新常用漢字:表の全貌2009-01-31

2009/01/31 當山日出夫

小形さんの「もじのなまえ」で、「新常用漢字表(仮称)」の最終案について紹介してある。小形さんには、感謝したい。

もじのなまえ 2009年1月30日

http://d.hatena.ne.jp/ogwata/20090130/p1

小形さんのブログにもあるとおり、現時点で、ここから見られるデータは、最終案ではない。だが、そうはいっても、「しかる」が「口+七」から「口+ヒ」に変わる可能性は無いだろう。

今後のなりゆきとしては、
・文化庁は、どのような形式でパブリックコメントを出すのか。オンラインの場合、画像データによるのか、フォント埋め込みPDFによるのか。
・マスコミなどは、どのようにこれを表示するのか。具体的には、どのフォント(グリフ)でしめすのか。

まずは、このあたりが、注目しておきたいところ。

まさか、文字の「認定」のために、文字コードまでつけて示す、などということは無いだろう。しかし、漢字字典の業界にとっては、最も重要な問題。今の漢字字典は、文字コード付きがあたりまえになっている。

當山日出夫(とうやまひでお)

『漢和辞典に訊け!』2009-01-31

2009/01/31 當山日出夫

『漢和辞典に訊け!』(ちくま新書).円満字二郎.筑摩書房.2008

昨年末に出た本であるが、ようやく、積んである本のなかから出してきて読んだ。その代わりに新しく積み上がった本に、『日本語活字ものがたり』(小宮山博史、誠文堂新光社)があるが、この本については、後ほど。

先のメッセージに書いたとおり、ようやく、新常用漢字表(仮称)の試案が、決定のはこびとなった。小形克宏さんのブログによる。

まずは、時宜を得た出版である。新常用漢字との関係でいえば、「正しい文字」とは何か? という実践的な(字書の編集者の立場から)問いかけである。

もし、正しい字=正字体=旧字体=康煕字典体、であると考えるとするならば、こんな図式はなりたたない。細かな点では、明朝体のデザインの問題にもおよぶ。(実は、この点は、先日の、情報処理学会CH81で、横山さんたちとの発表で問題になった点でもある)。

今の日本で、「正しい字」をもとめるとするならば、常用漢字表、ぐらいしかない。これは、「正しさ」の意味が、通常の意味と少し異なる。ここでいう「正しさ」とは、揺るぎない規範性、の意味と理解して置かねばならない。伝統的な意味を付与した「正しさ」ではない、

『漢和辞典に訊け!』は、このほか、漢和辞典と漢字をめぐる種々の問題にふれてある。ここで言及したのは、主に、第3章「漢和辞典で漢字の形について知る」の内容。

この本でも書いてあるが、今の日本の漢字の辞典は、文字コードが書いてある。そして、実用的に使えるのは、JISの第1・2水準の、6355字までと、する。では、「しかる=口+七」は、どう扱えばいいのか……おそらく、各出版社の漢字の辞典の編集者を悩ませることになるに違いない。

ここで、あらためて考えるべきは、新常用漢字表にもとめるのは、漢字の「正しさ」なのであろうか、それとも、「規範性」なのであろうか。歴史的な「正しさ」(もし、あるとして)と、現実的な「規範性」(これは、規定可能)、これらは、次元の異なるものであることを、まず認識しておかなければならない。

當山日出夫(とうやまひでお)

速記と文字のこと2009-01-31

2009/01/31 當山日出夫

以前に書いたメッセージに、コメントをもらっている。参議院の速記の件。

2009年1月4日

これについては、ネット上では、次の記事で確認できる。「参議院の速記をパソコンで」
http://slashdot.jp/article.pl?sid=06/05/03/2232243

テープレコーダーなど、音声記録の手段をもたなかったとき、速記というのは、話したままを記録する、有効な(あるいは、唯一の)手段であったのかもしれない。逆に、原稿に書いたままを読み上げるなら、また別だが。

これは、冗談として言っているのではない。かつて、アサヒネットが、パソコン通信の会社だったとき、オフ会で、参議院の速記担当者と話して、「どうせ、官僚の書いた作文原稿を読み上げるだけの議会の議事録なら、いっそのこと、それをそのまま使ったらどうですか」と言ったら、苦笑していた。

ところで、「速記」ということを考えていくと、「文字」についても、考えることになる。われわれは、どのようにして、音声言語を文字にしているのか、逆に、文字からどのような音声言語をみているのか。

少なくとも、常識的な日本語史の教えるところでは、明治以降の、落語・講談などの筆録のはたした役割は大きい。その背後には、速記の存在がある(のだろう。)

たとえば、内村鑑三の全集を読んでいくと、講演の筆記録が多数ある。これは、どのようにして成立したのだろうか。演説原稿があって、それを、もとに文章化したものか、演説を速記したものに手を加えたものなのか。読んでいくと、はじめから文章として書いたものと、講演の筆録では、用字・用語が、異なる。

内村鑑三全集の全巻のデジタル化はすでにあるのだが、このような研究につかうためには、さらに加工の必要がある。さて、どうかんがえるべきか。というよりも、今後、どのように研究を展開すべきか。

當山日出夫(とうやまひでお)