100分de名著「村上春樹“ねじまき鳥クロニクル” (2)大切な存在の喪失」2025-04-22

2025年4月22日 當山日出夫

100分de名著 村上春樹“ねじまき鳥クロニクル” (2)大切な存在の喪失

『ねじまき鳥クロニクル』を、ようやく読み終わった。新潮文庫で三冊である。ちょっと前なら、三日あれば読んだ本なのだが、もうこの年になると、その速度で読むのはむずかしい。Kindle版で、一週間ほどかかった。ひさしぶりに読みかえしてみて、こんなことが書いてあった小説なのか、といろいろと思うところがあった。

この「100分de名著」を見て思うこととしては、あつかっている本そのものよりも、その本屋、作者、また、その書かれた時代などについて、どう語るか、講師の語り方の方に興味がいく。というよりも、私の場合、そういう見方でこの番組を見ることが多いというべきかもしれないが。

村上春樹の作品については、さまざまに言われている。非常に好きであるという人もいれば、嫌いだという人もいる。ノーベル文学賞について、取り沙汰されるのも、恒例のことになっているのだが、私としては、現代のノーベル文学賞は、別にそれを貰ったからといって、どうこういうことはないように思う。文学、というものに何をもとめるか、ということについていえば、かつてのような、芸術、だけではなくなってきてしまっている。芸術は、万人に開かれたものであるべきだが、しかし、それを理解できる人は限られている、という二律背反的な面もある。

第二回目を見て思うことは、『ねじまき鳥クロニクル』をどう読むかということもあるが、それについて語る沼野充義の語り方が、面白かった。普通は、文学作品について語る場合、その熱心なファンが、その魅力を縦横に語るということが多いのだが、この番組の場合は、村上春樹の作品のどういう部分が、どう読まれることになるのか、という視点で解説している。これは、文学研究という領域に足をおいてのことになる。

見ていて、まあそういう理解で読むこともできるだろうなあ、と思うぐらいである。(文学作品は、何をどう読みとろうと、読者の自由である、というのが私の基本である。ただ、作者として何を言いたかったかのか、ということも考えるべきではあるが。)

エリアーデの名前を久しぶりに聞いた。もう、今では、宗教学を専門にするような人でないと読まないかもしれない。ちくま学芸文庫で、『世界宗教史』が刊行になったときは、順番に買っていったものであるが。今でも書庫のなかに持っている。

井戸やトンネルや壁をとおりぬけて、異次元の世界、別世界にワープすることがあるとして、そこは、聖なる場所でもあり、同時に、悪徳の場所でもある。また、聖と悪とは、別世界にあるというだけではなく、自分自身の内側の奥底にもある、このようなことを、いろんなふうに描いているのが村上春樹の文学なのであろうと、私としては思っている。何が聖で何が悪かは、時代や文化的背景によって異なるので、いろいろと解釈できる柔軟さが、世界の多くの人びとに読まれる理由かと思う。

2025年4月21日記

ステータス「チキンカップ」2025-04-22

2025年4月22日 當山日出夫

再放送である。最初は、2024年3月30日。HDに録画してあったので見た。

いろいろと面白い。

まず、その美術的、芸術的な価値だけではなく、歴史的価値、さらには、国家の威信をかけた価値というものがある、ということは、そうであると思う。

中国の景徳鎮の陶磁器の研究所で、破片を大量にコレクションしてあることは、とても意味のあることだろう。破片からでも、いや、破片だからこそ断面が見えるので、その作品の分析が細かに可能になるはずであり、それを蓄積してデータベース化することの、意義は大きい。

また、景徳鎮の陶磁器のマーケットの様子が興味深い。破片を地面の上にずらりと並べて売っている。なかに本物があるらしいのだが、骨董に趣味のある人にとっては、魅力的なのだろう。

それから、チキンカップを落札した中国のお金持ちの男性。おそらく今の中国には、このように一代で富を築いた、とてつもないお金持ちがたくさんいるのだろうと思う。美術品をコレクションして、美術館を作って展示しているというのは、たぶん、そういう人たちのなかでも、善良なというべきだろうか。なかには、もうけたお金を、ろくでもないことに使っている人もいるかとも思うが。(これは、邪推かなとは思うけれど)。

しかし、中国経済の先行きが不透明になってきて、新興の富裕層のこれからはいったいどうなるだろうか。海外に逃げ出すとしても、チキンカップを国外に持って出ることは可能だろうか。

それから、どうでもいいことだが、スタジオでアンミカが、偽物とはいえ陶磁器を手に取るとき、指輪をしたままだった。これは、外すのがマナーでると、私は見て感じるところである。

2025年4月18日記

NHKスペシャル「オンラインカジノ “人間操作”の正体」2025-04-22

2025年4月22日 當山日出夫

NHKスペシャル オンラインカジノ “人間操作”の正体

私の見た範囲で、NHKでオンラインカジノを大きくとりあつかうのは、昨年の、

2024年6月29日
調査報道 新世紀 File4 オンラインカジノ 底知れぬ闇
https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/episode/te/689LG7QGGZ/

これについては、
やまもも書斎記 2024年7がつ17日
「調査報道 新世紀 File4 オンラインカジノ 底知れぬ闇」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2024/07/17/9701940

オンラインカジノについて思うことは、すでに書いたので繰り返さない。

ギャンブル依存症ということについて、精神医学の分野で現在はどのように考えられているかということが、もうすこし解説してあるとよかったと思う。それと同時に、行動科学の観点から、人間を依存症においこむことができるとして、それは、どういう理屈にもとづく、どういう操作によってなのか……これは、手の内をしめさないということだったのかと思うが、ここは知りたいところである。今の時代、日常生活のさまざまな領域において、行動科学にかかわらないことはない、という時代になってきている。ナッジとかアーキテクチャなども、近年の行動科学の知見から生み出された概念だと認識している。

ギャンブルについては、国によって制度の違いがあり、グレーな領域があることは確かだと思っている。近々、堂々とカジノが大阪に作られることになっている。(たぶん、これは、海外からお金持ちがやってきて遊んで、その利益のほとんどは、外国の運営会社に持っていかれる。ほんの少しは地元にお金がおちるかもしれないが。というぐらいに思っている。カジノに入り浸って、依存症になるほどのお金持ちは、そんなに日本にはいないかもしれない。)

スマホで出来るということなので、日常生活のなかにはいりこんできてしまう、というところが一番の問題点だろう。そこに、なんらかの仕掛けがあれば、簡単にのめりこんでしまうのが、人間というものである。

(以前にも書いたが)そもそも、賭博というのは、胴元が絶対に損をしないシステムの上に作ってあるはずなので、これがわかっていれば、そんなに簡単に手を出すことはないと思っているが、しかし、このように思うばかりが人間ではない。だからこそ、はるか古代から、賭博の歴史が続いてきている。

だが、スマホによるオンラインカジノは、従来の賭博とは、別次元の作用を、多くの人間にもたらす、ということはあるのだろう。これは、近年、話題になっている、SNS上での各種のフェイクニュースの拡散問題などとも共通するところがあるとは思おう。スマホとネットが、人間の社会と文化のあり方を根底から変えようとしているのが、二一世紀になって起こっていること、といってもいいのだろう。

スマホとネットが、人間に何をもたらすことになるのか、総合的に考えるべきであり、オンラインカジノの問題は、その一端にすぎないというべきだろう。

また、ギャンブル依存症もそうであるが、依存症という状態が、病気、疾患というべきものであり、治療すべきものである、という認識が、社会的に広く共有される……その本人をふくめて、周囲の人びとや、さまざまな関係者に……ことも、必要だろう。ただ、その人の性格や趣味、意志の問題としてしまうことでは、解決しない。この認識も重要である。つまり、自己責任ではないということである。

だからといって、オンラインカジノを禁止するとなると、今度は、それが本当の闇のなかにもぐってしまうだけになるだろう。見えるところにおいて、規制をかけるしかないのかもしれない。

2025年4月21日記

『少年寅次郎』(1)2025-04-22

2025年4月22日  當山日出夫

『少年寅次郎』(1)

録画しておいて、その第一回をようやく見た。

車寅次郎の物語である。別に説明の必要もないだろう。

私は、寅さんの映画とか、そこで描いた世界があまり好きではない。たしかに、ある時代の日本人の心情をたくみに描写した作品になっている。だが、そうであるがゆえに、嫌いでもある。人びとの非常に善良な面を描いているのだが、しかし、こういう人びとが、世の中の流れにもっとも流されていく人びとであることも、たしかだろう。戦前、戦中であれば、奉祝提灯行列に加わる。それが、戦後になれば、皇太子御成婚に祝賀の意を表し、また、時としては、反戦のデモを支持したりもする。あえて否定的な言い方をすれば、歴史のなかにあって批判的精神を持ちえない。

このような一般の人びとが、世論(あるいは、輿論)の大勢を形成していくものではある。であるからこそ、このような人びとの心性を、どうとらえて、どう描くか、ということに関心もある。

脚本は、岡田惠和である。原作は、山田洋次。だから、見ておきたいと思ったこともある。

戦前のこの時代のことは、いろんなドラマで描いている。経済的には昭和恐慌の時代である。だが、ずっと不況であったわけではなく、少なくとも都市部の生活においては、昭和戦前のモダンな楽しい一時期があったことにもなる。しかし、農村部では、人びとの生活はみじめであった。娘の身売りなど、おこなわれた時代でもある。

ドラマは、昭和11年2月25日の夜からはじまる。二・二六事件が起こるのだが、事件のことは、柴又でくらす人びとの頭のうえをかすめるだけである。この事件が、後々の日本に、どのような影響をあたえることになるのか、誰も予見できないし、そのように時代の流れを見ようとしている人もいない。

これはこれでいいのだと、私は思う。この時代、このような感覚で生きてきたのが普通の人びとの生活感覚であったのであり、ことさらに反戦をとなえなかった、軍部の暴走を批判しなかったことを、後の価値観でとがめても意味はないだろうと思う。

今の時代を生きる普通の人びとの感性が、後の時代にどのように評価されるか、それは分からないとすべきだろう。また、今の時点で、時代の最先端である(と、それを主張する人たちが思っている)ような思想が、将来において、歴史の批判にたえるものであるかどうか、それは分からない。

2025年4月14日記