よみがえる新日本紀行「川辺の日だまり〜東京・佃〜」 ― 2025-04-21
2025年4月21日 當山日出夫
よみがえる新日本紀行 「川辺の日だまり〜東京・佃〜」
再放送である。最初は、2023年1月7日。オリジナルは、昭和49年(1974)1月21日。
昭和49年というと、私が、高校を出て大学生になるかどうかというころである。そのころの、東京の佃では、このような生活があったのか、という意味でとても興味深い。いわゆる下町の生活が、生き生きと残っている。このような濃厚な近所づきあいのある生活は、現代社会では、あまりもう歓迎されるものではなくなっているだろうが。
佃から築地に通って仕事をする。市場の仕事である。築地も現代では、豊洲に移ってしまっている。築地や豊洲で働いている人たちは、いったいどこに住んで、どんな暮らしをしているのだろうか。この番組のオリジナルを作ったときには、まだ、築地市場の前の、日本橋市場のことを憶えている人がいた。(日本橋市場は、関東大震災でなくなり、その後、築地に集約された。)
佃の地域は、関東大震災も、東京の空襲も、生きのびた地域である。いわゆる下町エリアにおいては、こういうところは珍しいかと思う。東京の街の歴史に詳しい人なら、知っていることだろうが。
かつては渡し船があり、島であったところだから、他とは隔絶して、独自の生活のスタイルが残ってきた、ということはあったのかもしれない。
隅田川に浮かんでいた、多くの船は、いったい今ではどうなってしまっているのだろうか。隅田川が、観光以外で、どのような船が行き来しているのか、興味のあるところである。もう、水運としては利用されていないだろうとは思うが。
興味深かったのは、道路や家の前の草花に水をやるのに、井戸水を使っていたこと。東京の下町のエリア、基本的に埋め立て地であるところが多いはずだから、そんなに地面を掘れば井戸から水が出るということはないだろうと思っているのだが、佃は、島であった場所だから、井戸が使えているのだろうと思うが、どうなのだろうか。
家の中の掃除、廊下や柱などを磨くのに、おからを使うということは知っていることだったが、実際に使っているところの映像を見たのは、始めてだったかもしれない。このような習慣は、今ではすたれてしまったことかもしれない。
築地の仕事の映像を見ていると、トロ箱が木製であった。これが、今の豊洲の映像になると、発泡スチロールに変わっている。こういう変化は、どういうプロセスで起こったことなのだろうか。人びとの生活や仕事のなかでの、道具の歴史ということで、考えるべきことかと思う。民具の研究が、民族学や民俗学の研究領域であるのだから、現代の日常の道具類がどういう変遷を経てきているのか、これは、記録しておくべきことだと思う。
佃は、現代では、タワーマンションの林立する地域になっている。こういうところでは、かつてのような町内会のようなものは、もはや機能しない。だが、ここに住む子どもたちにとって、駄菓子屋という存在は、身近なものとしてあるらしい。
佃煮が、佃が発祥であることは知っていたことだが、実際に、佃で作られた佃煮というのは、食べたことがない。その材料は、もう江戸前というわけではないだろうが、現在でも店は続いている。
オリジナルの放送のときに映っていた家屋が、今でも残って人が住み続けているというのは、やはり佃ならではのことだと感じるところである。
それから、登場していた人の話し方が興味深い。この時代の女性の話し方が、落ち着いていて丁寧である。アクセントとしては、東京下町ことばといっていいのだろうが、決して乱暴な印象はない。一方、男性の話し方は、いわゆる下町ことばで、気っぷの良さというような雰囲気を感じさせる。実際の生活のなかでの日本語の話しことばを記録したものとしても、非常に興味深いものであった。
2025年4月16日記
よみがえる新日本紀行 「川辺の日だまり〜東京・佃〜」
再放送である。最初は、2023年1月7日。オリジナルは、昭和49年(1974)1月21日。
昭和49年というと、私が、高校を出て大学生になるかどうかというころである。そのころの、東京の佃では、このような生活があったのか、という意味でとても興味深い。いわゆる下町の生活が、生き生きと残っている。このような濃厚な近所づきあいのある生活は、現代社会では、あまりもう歓迎されるものではなくなっているだろうが。
佃から築地に通って仕事をする。市場の仕事である。築地も現代では、豊洲に移ってしまっている。築地や豊洲で働いている人たちは、いったいどこに住んで、どんな暮らしをしているのだろうか。この番組のオリジナルを作ったときには、まだ、築地市場の前の、日本橋市場のことを憶えている人がいた。(日本橋市場は、関東大震災でなくなり、その後、築地に集約された。)
佃の地域は、関東大震災も、東京の空襲も、生きのびた地域である。いわゆる下町エリアにおいては、こういうところは珍しいかと思う。東京の街の歴史に詳しい人なら、知っていることだろうが。
かつては渡し船があり、島であったところだから、他とは隔絶して、独自の生活のスタイルが残ってきた、ということはあったのかもしれない。
隅田川に浮かんでいた、多くの船は、いったい今ではどうなってしまっているのだろうか。隅田川が、観光以外で、どのような船が行き来しているのか、興味のあるところである。もう、水運としては利用されていないだろうとは思うが。
興味深かったのは、道路や家の前の草花に水をやるのに、井戸水を使っていたこと。東京の下町のエリア、基本的に埋め立て地であるところが多いはずだから、そんなに地面を掘れば井戸から水が出るということはないだろうと思っているのだが、佃は、島であった場所だから、井戸が使えているのだろうと思うが、どうなのだろうか。
家の中の掃除、廊下や柱などを磨くのに、おからを使うということは知っていることだったが、実際に使っているところの映像を見たのは、始めてだったかもしれない。このような習慣は、今ではすたれてしまったことかもしれない。
築地の仕事の映像を見ていると、トロ箱が木製であった。これが、今の豊洲の映像になると、発泡スチロールに変わっている。こういう変化は、どういうプロセスで起こったことなのだろうか。人びとの生活や仕事のなかでの、道具の歴史ということで、考えるべきことかと思う。民具の研究が、民族学や民俗学の研究領域であるのだから、現代の日常の道具類がどういう変遷を経てきているのか、これは、記録しておくべきことだと思う。
佃は、現代では、タワーマンションの林立する地域になっている。こういうところでは、かつてのような町内会のようなものは、もはや機能しない。だが、ここに住む子どもたちにとって、駄菓子屋という存在は、身近なものとしてあるらしい。
佃煮が、佃が発祥であることは知っていたことだが、実際に、佃で作られた佃煮というのは、食べたことがない。その材料は、もう江戸前というわけではないだろうが、現在でも店は続いている。
オリジナルの放送のときに映っていた家屋が、今でも残って人が住み続けているというのは、やはり佃ならではのことだと感じるところである。
それから、登場していた人の話し方が興味深い。この時代の女性の話し方が、落ち着いていて丁寧である。アクセントとしては、東京下町ことばといっていいのだろうが、決して乱暴な印象はない。一方、男性の話し方は、いわゆる下町ことばで、気っぷの良さというような雰囲気を感じさせる。実際の生活のなかでの日本語の話しことばを記録したものとしても、非常に興味深いものであった。
2025年4月16日記
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