『チョッちゃん』(2025年4月28日の週)2025-05-04

2025年5月4日 當山日出夫

『チョッちゃん』 2025年4月28日の週

このドラマは、進行が実にゆっくりである。昔の朝ドラは、こんなものだった。この一週間をかけて、どうしても東京の音楽学校に行きたい気持ちを固める蝶子と、それを容易に許す気になれない父親の俊道を、じっくりと描いていたことになる。

以前にも書いたが、このドラマが作られた時代、1980年代、昭和の戦前の北海道の生活、女学校の生活、東京での生活、これらのことが、まだ多くの日本の人びとの記憶にあった時代である。リアルにその時代のことを、体験的に知っている人が、少なからずいた時代である。だからこそ、じっくりと描くことができているということだろう。

父親の俊道が、蝶子が東京に行きたいということに対して、かつて、自分が北海道の滝川が医者を求めているからというので、やってきたときの気持ちを語っていた。明治のころになるが、北海道に行くとなると、親族とはこれで今生の別れだと覚悟を決めなければならなかった。やや大げさに語っているかとも思えるが、しかし、昭和の戦前以前、東京からの距離の感覚は、現代とはくらべものにならないぐらいだっただろう。

この意味では、東京のおじさんが、出張で北海道に気楽にやってくるように描かれているのは、そのうさんくささ、山師っぷり、ということの表現として、理解することになる。

また、その一方で、朝鮮半島や大陸へは、気楽に人びとが行けた時代でもあった。満州事変、満州国の建国は、これよりもうすこし後のことになる。

北海道にいる外国人としてロシア人が出てくるのも、この時代の感覚だったのだろう。(もし、同じようなドラマを現代で作るならば、アイヌの人々を登場させることになるとは思う。)

しかし、東京の音楽学校に行って声楽家になると言っている、当の本人の蝶子が、それがどんなに大変なことなのか、まったく理解していない。ただ、空想の世界で思っているだけである。竹久夢二や蕗谷紅児の絵の世界にあこがれることと、そう変わっていない。だからこそ、生まれて初めて、一人で東京に行く、青函連絡船に乗るということが、できるのかもしれない。

2025年5月3日記

『カムカムエヴリバディ』「2003-2025」2025-05-04

2025年5月4日 當山日出夫

『カムカムエヴリバディ』「2003-2025」

ようやく再放送が終わった。最初の放送のときも、全部見たと憶えているのだが、こんどの再放送も全部見た。

部分的に見れば、ずいぶんと強引な筋書きであったとも思える。だが、その強引さが、それほど不自然でなく描かれていたと思うことになる。

ドラマのストーリーとして、もっとも欠落していた部分は、るいの岡山での成長の過程である。雉真の家で、大切に育てられたきたことは分かるのだが、具体的にどのようであったかは、まったく描写がなかった。それでも、あの岡山の雉真の家であれば、たぶん、こんなふうに育ってきたのだろうと、想像力でおぎなって、それで十分にストーリーとして成りたっているというのは、その前後の描写……雉真の家族であり、その後のるいの生活……が、的確なものだからである。

登場人物の人生に長い空白を置くということは、あまり朝ドラではない。近年の例だと『おちょやん』で、人生の空白を設定してあった。そこは、見る人の想像力でおぎなうことになる。

『カムカムエヴリバディ』は、伏線の設定と、最後にそれにきちんと決着を付けることで、成功した例になる。そのなかでも、たくみだと感じるのは、戦後になって「たちばな」のおはぎを売った少年のことがある。たった一回だけ、わずかに登場した少年なのだが、終わってみるとこのドラマのなかで、非常に大きな役割があったことが理解される。

おはぎのことは無論、ジャズ、野球、喫茶店、映画、いろんな要素が、最終的におさまるべきところに収まっている。無論、ラジオの英語講座もそうである。

それから重要なことは、戦前の岡山から戦後の大阪、京都、と時代や場所を変えながら、その時代に、その街に生きた人びとは、こんな生活感覚で生きていただろうということを、丁寧に描いていることである。考証の疑問点をあげればいくつかあるにちがいないが(例えば京都の商店街はどこだろうとか)、現代の視聴者が見て、この時代は、こんなふうだったとイメージするところを、そう大きく外していない。その時代の普通の人びとの生き方としては、このような価値観だっただろうというところを、肯定的に描いている。特に、るいの大阪での生活、それから、京都での回転焼き屋の生活などは、リアルにその時代の街のことを、多くの人びとが記憶している。それに違和感がないように作ってあった。

時代の流れのなかで、特にそれにあらがうことなく生き、だからこそ、結果的に人とは違った結果の人生になる……特に安子とひなたがそうである……このことが、自然ななりゆきで描くことができた、ということになる。朝ドラのなかで、傑作とされるのは、こういうところにあるのだろう。

2025年5月3日記

『あんぱん』「人生は喜ばせごっこ」2025-05-04

2025年5月4日 當山日出夫

『あんぱん』「人生は喜ばせごっこ」

このドラマは、今までのところ、比較的丁寧に作ってあると感じるところはある。高知の街の通行人とか、東京の街角とか、学校の試験や合格発表の場面とか、それらしく人物を配置してあって、たぶん、こんなふうだったのだろうと思わせるところはある。

だが、その一方で、考証の不足というか、この時代の人びとの生活感覚についての想像力のなさ、というか、少し不満に感じるところがないではない。

以前に書いたことだが、のぶの幼なじみが兵学校に行って海軍中尉で町に帰ってくるとか、何のケーブルもつながないのに音の出るラジオとか、ちょっと常識的にこの時代のことを考えれば分かりそうな、ミスがある。

この週では、電話のことがどうしても気になる。

東京の美術学校を受験して、合格した嵩は、伯父さんと会って、公衆電話から高知の柳井の家に、合格を知らせたということになっていた。この時代……たしか、昭和11年の設定だったと思うが……このころの東京の公衆電話から、直通で高知まですぐに電話がつながって通話ができたとは、どうしても考えがたい。

戦後になってもしばらくは長距離通話は、まず電話局にかけて、相手の番号を指定して、繋いでもらうのを待っていたはずである。戦前の電話料金がどんなであったかは知らないのだけれども、少なくとも、戦後になってからよりも安いということはなかっただろう。戦後になって、10円硬貨で公衆電話が使えるようになっても、市外通話は出来なかった。つながるようになっても、大量に10円硬貨を必要とした。これは、『ちゅらさん』で沖縄に電話をかけるシーンで、10円硬貨を手元にたくさん用意していたことでも分かるはずである。それが、100円硬貨でかけられるようになった。ちょうど、私が、大学生になって東京で生活しはじめたころである。それが、昭和50年のころになる。黄色い色の公衆電話だったが、そんなに数がなくて、下宿からかなり歩いて行ったものであるし、その公衆電話には、人が行列していたりした。

今では、一人が一つのスマホを持っている時代になって、それまでの電話がどんなふうだったか、知る人が少なくなっていることは確かだろう。だが、こういうところは、きちんと描いておくべき部分である。

それは、やなせたかしの活動が、メディアとかかわるからである。放送や出版という分野で仕事をしている。昭和のはじめごろから、現代にいたるまでの、電話、ラジオ、テレビ、出版、新聞や雑誌、こういうメディアのことと、それに対して人びとがどう受けとめていたかは、重要なことであるはずである。

強いていえば、東京と高知との文化の距離、ということでもある。

日本のラジオ放送の草創期にかかわった後藤新平は、ラジオについて、文化の機会均等、ということを言っていたはずである。(放送100年で、いろんな特集番組があった。NHKの関係者なら、知っていて当然だろう。)それを象徴するのが、ベルリンオリンピックでの「前畑、がんばれ」の報道であったかもしれない。

嵩は東京で美術の学校に行くことになるだろうと予想されるが、東京に行ってしまえば、現代のようにスマホ一つで全国どこにいても簡単に連絡がとれるということではない時代である、高知とは隔絶した別の世界に行ってしまったぐらいの感覚があってもおかしくはない。繰り返しになるが、簡単に公衆電話から高知に通話できるような時代ではなかった。

やなせたかしのことがモデルのドラマで、メディア史の観点からの考証がおろそかであっていいはずはない。

また、この時代、土讃線は全面開通してはいなかったはずで、高知から東京に行くのは、かなりかかったはずである。(宮尾登美子の戦前の高知を舞台にした小説では、まず船で大阪に行っている。)途中での宿泊(夜行列車などであっても)をふくめて、二日はかかったかと思われるのだが、はたしてどうだったのだろうか。

のぶが女子師範学校に進学する経緯も、すこし無理があると感じる。史実では、やなせたかしの妻の暢は、女子師範学校には行っていない。この時代であれば、女子師範学校に行けば、その卒業後の進路は、小学校教員になるしかない。それがほぼ強制的なものであったからこそ、官費の学校であったわけである。(おそらく、それからのがれるには、結婚しかなかっただろう。)

だが、のぶにどうしても小学校の先生になりたかったという強い動機があったとは思えない。子どもたちに体操を教えたいということだったが、これが、この時代に小学校教員をめざす女性の動機として、それほど説得力があるものだとは、私には感じられない。学ぶ楽しさを教えたいということだったとしても、そのように勉学熱心な女学生とは描かれていなかった。

死んだお父さんの教えとして、これからは女性も活躍する時代であると教えられたということはあっただろう。この場合、結婚しないで、女学校を卒業して仕事につくことになっただろうが、これは職業婦人として当時としては希なケースになるかと思う。となると、女性でも働ける場所としての小学校教員というルートがあることになる。

妹の蘭子のように、働きに出るというのが、むしろ普通だったろう。だが、これでは、お父さんの教えに背くことになるということなのだろうか。郵便局で働くのが、自立した女性の仕事とは認められないということになるのだろうか。これはこれで、かなりの偏見であると感じられる。(これは『虎に翼』で、バスの車掌という職業を、歴史的に理解していなかったことを思い出す。)

男性の場合であれば、師範学校ルートというのは、学費がかからないので、貧乏だが優秀な学生にとって、社会的階層を上昇するための一つの道であったことはたしかである。だが、女性にとって、師範学校に進学するというのは、どういう動機からであり、どういう社会的階層の女性たちだったのか、気になる。

このあたり、(史実を変えて)のぶを女子師範学校に進学させた脚本の意図が、今一つわからない。

強いて考えるとすると、この時代の正義を象徴するものとしての、学校教育ということであり、それは、いずれ、戦争に負けたの後に逆転してしまうものである、ということの伏線として、描いておきたいということなのかと思うが、どうなのだろうか。だが、それにしては、のぶが女子師範学校に進学した志望動機の描写が、かなり希薄で説得力に欠けるように思えてならない。

女子師範学校で、どういう教員になるための教育をしていたのか、考証のむずかしいところかと思うが、なぎなたの稽古だけしか出てきていないのは、どうだろうか。なぎなたの稽古も、竹刀をつかって防具をつけてが普通だったと思う。木刀で防具なしというのは、危険すぎる。これは、演出の都合だろうが。

それから、岩男のことなど、いろいろとあるのだが、これぐらいにしておきたい。

2025年5月3日記