「観光する写真家」を読む2008-03-18

「観光する写真家」を読む 2008/03/18 當山日出夫

蒼猴軒日録で紹介されていた『写真空間』(1)特集:「写真家」とは誰か、を手にする。まず、その中で、「観光する写真家」(佐藤守弘)について、いささか。

http://d.hatena.ne.jp/morohiro_s/20080311

始めに断っておくと、私は、写真については、いわゆる「ハイ・アマチュア」と言っていいかなと思う。マニュアル機(フィルムカメラ)としては、ニコンF2・F3と持っているし、デジタルで使用しているのは、オリンパスE-3。

また、昔、高校生のころであるが、角川文庫で出ていた『都名所図絵』をガイドブックにして、京都の街を写してあるいた。(そのころ、使っていたのは、ミノルタSR-T101。)

従って、京都の街の江戸時代からの連続性、また、それを、視覚的にどうとらえるかということについて……今になってみれば、このような問題設定になるが、その当時はそんなこと考えずに写真を、撮っていた。(まだ、写真雑誌として、『カメラ毎日』があった時代のころである。)

そして、今、京都の文化にかかわることがらを、デジタルでどうとりあつかうか……GIS、デジタルアーカイブ、モーションキャプチャ……など、かかわりを持つようになっている。

このような経験・視点から読むと、「観光する写真家」は、非常に面白い。私のこの視点からは、次の指摘が最も重要であると感じる。近代社会が「観光」というものを視覚的に生み出したということを指摘したうえで、佐藤さんは、以下のように記している。

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では、なぜ京都という都市がノスタルジックな場所として表象されたのだろうか。(p.49)

京都という都市は、近代国家成立時に、日本の独自性という神話を支えるトポグラフィカルな装置として構想されたものといえよう。ただ、構築されたものは構築されたとたん、その起源は忘却されるのがつねである。京都と過去を結びつけた近代国民国家のイデオロギーもまた目に見えないものになってしまう。(p.50)

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京都の文化を、デジタル・ヒューマニティーズ研究の対象として選んだとき、そこに何を表象として見ているのか……いったいどれほどの人が、この点について自覚的であろうだろうか。都市としての連続性があり、また、資料が豊富に存在する、ただ、これだけで「京都」である、ということではないはずである。

京町家の移り変わりをGISやCD・VRで、示すことはできる。時代的には、江戸時代のおわりごろぐらいまでは、さかのぼれるだろう(建築史には詳しくないので、細かいことは分からないのだが)。では、京町家に何を表象として見てとるのか。

おそらくリアルなものとしては、江戸時代(近世・封建社会)における、庶民の暮らし、ということになるのかもしれない。この意味では、『逝きし世の面影』(渡辺京二)に、どこかでつながるかもしれない。いや、これらを、総合的に見る視座の確保こそが課題であろう。

佐藤さんが指摘している、京都を研究対象とすること自体がはらんでいる暗黙の(あるいは、封印された)イデオロギー……これについて、考えていかなければならないと思う次第である。

『写真空間 1』.青弓社編集部(編).青弓社.2008

『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー).渡辺京二.平凡社.2005.(この本のオリジナルは、1998年.葦書房)

當山日出夫(とうやまひでお)

『さらば長き眠り』2008-03-18

2008/03/18 當山日出夫

原尞の作品、『愚か者死すべし』を早川書房が文庫化した。となると、どうしても読んでしまう。そうすると、最初にもどって、『そして夜は甦る』『私が殺した少女』『天使たちの探偵』『さらば長き眠り』と、順番に再読することになる。文庫本が出るたびにこれを繰り返す。別に文庫本が出なくても読み返すのだが。

ま、ともあれ、やっと『さらば長き眠り』(文庫本)まで、読み終えた。

個人的には、ハードボイルドよりも、ピーター・ロビンソンとか、エリザベス・ジョージ、などの作品が好きなのだが……ミステリ中毒といっても、やはり好きな作品にはかたよりがある。

個人的偏見として断定しよう……「本格」を論じるなら、仁木悦子、をまず読まねばならない、と。そして、仁木悦子のもう一つの個人的な側面についても……学校教育を受けていないこと、車いすでの生活、かがり火の会のこと、など。そのうえで、仁木兄妹シリーズと、三影潤シリーズ、のこと。

で、原尞にもどれば、やはり、これだけの作品になると、時間の流れを感じる。『そして夜は甦る』では、10円硬貨で電話がかけられないこと(テレフォンカード)に不満あった、探偵(沢崎)が、『愚か者死すべし』では、携帯電話をつかうようになっている。このような、風俗的な部分で時の変化を感じはするものの、作品そのものに古さを感じることはない。このあたりが、ハードボイルドとしての本質なのであろう。

ついでに、ミステリについて言えば、今、検索をしてみたら、名著『ミステリーの社会学』(高橋哲雄、中公新書)が、本屋さんで買えなくなっている。ミステリについて論じるとき、まず読まねばならない本である。毎年、12月になって、「このミス」に狂奔する日本の出版業界の見識の浅薄さを感じずにはいられない。本当に『ミステリーの社会学』(高橋哲雄)への需要が無いのか、中央公論新社が無理解なだけなのか。

當山日出夫(とうやまひでお)