『舟を編む ~私、辞書つくります~』(10) ― 2024-04-25
2024年4月25日 當山日出夫
『舟を編む ~私、辞書つくります~』(10)
『大渡海』が完成した。
辞書を作るには、様々な人びとのいろんな努力が積み重なっている。辞書を作っていく過程を、このドラマは丁寧に描いていたと思う。国語学、日本語学の観点から見ても、よくできたドラマだったと言っていいだろう。
このドラマの第1回のときにも書いたことだが……私の国語学の師匠は、山田忠雄先生である。新明解国語辞典の国語学者と言っていい。慶應義塾大学の文学部の学生のとき、国語学を勉強したいと思った。その当時、慶應の国文科には国語学の先生がいなかったので、慶應での恩師である太田次男先生が山田先生のところに行けと紹介してくださった。渋谷の山田先生の研究室に一緒に連れられて行ったのを憶えている。その後、山田先生に師事することになった。
山田先生から多くのことを学んだが、今でも私のなかに残っていることの一つとしては、辞書の編纂には、批判的精神が必要だということである。特に辞書の編纂にかぎらず、国語学研究、学問一般に言えることでもある。
あるいは、ひょっとしたら、私の人生の選択肢として、辞書の編纂にたずさわるという道があったかもしれないと、今になっても時々ふりかえって思うことがある。もし、そうなっていたとしたら、今では、もう定年ということでリタイアする時期でもある。『大渡海』のようなプロジェクトがあれば、最後の仕事となったかもしれない。
この意味では、このドラマは、まったくの架空の他人事のドラマとは思えないという部分があることは確かである。
COVID-19、コロナ禍のことは、どう人びとに記憶されるだろうか。個人的には、二〇二〇年の春頃、NHKが夕方に朝ドラの『ひよっこ』の再放送をしていた。それを見て、すぐに夕方のニュースになる。その始まりは、きまって渋谷のハチ公前の様子であり、その日の東京の感染者数の発表があった。日に日に、渋谷の街から人がいなくなり、感染者数が増えていった。この先、この世の中、どうなっていくのだろうと思ってすごしたものである。
その後、四月になっても、大学の授業は始まらず、結局オンラインでの教材送信と電子メールでのレポート提出ということで、前期の授業となった。
国語学、日本語学の観点から考えてみても、この時期、多くの新しいことばが登場した。そもそも「新型コロナウイルス」ということばが新しいものだった。「パンデミック」も日常的に目にするようになった。「手指消毒」も新しく使われ始めたことばであるといっていいだろう。
さあ、この種のことばを新しい辞書に収録するかどうか……これは、判断に悩むところである。
新しいことばが、これから日本語の中に定着して残っていくだろうか、ここをまず考える必要がある。ドラマでは明確に描いていなかったが、もし新しいことばを見出しとして入れるとすると、削らなければならないことばがある。それを、できるかぎり、同じページのなかでやりくりしなければならない。むしろ作業として大変なのは、どのことばを削除するかの判断と、組版の調整ということになるだろう。
妥協的判断としては、さらに見出しの追加はせずに、その後の改訂版の編集のときの課題とする、というあたりになるかと思うのであるが、さてこのあたりのことについては、人によって判断が分かれるとこかとも思う。
これがデジタル辞書ならば、見出し語の追加は、かなり容易である。紙販はそのまま、デジタル版で追加見出しがある……こういう作り方もありうる。そして、デジタル版では最新情報が載っている、これを販売のうりにすることも可能だろう。
新しいことばが使われるようになることには、比較的簡単に気づく。しかし、それまで使われてきたことばの意味用法が徐々に変化していくことは、なかなか気づきにくい。これは、長年にわたる調査研究の積み重ねということになる。
このドラマには、コーパスが登場していなかった。そのようにドラマを作ったということなのだろう。もしコーパスを登場させると、それはどんなものなのか説明に余計な手間がかかる。また、はっきりいってしまえばであるが、国立国語研究所のBCCWJは、『大渡海』の編纂の時点からみれば、すこし古いことばをあつかったものとなっている。コーパスの継続的な拡張が重要である。
一〇回のドラマであったが、見終わって感じることは、このドラマは、ことばを丁寧にあつかっているという印象を持つ。よくできたドラマだったと思う。
2024年4月23日記
『舟を編む ~私、辞書つくります~』(10)
『大渡海』が完成した。
辞書を作るには、様々な人びとのいろんな努力が積み重なっている。辞書を作っていく過程を、このドラマは丁寧に描いていたと思う。国語学、日本語学の観点から見ても、よくできたドラマだったと言っていいだろう。
このドラマの第1回のときにも書いたことだが……私の国語学の師匠は、山田忠雄先生である。新明解国語辞典の国語学者と言っていい。慶應義塾大学の文学部の学生のとき、国語学を勉強したいと思った。その当時、慶應の国文科には国語学の先生がいなかったので、慶應での恩師である太田次男先生が山田先生のところに行けと紹介してくださった。渋谷の山田先生の研究室に一緒に連れられて行ったのを憶えている。その後、山田先生に師事することになった。
山田先生から多くのことを学んだが、今でも私のなかに残っていることの一つとしては、辞書の編纂には、批判的精神が必要だということである。特に辞書の編纂にかぎらず、国語学研究、学問一般に言えることでもある。
あるいは、ひょっとしたら、私の人生の選択肢として、辞書の編纂にたずさわるという道があったかもしれないと、今になっても時々ふりかえって思うことがある。もし、そうなっていたとしたら、今では、もう定年ということでリタイアする時期でもある。『大渡海』のようなプロジェクトがあれば、最後の仕事となったかもしれない。
この意味では、このドラマは、まったくの架空の他人事のドラマとは思えないという部分があることは確かである。
COVID-19、コロナ禍のことは、どう人びとに記憶されるだろうか。個人的には、二〇二〇年の春頃、NHKが夕方に朝ドラの『ひよっこ』の再放送をしていた。それを見て、すぐに夕方のニュースになる。その始まりは、きまって渋谷のハチ公前の様子であり、その日の東京の感染者数の発表があった。日に日に、渋谷の街から人がいなくなり、感染者数が増えていった。この先、この世の中、どうなっていくのだろうと思ってすごしたものである。
その後、四月になっても、大学の授業は始まらず、結局オンラインでの教材送信と電子メールでのレポート提出ということで、前期の授業となった。
国語学、日本語学の観点から考えてみても、この時期、多くの新しいことばが登場した。そもそも「新型コロナウイルス」ということばが新しいものだった。「パンデミック」も日常的に目にするようになった。「手指消毒」も新しく使われ始めたことばであるといっていいだろう。
さあ、この種のことばを新しい辞書に収録するかどうか……これは、判断に悩むところである。
新しいことばが、これから日本語の中に定着して残っていくだろうか、ここをまず考える必要がある。ドラマでは明確に描いていなかったが、もし新しいことばを見出しとして入れるとすると、削らなければならないことばがある。それを、できるかぎり、同じページのなかでやりくりしなければならない。むしろ作業として大変なのは、どのことばを削除するかの判断と、組版の調整ということになるだろう。
妥協的判断としては、さらに見出しの追加はせずに、その後の改訂版の編集のときの課題とする、というあたりになるかと思うのであるが、さてこのあたりのことについては、人によって判断が分かれるとこかとも思う。
これがデジタル辞書ならば、見出し語の追加は、かなり容易である。紙販はそのまま、デジタル版で追加見出しがある……こういう作り方もありうる。そして、デジタル版では最新情報が載っている、これを販売のうりにすることも可能だろう。
新しいことばが使われるようになることには、比較的簡単に気づく。しかし、それまで使われてきたことばの意味用法が徐々に変化していくことは、なかなか気づきにくい。これは、長年にわたる調査研究の積み重ねということになる。
このドラマには、コーパスが登場していなかった。そのようにドラマを作ったということなのだろう。もしコーパスを登場させると、それはどんなものなのか説明に余計な手間がかかる。また、はっきりいってしまえばであるが、国立国語研究所のBCCWJは、『大渡海』の編纂の時点からみれば、すこし古いことばをあつかったものとなっている。コーパスの継続的な拡張が重要である。
一〇回のドラマであったが、見終わって感じることは、このドラマは、ことばを丁寧にあつかっているという印象を持つ。よくできたドラマだったと思う。
2024年4月23日記
「なぜ隣人を殺したか〜ルワンダ虐殺と煽動ラジオ放送〜」 ― 2024-04-25
2024年4月25日 當山日出夫
時をかけるテレビ なぜ隣人を殺したか〜ルワンダ虐殺と煽動ラジオ放送〜
ルワンダの内戦のこと、ツチとフツの対立、殺戮のことは、記憶にあることである。
番組の意図としては、ラジオというメディアのはたした役割、ということになる。テレビも新聞もない地域で、ラジオだけが、人びとに情報を伝えていた。そのラジオの煽動によって、人びとは虐殺にはしった。
たしかにこれは、今日の問題でもある。池上彰は、SNSのフェイクニュースなどのことを言っていたが、実は、事態はもっと深刻な状況にあるといっていいかもしれない。ハイブリッド戦争ということがいわれるようになった現代、すでに日常のなかに戦争が入りこんできている。日本のなかで宣伝工作活動(ちょっとことばは古いが)にかかわるSNSは、多くあるといってよい。もちろん、そこにはAI技術も使われていくことになる。
実感としていえることは、SNSにおいて一方的な意見が拡散するかたわら、それを打ち消す反対の意見も、少なからずある。このバランスを見ていくしかないということぐらいだろうか。
私は、X/Twitterは、一〇数年以上アカウントを持っているが、ここ一〇年ぐらいフォローを増やしていない。自分の気に入る意見のアカウントをフォローすることをしていってもいいかもしれないのだが、あえて、そのままにしている。自分とは異なる意見を主張するアカウントも眼に入るようにしている。
少なくとも、今のところ、一方的な情報だけで埋まるということは起こっていないとは思っている。
最近になって、特定の偏った意見については、反論のメッセージが出るようにはなってきた。ないよりマシという程度であるが、これも、今後、AIの利用で事実に基づかないフェイクニュースをチェックできるようになる(かもしれない、と思うが、どうだろうか。)
それから、私は、今ではRTを基本的にしない。
それにしても、当時のルワンダのラジオ放送の音声が録音されて残っているということも驚きの一つである。
ルワンダの現在はどうなっているのだろうか。アフリカでは、経済発展を遂げることのできた国の一つということだと思うが、かつての内戦と虐殺の経験は、今にどのように残っているのか。このあたりのことについて、その後のルワンダということで考える番組などあればと思う。
2024年4月24日記
時をかけるテレビ なぜ隣人を殺したか〜ルワンダ虐殺と煽動ラジオ放送〜
ルワンダの内戦のこと、ツチとフツの対立、殺戮のことは、記憶にあることである。
番組の意図としては、ラジオというメディアのはたした役割、ということになる。テレビも新聞もない地域で、ラジオだけが、人びとに情報を伝えていた。そのラジオの煽動によって、人びとは虐殺にはしった。
たしかにこれは、今日の問題でもある。池上彰は、SNSのフェイクニュースなどのことを言っていたが、実は、事態はもっと深刻な状況にあるといっていいかもしれない。ハイブリッド戦争ということがいわれるようになった現代、すでに日常のなかに戦争が入りこんできている。日本のなかで宣伝工作活動(ちょっとことばは古いが)にかかわるSNSは、多くあるといってよい。もちろん、そこにはAI技術も使われていくことになる。
実感としていえることは、SNSにおいて一方的な意見が拡散するかたわら、それを打ち消す反対の意見も、少なからずある。このバランスを見ていくしかないということぐらいだろうか。
私は、X/Twitterは、一〇数年以上アカウントを持っているが、ここ一〇年ぐらいフォローを増やしていない。自分の気に入る意見のアカウントをフォローすることをしていってもいいかもしれないのだが、あえて、そのままにしている。自分とは異なる意見を主張するアカウントも眼に入るようにしている。
少なくとも、今のところ、一方的な情報だけで埋まるということは起こっていないとは思っている。
最近になって、特定の偏った意見については、反論のメッセージが出るようにはなってきた。ないよりマシという程度であるが、これも、今後、AIの利用で事実に基づかないフェイクニュースをチェックできるようになる(かもしれない、と思うが、どうだろうか。)
それから、私は、今ではRTを基本的にしない。
それにしても、当時のルワンダのラジオ放送の音声が録音されて残っているということも驚きの一つである。
ルワンダの現在はどうなっているのだろうか。アフリカでは、経済発展を遂げることのできた国の一つということだと思うが、かつての内戦と虐殺の経験は、今にどのように残っているのか。このあたりのことについて、その後のルワンダということで考える番組などあればと思う。
2024年4月24日記
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