『櫂』(2)「修羅」2025-02-26

2025年2月26日 當山日出夫

『櫂』(2) 修羅

最初の放送は、1999年である。この今から26年前のことになる。この時代に作るドラマとしては、こういうふうになるのかなあ、というところもあるし、また一方で、この時代だから作れたのだろう、という気もする。もし、現代だったら、そもそもこの作品のドラマ化という企画自体が難しいかもしれない。

岩伍の芸妓娼妓紹介業というものがもっている二面性。たしかに、(現代の価値観からすれば)人身売買にかかわる仕事であるし、貧しい人びと、その中でも女性の権利を蹂躙していることにはなる。だが、その一方で、この時代に、そうでもしなければ生きていけない人たちの現実ということもある。この相反することを、どう両立させて描くかは、かなり難しいと思う。

この意味では、このドラマは、よく頑張って作ったと感じる。だが、原作の小説のもっている味わいをかなり消し去ってしまっているところもある。原作で描かれた喜和は、その時代の女性の価値観を、良くも悪くも超えることがない人物であったと、読んだ記憶としては憶えている。原作の喜和は、貧民窟に住まう人びとのことを嫌悪するような感覚のもちぬしとして描かれている。現代のことばでいえば、差別意識を持っている。これは、その当時にあっては、街中の普通の人びとの感覚ということになる。むしろ、岩伍の方が、そのような貧民窟の人びとに対しても、その生活をなんとかしてやりたいという、ある意味で心の広さというべきものを持っている。

原作には、矯風会や廃娼運動のことは、出てきていないと憶えている。出てきていたとしても、その時代の雰囲気として、こういうこともあったということだったかと思う。さて、どうだっただろうか。(今からもう一度原作を読み直して確認する気はしないのだが。Kindle版がある。)

一方で、ドラマの方として、うまく描かれているのは、喜和と、大貞楼の女将と、巴吉、この三人のそれぞれの女性の生き方の対比。特に、大貞楼の加賀まりこが、とてもいい。

この回で綾子が生まれる。小説としては、『櫂』に『春燈』と続くのだが、松たか子のイメージとしては、娘の綾子の方がイメージとしてあっている、と私は思う。喜和という女性は、松たか子が演じるには、あまりに古風な生き方をした……そのような生き方しか知らなかった……女性である。あるべき女性の生き方を考えるようになるのは、綾子の世代になってからである。(綾子が、宮尾登美子自身を投影したものであろうとは思う。)

どうでもいいことなのかもしれないが、岩伍が巴吉を楽屋で背後から抱きしめて、着物の八ツ口から手をいれて胸をさわっている……こういう演出は、もう今の時代ではできないだろうと思う。まず、着物の作りを知っていないと、こういう動作ができるということが分からない。前の襟元から手を入れてもいいのかもしれないが、これでは、あまりに露骨すぎる。よくこういう演出ができたものだと思って見ていた。

2025年2月25日記

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