プロフェッショナル仕事の流儀「縁の下の幸福論〜校正者・大西寿男〜」2023-01-19

2023年1月19日 當山日出夫

プロフェッショナル仕事の流儀「縁の下の幸福論〜校正者・大西寿男〜」

この番組は時々見る。この回は、録画しておいて後日にゆっくりと見た。

見て思うこととしては、校正という仕事への認識を新たにしたことである。なるほど、書籍の校正とは、ここまでするものなのかと思ったのが正直なところ。その一方で、ここまでのことは求めない、ただ誤植が無いように見てくれるだけで、むしろそのことを厳格にやってくれればいい、という気もする。

原稿通りになっているか、誤植は無いか、これは決して単純なことではない。ただ、現代の出版事情ということを考えると、ワープロ入稿の時の誤変換ということはあっても、活字の文選の時における間違い、誤植ということはありえない。このあたり、昔の活版の時代のことを体験的に記憶している人間とは感覚が違うところかもしれない。あるいは、ワープロの時代になったからこその、特有の正誤の訂正ということもあるだろう。また、ワープロを使っているにもかかわらず、意外なミスというものもあるかとも思う。

校正という仕事を狭義にとらえれば、今では一般的にはワープロの誤変換の指摘、表記の統一、編集レイアウトの調整、などという範囲で収まるのかと思う。

だが、番組で紹介されたいた校正の仕事は、私の感覚で言うならば、校閲と言っていいだろうし、校正の仕事というよりは、編集の仕事だろうと思う。このあたり、今の出版の現場ではどうなっているのだろうかと思う。

ともあれ、その校正の仕事に対する信頼感は、なるほどと思うところがある。

しかし、これも考えようだろう。一つのことを調べるとして、私の感覚で言うならば、まず参照する範囲の文献、資料を限定すること、かける時間を区切ることからスタートする。無限に時間をかけて調査すればいいというものではない。一つの案件だけ精査するのではなく、全体としてレベルアップすることを考える。

ともあれ、宇佐見りんの小説などに、このような校正の目が入っていることは認識しておくべきことだろうと思う。

このような意味では、校正の仕事は、作品の内側に入りこむ理解力が必要であることになる。しかし、その一方で、機械的に誤植が無いかどうかを冷めた目で判定する冷静さも必要になる。文章を書くこと、読むことについて、いろいろと考えるところのあった番組である。

それから興味深かったこととしては、校正……それも内容にまでかなりふみこんだ……の仕事をする作業場に、ほとんど辞書・辞典・参考図書の類が見当たらなかったことである。机の上においてあったのは、新潮の国語辞典だった。これは、たまたまテレビがそのように映していただけのことかもしれないが。調べ物は、インターネットか図書館か、ということらしい。これもまた現代における校正という仕事の一側面かなと思って見た。

2023年1月16日記