『舞いあがれ!』あれこれ「別れと初恋」2022-12-11

2022年12月11日 當山日出夫

『舞いあがれ』第10週「別れと初恋」
https://www.nhk.or.jp/maiagare/movie/week10/

この週もいろいろあったが、ついに舞は一人で飛べるようになり、着陸もうまくできるようになった。

気になるのは、柏木とのことである。この二人は、この後どうなるのだろう。柏木は舞のことが好きである。舞もたぶん同じ気持ちだろう。が、ドラマの展開として、このまま素直に一緒になるとも思えないが、今後が気になる。

それにしても、柏木というのは、ややこしい性格である。屁理屈というのではないが、時々妙に理屈っぽくなる。あまり素直な性格ではないようだ。かと思えば、急に素直になったりもする。いったい無事にパイロットになれるのだろうか、見ていて、舞よりもむしろ柏木の方が気にかかる。

水島は、フェイルすることになった。が、これも、自分の家に帰って地元のスーパーを経営するということで、その将来は、ある意味で不安はない。パイロットになるという夢は断念せざるをえなかったのだが、しかし、これもまた人の世の人間の生き方の一つである。

着陸の特訓のせいなのだろうか、舞は熱を出して寝込んでしまった。子供のときに、たびたび熱を出していたが、それがぶり返したということなのだろうか。熱を出した舞に、アイスクリームを差し入れるというのは、ちょっと短絡的な気もするが、しかし、柏木なり、大河内なりの、それぞれの優しさが感じられた。

さて、次週は訓練の途中でアクシデントがあるようだ。どのような試練を乗り越えていくことになるのか、続きを楽しみに見ることにしよう。

2022年12月10日記

『どくろ杯』金子光晴/中公文庫2022-12-12

2022年12月12日 當山日出夫

どくろ杯

金子光晴.『どくろ杯』(中公文庫).中央公論新社.1976(2004.改版)
https://www.chuko.co.jp/bunko/2004/08/204406.html

NHKの朝ドラ『舞いあがれ!』を見ている。ドラマの始めの方の、大阪編のところで、ヒロインの舞の幼なじみの青年が、文学への思いが強く、初任給をつかって本を買うシーンがあった。その時に、登場していたのが、金子光晴の自伝であった。『どくろ杯』『ねむれ巴里』『西ひがし』が、登場してたと思う。(ただ、ドラマでは、金子光晴がどのような詩人で、どんな活動をしたのか、自伝三部作がどんな作品なのか、一切の説明はなかった。これはこれで、ドラマの作り方だと思う。)

私が、金子光晴の自伝三部作を読んだのは、学生のころだったろうか。当時の中公文庫で手にしたかと思う。全集版が欲しくなって、京都の書店で買ったのを憶えている。(その本も探せば、まだどこかにあるはずである。)

朝ドラで、久々に金子光晴のことを目にして、再び読んでみたくなった。何十年ぶりのことになるだろうか。

久しぶりに読んで、まず一冊目の『どくろ杯』を、ほぼ一気に読んだ。読んで思わずに、その世界にひきずりこまれる。人間が、おちるところまでおちる生活をした記録とでも言えばいいだろうか。読んで思うこととしては、次の二点ぐらいを書いてみたい。

第一に、底辺の文学の生活。

どのように表現したらいいのだろうか、適当なことばが思いつかない。金子光晴が東京で詩人として生活していた時代から、森三千代と結婚して、上海で生活するまでが、主に描かれる。最終的にはパリにいくことになるが、その途中までである。

作者の視点は、流浪者のそれである。無論、生活も流浪者である。パリまでの資金があっての旅ではない。とりあえず上海までの旅費ができたので行ってみる。そこに滞在し、なにがしか稼ぐことができたら、次の行けるところまで行く。そんな旅である。金子光晴が生計にしていたのは、絵である。絵を買いて売る。

世の中を支配者と被支配者に分けてみるならば、作者はどちらでもない。だから流浪者ということになる。その視点は、その土地と人びとの生活、そして時代の様相に、するどく批判的である。だが、ほとんど最底辺の生活をしながら、しぶとく生きていっている。作者のまわりにあつまるのは、最底辺の娼婦、苦力、詐欺師、まあ一般的にはろくでもない人びとである。

第二、歴史的、風俗的興味。

時代としては、昭和の初期のころである。その当時の日本の文学者たちの生活。それから、上海の人びと、そこでの日本人。中国の人びとにとっては、日本人は、(今の概念でいえば)侵略者、支配者、ということになるのかもしれない。この時代の、上海の様子が非常に興味深い。特に、内山書店のことなど、これは貴重な証言と言えるかもしれない。

その当時の東京、上海、ジャワあたりの生活の様子を書き残したものとして、これはこれでとても面白い。

以上の二点のことを思ってみる。

この作品が書かれたのは、その旅があってから数十年後のことになる。『どくろ杯』は、昭和四六年(一九七一)の刊行である。著者の晩年になってからの回想録ということになる。そのせいか、社会の底辺にある人びとのことを描きながら、かつてそのような時代があったことを、冷静に見つめている冷めた印象がどこかにある。おそらくは、抵抗の詩人である金子光晴が晩年になって、なお抵抗の精神を持ち続けて、時代を回顧したと言っていいのかもしれない。

2022年11月30日記

『鎌倉殿の13人』あれこれ「ある朝敵、ある演説」2022-12-13

2022年12月13日 當山日出夫

『鎌倉殿の13人』第47回「ある朝敵、ある演説」
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/story/47.html

前回は、
やまもも書斎記 2022年12月6日
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/12/06/9546029

このドラマも最終になってきた。印象に残っていることとしては、次の二つぐらいがある。

第一に、義時。

悪人である。権力の座にいる。鎌倉を支配している。京の朝廷と対立することになる。思えば、このドラマは、義時の若いころから描いてきている。昔は、純情な若者であった。それが、今ではどうだろうか、神仏を恐れぬ権力者の地位にいる。

これも見方によっては、鎌倉の安寧を思ってのこととも理解できる。しかし、その権力の地位は、いくたの暴力と権謀術数によって築き上げられたものである。多くの御家人が、それに唯々諾々と従っているというわけではない。このことは、義時自身がよくわかっている。

朝廷、後鳥羽院に嫌われている。これは、日本という国を誰が支配するかという究極の権力闘争でもある。そして、ついに、後鳥羽院は、義時追討の院宣を下す。

第二に、政子。

鎌倉時代のこのあたりのことを描くとなると出てくるのが、政子の演説。このドラマでは、そのスピーチライターとして大江広元がいたらしい。だが、政子は、その原稿には従わない。御家人たちに呼びかける。鎌倉として一致団結して後鳥羽院に対決することになる。

これに、賛同したのは、意外にも泰時だった。泰時の言葉もあって、御家人たちは結束する。

以上、義時と政子の二人がこの回では印象に残った。

それから、微妙な位置にいたのが、三浦義村。ことのなりゆきによっては、承久の乱は三浦陰謀論となりかねない運びであったが、そこは三浦である。時運の流れが鎌倉にあると見極めることになる。このドラマの面白さは、この一筋縄ではいかない三浦の存在があってのことかと思うところがある。

さて、いよいよ次週は最終回。承久の乱である。どのような結末になるのか楽しみに見ることにしよう。

2022年12月12日記

追記 2022年12月20日
この続きは、
やまもも書斎記 2022年12月20日
『鎌倉殿13人』あれこれ「報いの時」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/12/20/9549178

千両2022-12-14

2022年12月14日 當山日出夫

水曜日なので写真の日。今日は千両である。

前回は、
やまもも書斎記 2022年12月7日
紅葉
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/12/07/9546239

我が家にいくつか千両の木がある。そのうちで、一番家の近くにある木である。これが最も目につくこともあるので、基本的にこれを写すことにしている。

ちょうど実が赤くなっている。これも、そのうち鳥がやってきて食べてしまって無くなってしまう。防護策を講じてもいいようなものかもしれないが、鳥が食べるのも自然のうちのことと思って、特に何もせずにいる。

近くにある万両の木にも赤い実がなっている。山茶花の花はそろそろ散りかけている。すっかり冬の景色になってきている。

千両

千両

千両

千両

千両

千両

Nikon D500
TAMRON SP 90mm F/2.8 Di MACRO 1:1 VC USD

2022年12月13日記

追記 2022年12月21日
この続きは、
やまもも書斎記 2022年12月21日
万両
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/12/21/9549386

映像の世紀バタフライエフェクト「ナチハンター」2022-12-15

2022年12月15日 當山日出夫

映像の世紀バタフライエフェクト ナチハンター

アイヒマンの裁判については、かつての「映像の世紀」シリーズで、少し取り上げられていたかと思うが、それ以外は新しく発掘した映像資料によっているようだ。

見て思うことはいろいろある。はっきり言って複雑である。

ただ、ナチの犯罪を裁く、その執念と正義感の物語として見れば、これはこれとして、今の社会においては筋が通った、それこそ「正しい」理解ということになるだろう。

だが、その一方で、戦後におけるナチの犯罪に対して、ドイツ国民は、必ずしも積極的であったとはいえないということも、興味がある。

一つには、過去のことである、という意識だろう。

さらにはもう一つは、その犯罪行為は、ナチの責任なのか、そうではなく、ドイツという国家、国民、民族の負うべき責任なのかという考え方がある。このあたりは、かなり複雑な議論があるはずである。

悪いのはナチスであって、ドイツ国民もまたその被害者であるという立場もあり得るだろう。だが、そうではなく、ドイツ国民もナチスの犯罪に加担していたということもあるにちがいない。

法的な論理と、歴史的な倫理的な問題がここにはある。世代を超えて、責任を負うということはどういうことなのか。(これは、戦後日本のあり方とも深く関わっている。)

そう簡単に答えの出ない問題だからこそ、考え続けていかなければならないと思う。

2022年12月13日記

ザ・バックヤード「北海道大学総合博物館」2022-12-16

2022年12月16日 當山日出夫

ザ・バックヤード 北海道大学総合博物館

この回は、特に面白かった。

北海道には行ったこともあるし、北海道大学に行った。確か、学会で行った。しかし、総合博物館には入ったことはない。今度、札幌に行く機会があれば、ここは是非とも行ってみたい。

恐竜の化石から年代を測定する。札幌農学校の時からの牛の血統が今に続いているとか。どれも興味深い。

海藻のタイプ標本のことは、とても面白かった。香淳皇后のことは、恥ずかしながら初めて知った。また、戦前に、皇室から北海道大学に標本を送ったときの、箱の蓋が残っているのは、驚きでもあると同時に、よくぞ残しておいてくれたものかと思う。

特に重要だと思ったのは、面白いから研究をやっている、ということば。ひょっとすると一〇〇年後に役にたつかもしれない。しかし、それはそうとして、面白いからやっている、これは最も貴重なことばだと思う。まさに、「バックヤード」ならではのことばである。

そして、クラークのことば。Boys be ambitious like this old man……これは印象に残った。

さて、この番組、もう終わってしまうのだろうか。出来れば、続けて欲しいと思う。

2022年12月15日記

『理不尽な進化 増補新版』吉川浩満/ちくま文庫2022-12-17

2022年12月17日 當山日出夫

理不尽な進化

吉川浩満.『理不尽な進化-遺伝子と運のあいだ- 増補新版』(ちくま文庫).筑摩書房.2021(朝日出版社.2014)
https://www.asahipress.com/bookdetail_norm/9784255008035/

進化論の概説書というよりは……いや、この本はそのような読み方をしてはいけないだろう……近代における進化論の成立と、社会における受容、影響を論じ、さらには、近代思想史へと切り込む、これは名著と言っていいと思う。

後書きを読むと、この本の単行本が出たとき、専門家からはかなり批判されたらしい。知っていることしか書いていない、と。これは、見方によっては、賛辞ともとれる。言いかえるならば、間違ったことは書いていないと言っていることになる。

科学についての啓蒙的な本で、専門家が読んで、「間違ったことが書いていない」というのは、希有なことであるかもしれない。少なくとも、私の専門領域にかかわる日本語学、国語学の分野で、一般向けに書かれた本やテレビ番組などにおいて、かなり根本的な疑問点をいだくことが、少なくない。このようなギャップは、そう簡単に埋められるものではないと諦めるところもある。(ただ、そうではあるが、このところ一般向けに書かれた、すぐれた日本語にかかわる本も出るようになってきた。)

ところで、この『理不尽な進化』であるが、ポイントは次の二点になるかと思って読んだ。

第一には、進化論の社会における受容。

一般に「進化」ということばは非常に多用される。だが、それは、ダーウィンのとなえた進化論とは、似て非なるものとしてである。また、「適者生存」ということばもよく使われる。このことばほど、進化論を誤解していることばもない。

一九世紀以降、進化論というものが、特に西欧社会のなかで、どのように受けとめられてきているか、きわめて批判的に検証されている。

第二には、進化論の理解。

進化論には、淘汰ということと同時に、その「歴史」を考えることになる。これを、著者は、ドーキンスとグールドの対立を軸に描き出す。科学的な論争としては、ドーキンスに軍配が上がって決着がついている問題かもしれないのだが、科学とはなにかというような論点にたって考えてみると、グールドの語ったことに意味を見いだせる。このあたりは、すぐれた科学論になっていると思う。

以上の二点が、読んで思うことである。

さらには、この本は、進化論をあつかった、主に自然科学の分野に属する本であるかもしれないのだが、読み進めると、すぐれた学問論、特に、人文学論になっている。人文学とはいったい何であるのか、いろいろと考えることができるが、この問題点から読んでみて、きわめて貴重な示唆にとむ内容でもある。

芸術とは何か、宗教とは何か、このようなところまで、この本の射程は及んでいる。

2022年12月8日記

『舞いあがれ!』あれこれ「笑顔のフライト」2022-12-18

2022年12月18日 當山日出夫

『舞いあがれ!』第11週「笑顔のフライト」
https://www.nhk.or.jp/maiagare/movie/week11/

この週もいろいろあったが、印象に残っていることとしては、次の二つぐらいだろうか。

第一には、釧路への飛行。

帯広での訓練中に、風の影響で着陸できなくなる。そこで、急遽、釧路空港へと向かうことになったのだが、この時に助けてくれたのが、大河内教官であった。厳しい教官ではあるが、これは見ていてかっこよかった。

ともあれ、舞は無事に釧路に行くことができ、また、帯広での終わった。そして、宮崎での課程も修了して、無事にパイロットになることはできたようだ。(ただ、これは資格が取れたということで、実際にパイロットの仕事に就けるかどうかは、これからのことになるのだろう。)

第二に、東大阪の岩倉家。

航空学校を終えた舞は、東大阪の岩倉の家に帰ってくる。このとき、柏木も一緒だった。柏木と、岩倉の家での、父と母、それから、隣の梅津の人びと、工場の人たち、これらの交流が面白かった。さもありなんという感じではあったが、まあ、結果的には柏木は、岩倉の家の人たちにも受け入れられたということなのだろう。

以上の二つが、この週で印象に残っていることなどである。

それから、印象的だったのは倫子のことば。自分の生き方を女性だからと社会に決められたくない……これは、今の時代ならまっとうな意見である。が、今から十数年前としてえは、かなり思い切った発言であったかと思われる。この倫子の生き方が、これからの舞の人生にどう関わってくることになるのか、これも気にかかるところである。

次週以降、どのような展開になるのだろうか。再び五島の人びとも登場するようだ。楽しみに見ることにしよう。

2022年12月17日記

『哲学の門前』吉川浩満2022-12-19

2022年12月19日 當山日出夫

哲学の門前

吉川浩満.『哲学の門前』.紀伊國屋書店.2022
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784314011938

吉川浩満の本を読んでおきたいと思って手にした。

哲学の「入門」ではない、「門前」である。これはカフカの「掟の門前」にちなんでのことらしい。(カフカのこの作品は読んでいると思うのだが、残念ながらそう強く印象に残っているということはない。これをきっかけにカフカの短編など読み返してみたいと思う。)

「入門」か「門前」かはともかくとして、本として読んで面白い。なるほど、吉川浩満という人は、このような生き方をしてきて、こんな生活をおくって、こんなふうな勉強があって、いろいろと本を書いているのか。その舞台裏を見せてくれるという意味で(まあ、なんともレベルの低い感想になるのだが)、このような興味で読んで非常に面白い。特に、いわゆる在野の人、大学や研究機関に属さない立場で、著作にはげむ人の一人として、このような生き方もあるのかと、その著書の背景にあるものを理解するうえで、とても面白い。

また、山本貴光との交流のことなど、このような友人に恵まれて、仕事ができるのかと、ちょっとうらやましくもある。(なお、吉川浩満と山本貴光は、慶應SFCの第一期生ということになる。)

しかし、読みながら、いろいろと考えるところがある。ニューヨークに行ったときのこととか、読書会でのこととか、このようなことをきっかけにして、思考を深めていくならば、まさにそれは哲学と言えるだろう。

2022年12月10日記

『鎌倉殿13人』あれこれ「報いの時」2022-12-20

2022年12月20日 當山日出夫

『鎌倉殿の13人』最終回「報いの時」
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/story/48.html

前回は、
やまもも書斎記 2022年12月13日
『鎌倉殿の13人』あれこれ「ある朝敵、ある演説」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/12/13/9547577

一年間の放送が、最終回となった。なるほど、最終回とはこんなふうに作ってもよいものなのかと、感心しながら見ていたというのが正直な感想である。

まずオープニングでちょっと驚いた。このような演出も、大河ドラマならではものであろう。

承久の乱の宇治川の合戦もよかった。宇治川は京の都にとって要衝の地である。(今でも自衛隊がある。子供のころには中に入ったこともある。)

一年間、このドラマを見てきて思うこととしては、次の二つぐらいをあげておきたい。

第一には、権力の物語であったこと。

そんなに過去の大河ドラマを見てきたというのではないが、(古くは「太閤記」のころをのことを憶えている)、おそらく「権力」とはどのようなものであるか、問いかけたドラマとしては、希有な作品になるのではないだろうか。義時は、伊豆の地方の武士の一人にすぎなかったのだが、源頼朝とかかわることになって、最終的には、日本の(あるいは、東国の)権力の座に上りつめることになる。その過程は、権謀術数の渦巻き、争乱の時代でもあった。ただの正義感、または、権力欲だけでは、執権の地位にたどり着くことはできない。そこには、冷静に自己の行為のあり方をみつめ、権力を握るとは何であるのかの、自覚的な判断があった。

第二には、北条氏の物語であったこと。

ドラマの最後のシーンは、義時と政子によるものであったが、思い起こせば、このドラマは、鎌倉幕府、鎌倉殿、というよりも、北条氏の義時と政子の物語であったと感じる。振りかえって思うならば、このドラマの始めの方は、いかにも牧歌的というか、のどかな雰囲気でスタートしたのを憶えている。それが、いつの間にか、血なまぐさい権力の物語へと姿を変えていった。ドラマとして面白くなってきたのは、後半になって、頼朝が死んで、北条氏が権力の中心に位置するようになってからかと思う。

ともかく、以上の二つのことを思ってみる。

ところで、「13人」であるが、最終回にきて「13人」がこのような使い方で出てくるとは思っていなかった。計算し尽くしてのことかと思うが、最終回の最後の場面にいたる伏線が見事である。

さて、一年間のこのドラマを通じて何を感じたのか。いろいろあるが、一言で言ってみるならば、「権力の孤独」とでも言うことができるだろうか。最終的に三浦は敵対することはなく終わるのであるが、真の友人であり命に従う御家人であるとは言い切れない。義時はその家族を失い、最後は政子にとどめをさされることになる。義時は、どんどん孤独になっていき、最終的には、孤独の中で死を迎えることになった。

よくできた歴史ドラマであったと思う。これは、大河ドラマの歴史の中でも傑作と言っていい作品であろう。

来年は『どうする家康』である。どのような戦国の時代を描くことになるのか、これも楽しみに見ることにしよう。

2022年12月19日記