100分de名著「アトウッド“侍女の物語”“誓願” (2)性搾取の管理社会」2025-06-19

2025年6月19日 當山日出夫

100分de名著 アトウッド“侍女の物語”“誓願” (2)性搾取の管理社会

思想には歴史がある、ということを何度も書いてきている。この作品の書かれた歴史的状況と現代までの流れをふまえた議論であるべきと思う。ただ、バックラッシュというだけでは、不誠実という印象をうける。(とはいえ、なぜそうなった背景まで、いろんな言説や運動の経緯を語るのは、時間もかかるし、難しいことではあるだろうが。)

女性の結婚や出産については、現代の価値観としては、それぞれの個人の自由な意志を尊重すべきである、国家や社会が強制的に介入すべきではない、という方向になってきている。

このこと自体に異論があるというのではないのだが、そもそも男女のあり方とか、家族のあり方とかというものは、どこにその判断の淵源をもとめることができるのか、ということは考えておきたい。結婚とか家族の制度が社会構築的なものであることはたしかであるとして、では、それを取り払って人間は完全に自由(~への自由も、~からの自由も)得られるのか、というとそうではないだろう。社会構築的なものを排除していったさきには、おそらく自然の状態でどうあるのか、というところにしかいきつかない。人間の価値観について、まったく自然の状態がどうであるか、ということはとても難しいと思う。何が自然の状態であるか、という判断自体も、またなにがしか社会構築的な部分がある。

言語は、もっとも社会構築的なものの一つにちがいないが、男性ということばも、女性ということばもない状態としては、これは、言語の成立以前の状態を想像するしかないことになる。

歴史人口学、民族学、民俗学、などの知見としては、性や家族のあり方は、実に多様であったというべきだろう。(これらのすべてをまとめて、過去の遺制として否定的に見ることもできるだろうけれど。)このようであってはいけないという性や家族の形と、逆に、こうあるべきだという性や家族の形について、あまりにも紋切り型で考えているように、思えてならない。ここのところで、歴史や文化について余裕を持って考えるところがない、ということが、議論のすれ違いとして問題となるところかと思うことになる。

一般的にいえば、人間が文化をもつ生きものとして社会をつくって生きている以上、性についてまったく管理されない、完全に自由である、そのような社会ということは、ありえないだろう。これは、人間とはどういうものかという考え方の根本にかかわる。

『侍女の物語』から、人間とは、人間の社会とはどういうものなのかという洞察を読みとることができるとするならば、理念の教条化の危険ということになるだろうか。そして、強いていうならば、今の世のなかを見ていると、リベラリズムは、リベラリスト独裁によってでしか実現できない……これは杞憂ではないと、私は感じるところである。

2025年6月17日記

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