしれないが。)
ホームドラマというのは最近では無くなってしまったが、居間に卓袱台があって家族みんなで御飯を食べる。まあ、今では、朝ドラのなかではよく出てくる場面設定である。一緒に御飯を食べるということに、何か意味を感じるようになっているのだろう。
国道沿いのドライブインである。そんなに劇的な人生ドラマがあるというのではないのだが、しかし、そこで食事をしている人には、それぞれの人生がある。ごく普通に生きている人の、普通の生活とはこんなものなのだろうと思うことになる。いわゆるグルメというのではなく、ありふれた食べ物である。お弁当であっても、焼き芋であっても、鯛焼きであっても、アイスクリームであっても、それを食べている人を見るだけで、なんとなく気持ちが休まる。
最後に出てきていた、母と娘。世の中の人情というものを感じる。
2024年4月6日記
アナザーストーリーズ「SHIBUYA文化革命 渋谷が若者の街になった」 ― 2024-04-09
2024年4月9日 當山日出夫
アナザーストーリーズ SHIBUYA文化革命 渋谷が若者の街になった
一九七〇年代の半ばから、東京に住んでいた。一〇年以上になる。慶應義塾大学の学生であったから、当然のごとく渋谷の街には行った。
私が学生になったとき、すでにPARCOはあった。だが、そこで買物をしたというような経験はない。公園通りという名称は、すでにその名前であったと思うが、特にそれと意識して歩いたということはない。
私が東京にいたころの渋谷は、たしかにファッションの最先端の街であったかと思う。いや、そのころだと、一つ隣の原宿の方が有名だったかとも思うが。
渋谷にあった書店……紀伊國屋、旭屋、大盛堂……など、よく行ったものだが、今ではもう昔の面影はない。
109のビルが出来たときのことは記憶にある。しかし、そのビルに入ったことはない。むしろ、その隣にあった小さな居酒屋が、印象に残っている。頑として土地を売らなかったのだろう、ビルの隣でボロになった建物で営業を続けていた。そのころの私としては、109のビルを建てた東急よりも、その居酒屋の方をこころよく思ったものである。まあ、天邪鬼だったのである。
大学の学部の学生のころから、山田忠雄先生のところで勉強した。その研究室が渋谷にあった。基本的に隔週で夜に研究会があった。そこへ行く途中、ストリップ劇場の前を通る。どこか猥雑さを残した街でもあった。
渋谷という街を、若者文化の街と意識して歩いたことはない。番組で言っていた、ギャルの街になったころには、東京を離れてしまっていたこともある。
もう東京に行くことにそれほどないと思う。渋谷に行ってもたぶん道に迷うだけであろう。特に行ってみたいというところでもなくなっている。雑然とした猥雑さのある、サラリーマンと学生の街という渋谷は、もう過去のものになってしまったのであろう。
ただ、番組であつかっていたPARCOを中心とした西武文化というべきものは、時代の大きな流れのなかにあって、価値のあるものであったことになる。その時代の空気というものは、なんとなく憶えている。
2024年4月5日記
アナザーストーリーズ SHIBUYA文化革命 渋谷が若者の街になった
一九七〇年代の半ばから、東京に住んでいた。一〇年以上になる。慶應義塾大学の学生であったから、当然のごとく渋谷の街には行った。
私が学生になったとき、すでにPARCOはあった。だが、そこで買物をしたというような経験はない。公園通りという名称は、すでにその名前であったと思うが、特にそれと意識して歩いたということはない。
私が東京にいたころの渋谷は、たしかにファッションの最先端の街であったかと思う。いや、そのころだと、一つ隣の原宿の方が有名だったかとも思うが。
渋谷にあった書店……紀伊國屋、旭屋、大盛堂……など、よく行ったものだが、今ではもう昔の面影はない。
109のビルが出来たときのことは記憶にある。しかし、そのビルに入ったことはない。むしろ、その隣にあった小さな居酒屋が、印象に残っている。頑として土地を売らなかったのだろう、ビルの隣でボロになった建物で営業を続けていた。そのころの私としては、109のビルを建てた東急よりも、その居酒屋の方をこころよく思ったものである。まあ、天邪鬼だったのである。
大学の学部の学生のころから、山田忠雄先生のところで勉強した。その研究室が渋谷にあった。基本的に隔週で夜に研究会があった。そこへ行く途中、ストリップ劇場の前を通る。どこか猥雑さを残した街でもあった。
渋谷という街を、若者文化の街と意識して歩いたことはない。番組で言っていた、ギャルの街になったころには、東京を離れてしまっていたこともある。
もう東京に行くことにそれほどないと思う。渋谷に行ってもたぶん道に迷うだけであろう。特に行ってみたいというところでもなくなっている。雑然とした猥雑さのある、サラリーマンと学生の街という渋谷は、もう過去のものになってしまったのであろう。
ただ、番組であつかっていたPARCOを中心とした西武文化というべきものは、時代の大きな流れのなかにあって、価値のあるものであったことになる。その時代の空気というものは、なんとなく憶えている。
2024年4月5日記
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