「弁護士シェイナーの正義 米議会襲撃 “暴徒”の声に耳を傾ける」2024-10-19

2024年10月19日 當山日出夫

BS世界のドキュメンタリー 「弁護士シェイナーの正義 米議会襲撃 “暴徒”の声に耳を傾ける」

二〇二四年、アメリカの制作。

二〇二一年のアメリカのワシントンでの議会乱入事件は日本でも大きく報じられたし、いまでも話題にのぼるできごとである。そのときにつかまった人たちの裁判のことである。

登場していた弁護士は、番組でははっきり語っていなかったが、映像では髪の毛を青く染めている。民主党……ということでいいのだろうか。

どのような事件であれ、公正に裁きをうけなければならない。これは、党派や思想心情の違いを越えて、守られるべきことである。この意味においては、弁護士の活動を追うことの意味は、意味のあることだと感じる。

それより興味深いのは、その捕まって裁判となった人たちのことば。自ら愛国者だと言い、民主主義を守ると、言っている。議会乱入事件については、SNSに巻きこまれて正常な判断ができなかったから、という意味のことを語っていた。たぶん、このことばに嘘はないのだろう。

日本での報道などだと、事件は民主主義の破壊であり、それをあおったトランプ前大統領は民主主義の敵である……というような論調があるかと感じる。しかし、どのような人びとが、どのような思いで、トランプ支持になっているかを考えると、そんなに単純なことではない。

例えば、金成隆一の『ルポ トランプ王国』(岩波新書)など読むと、トランプは支持できないとしても、トランプを支持する人たちのことは、理解しなければならないという気持ちになる。端的にいえば、普通にアメリカの市民生活をおくれることを望んでいる、ただそれだけのことである。

それから、番組に登場していた人は、いってみればSNS中毒とでもいうことができるだろうか。社会の中で孤立し、さらにSNSのなかでも孤立している。自分の存在を認めてもらいたいがために、共感してくれる仲間を増やすために、より過激な言論になる。(このあたりの事情については、トランプ支持者に限ったことではないだろうし、また、日本においても観察できることでもある。)

アメリカ社会のなかにある、法の正義についての信頼感と同時に、悪魔の発明とでもいうべきSNS世論の弊害、これらを感じたことになる。

2024年10月17日記

「名前を変えて生きる人」2024-10-19

2024年10月19日 當山日出夫

ねほりんぱほりん 名前を変えて生きる人

名前を変える……この場合は、姓名の名であるが……には、いろんな事情がある。

自分の名前の文字がいやだったり、家庭環境に問題があったり、トランスジェンダーであったり。番組に出てきた事例は、なっとくできるものであった。(まあ、だからこそ、このような事例で番組を作ったということにはなるのだろうが。)

僧侶としての名前に変えるということは、これは有りうることである。ただ、宗派によっては、その規定に違いはあることになるが。それから、伝統的な店舗などで、そこの主人は、代々その名前を名乗ってきて、何代目の、というような場合も、これは可能だったかと思う。これらは、個人的というよりも、社会的な事情によるものということになる。

そういえば、うちの子どもたちが、小学校のとき、それぞれ、学校の宿題で、自分の名前の由来を親に聞いてきなさいという宿題を出されて、それについて説明したことを憶えている。我が家の場合は、出典、典拠、というべきものがあっての命名ではあった。

見ていてちょっと驚いたのは、新しい名前を決めるときに、画数ということを言っていたことである。日本語研究者のはしくれとして、文字とか表記のことを勉強してきた人間ではあるが、漢字の画数なんて、まるっきりあてにならないものはない、というのが、まあ、学問的な常識、いや、常識以前のことである。こういうところのギャップ……専門的知見や感覚と一般の思うところとのすれちがい……これは、どうしようもないものだろうか。

この番組では言っていないことになるが、日本語の名前の構造が、「姓・名」であるというのは、当たり前のようだが、しかし、世界的に見れば、決して普通ではない。

まず、名前の構成要素が、姓と名、からなることも決して一般的なことではない。名字の無い言語もある。また、英語などでは、ミドルネームというものもある。それから、その順番もいろいろである。日本語式に「姓・名」である場合もあれば、英語式に「名・姓」の場合もある。世界の言語の数だけ、人の名前のルールがあるというべきだろう。それを強引に、「姓・名」の枠組みで処理しようとすること自体を、そろそろ考えなおすべきときかもしれないとは思う。

これから増えるにちがいないのが、いわゆるキラキラネームが嫌で、変えたいという希望だろう。

将来的に考えるべきこととしては、読める名前の漢字であること、それから、ジェンダーの違いにどれだけ配慮すべきかということ。中立的な名前がいいのか、はっきりと男女差が明示される名前がいいのか、というあたりのことになるだろう。

2024年10月16日記