歴史探偵「日本人とごはん 2000年の秘密」 ― 2024-10-31
2024年10月31日 當山日出夫
歴史探偵 日本人とごはん 2000年の秘密
言っていることの一つ一つはウソではないのだろうが、全体をとおしてみると、なんだかなあ、という気になる。
たしかに、弥生時代から日本の地において、稲作が始まったことは確かなことなのだろう。ここも、縄文時代との連続、非連続というあたりを考えると、議論はいろいろあるだろう。
弥生時代にそのようにして土器で御飯を炊いていたということは、まあ、たぶんそのとおりかもしれない。だが、御飯だけ食べて人は生きていたのではないはずである。その他に何を食べていたのか、その調理法はどんなだったのか、これらを総合的に考えないと、御飯のことだけ調べてもそう意味のあることではない。
今の歴史学や考古学では、弥生時代イコール米作、ということで考えていいのだろうか、まずこのあたりのことから問題かなと思う。プラントオパールから稲作の歴史を考えるという研究は、しばらく前からはじまったと憶えているが、現在ではどこまで分かっているのだろうか。今なら、DNAの解析などから、もっといろんなことが分かるようになっているだろうと思うが。
古墳時代になって、気候変動のせいでお米がとれなくなった。これは、年輪年代学などから、昔の気候は推定することが可能になってきている。だから、お米を蒸すという調理法に変わったというのは、ちょっと短絡的に思える。お米がとれなくなったという気象条件のもとで、より潤沢な燃料……その原料は樹木であるが……が手に入ったということなのだろうか。薪に適した樹木の歴史ということも、同時に考えるべきかと思う。また、薪をつくる労働力のことも、どう考えるということになる。
江戸時代、釜の蓋が重くなったというのは、そのとおりなのだろう。その結果、今にいたる御飯の炊き方のスタイルが定着したということは、そうかと思う。
釜で御飯をたくには、まずかまどが必要である。古墳時代から使われたというのだが、これはどのような史料から判断できることなのだろうか。それから、今のような鉄製の釜の製法は、どうやって可能になったのだろうか。その釜も、日本において、どこで製造されて流通したものなのだろうか。
弥生時代から日本で米作をおこなってきたことは確かだとしても、米というものがどういう意味の植物であり食物であったかは、そう簡単なことではないかと思う。これは、民俗学などの分野の問題かもしれない。
江戸時代の藩の規模を、~~石と、お米の取れ高で言うようになった。つまり、お米を基準に経済の規模を計るようになったのは、どのような歴史的背景があってのことなのだろうか。日本中で米作ばかりをしていたわけではない。米作のできない山間部もあり、また漁村などもあった。
江戸時代のこととしては、各地で作られた米は、どのように流通してどう消費されていたのだろうか。
日本の歴史と米作については、いろいろと考えるべきことが多いと思う。ただ、日本人=米作、という図式にとらわれずに考えることが求められているのが、今日の歴史学であろうと思っている。強いていうならば、米をめぐる言説の歴史をたどること……米作と日本の起源、農業=米作、米を経済の単位としたこと……など、いわゆる「想像の共同体」という観点から考えなおしてみる必要があるかとも思うのである。
2024年10月24日記
歴史探偵 日本人とごはん 2000年の秘密
言っていることの一つ一つはウソではないのだろうが、全体をとおしてみると、なんだかなあ、という気になる。
たしかに、弥生時代から日本の地において、稲作が始まったことは確かなことなのだろう。ここも、縄文時代との連続、非連続というあたりを考えると、議論はいろいろあるだろう。
弥生時代にそのようにして土器で御飯を炊いていたということは、まあ、たぶんそのとおりかもしれない。だが、御飯だけ食べて人は生きていたのではないはずである。その他に何を食べていたのか、その調理法はどんなだったのか、これらを総合的に考えないと、御飯のことだけ調べてもそう意味のあることではない。
今の歴史学や考古学では、弥生時代イコール米作、ということで考えていいのだろうか、まずこのあたりのことから問題かなと思う。プラントオパールから稲作の歴史を考えるという研究は、しばらく前からはじまったと憶えているが、現在ではどこまで分かっているのだろうか。今なら、DNAの解析などから、もっといろんなことが分かるようになっているだろうと思うが。
古墳時代になって、気候変動のせいでお米がとれなくなった。これは、年輪年代学などから、昔の気候は推定することが可能になってきている。だから、お米を蒸すという調理法に変わったというのは、ちょっと短絡的に思える。お米がとれなくなったという気象条件のもとで、より潤沢な燃料……その原料は樹木であるが……が手に入ったということなのだろうか。薪に適した樹木の歴史ということも、同時に考えるべきかと思う。また、薪をつくる労働力のことも、どう考えるということになる。
江戸時代、釜の蓋が重くなったというのは、そのとおりなのだろう。その結果、今にいたる御飯の炊き方のスタイルが定着したということは、そうかと思う。
釜で御飯をたくには、まずかまどが必要である。古墳時代から使われたというのだが、これはどのような史料から判断できることなのだろうか。それから、今のような鉄製の釜の製法は、どうやって可能になったのだろうか。その釜も、日本において、どこで製造されて流通したものなのだろうか。
弥生時代から日本で米作をおこなってきたことは確かだとしても、米というものがどういう意味の植物であり食物であったかは、そう簡単なことではないかと思う。これは、民俗学などの分野の問題かもしれない。
江戸時代の藩の規模を、~~石と、お米の取れ高で言うようになった。つまり、お米を基準に経済の規模を計るようになったのは、どのような歴史的背景があってのことなのだろうか。日本中で米作ばかりをしていたわけではない。米作のできない山間部もあり、また漁村などもあった。
江戸時代のこととしては、各地で作られた米は、どのように流通してどう消費されていたのだろうか。
日本の歴史と米作については、いろいろと考えるべきことが多いと思う。ただ、日本人=米作、という図式にとらわれずに考えることが求められているのが、今日の歴史学であろうと思っている。強いていうならば、米をめぐる言説の歴史をたどること……米作と日本の起源、農業=米作、米を経済の単位としたこと……など、いわゆる「想像の共同体」という観点から考えなおしてみる必要があるかとも思うのである。
2024年10月24日記
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