『海辺のカフカ』(下)村上春樹2019-04-12

2019-04-12 當山日出夫(とうやまひでお)

海辺のカフカ(下)

村上春樹.『海辺のカフカ』(下)(新潮文庫).新潮社.2005 (新潮社.2002)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100155/

続きである。
やまもも書斎記 2019年4月11日
『海辺のカフカ』(上)村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/11/9058266

『海辺のカフカ』を下巻まで読み通して、深い文学的感銘をおぼえる。

だが、ストーリーは、ある意味では荒唐無稽である。しかし、これは、時空のゆがんだ村上春樹の物語世界である。この物語世界は、村上春樹のプリズムをとおして、ゆがめられて、この世の文章として定着してある。しかし、そのもとをたどっていけば、ある究極の一点、それは、世界の始原とでもいうべき一点に収斂していく。

『海辺のカフカ』を読んだ印象をのべれば、上記のようになる。

ただ、リアルな小説として読んだのでは、この作品はつまらない。ありえないようなストーリーの展開なのだが、それを読むなかで、思わずに物語世界の中に没入して読みふけるような感覚がある。この感覚を感じない人にとっては、ただわけのわからない小説ということになるのかもしれない。

なるほど、村上春樹がノーベル文学賞の候補になるだけのことはある、そう感じさせる作品である。この作品は、ある種の世界性、普遍性がある。一見すると不整合に見えるこの世界のできごとは、視点を変えることで、ネガがポジになるように反転して見える。いや、それ以上に、キュビズムの絵画のように、いくつかの視点が交錯しめくるめく反転する物語が、全体として、一つの究極の姿をその背後に描き出す。それは何か……それは、もはやことばでは表現できないものであるとしかいいようがないのかもしれない。しかし、そのことばにはならないものに、あくまでもことばで構築する物語として、その始原にせまっていく。

おそらく、文学というものが芸術であるとするならば、村上春樹は、芸術としての文学の書ける希有な作家であることはまちがいない。

追記 2019-04-13
この続きは、
やまもも書斎記 2019年4月13日
『アフターダーク』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/13/9059054