『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』村上春樹2019-04-09

2019-04-09 當山日出夫(とうやまひでお)

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

村上春樹.『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文春文庫).文藝春秋.2015(文藝春秋.2013)
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167905033

『1Q84』につづけて読んだ。

やまもも書斎記 2019-04-06
『1Q84』BOOK3(後編)村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/06/9056096

私は、これまであまり村上春樹の書いたものを読んでこなかった。若い時にそのいくつかの作品を手にしたことはあるのだが、その後、読者になることすぎてしまった。だから、村上春樹の世評が高いことは知ってはいるが、その評価の内実ということにはとんとうとい。

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読んで感じること、それは、主人公のつくるが、駅を作っていることへの関心である。駅……それは、現代において、〈境界〉を意味する空間かもしれない。かつて、古代から中世において、河原や橋や峠などが、この世とあの世、この世界と別の世界、その分岐点であり、それらをつなぐ存在であったように。このようなことは、民俗学、あるいは、民族学において、常識的な見解だろう。

駅をとおって、人は旅に出る。移動する。別の空間に向かう。この現代の〈境界〉とでもいうべき駅をつくる主人公が設定されているのは、どういう理由によるのだろうか。別にこの小説の主人公の仕事が駅を作ることでなくても、たとえば銀行員などであっても、十分にこの小説はなりたつのかもしれない。しかし、読後感としては、やはり、駅でなければならない何かがあるように感じさせる。

村上春樹の文章を読んで思うことは、読み進むにしたがって、この世界から、ひとつベールを隔てた別の世界に迷い込むような感覚である。あるいは、街をあるいていて、角をまがるごとに、別の風景が展開するとででもいうべきだろうか。

この小説において、主人公のつくるは、ある謎を追っていく。そして、旅に出る。旧友と再会する。だが、その結果は、何も得られていないようである。謎の真相があきらかになるということはない。謎は謎のままである。だが、そこに不満は感じない。読んで感じるのは、主人公の旅の充足感である。

あるいは、その先の世界を感知するギリギリのところに位置しながら、立ち止まっている、何かしら奇妙な感覚とでもいうべきだろうか。その向こうの世界への漠とした予感のようなもの。それを感じながら、そこで立ち止まっている、何かしら不思議な感覚。

駅にはさまざまな人のながれがある。その生活がある。旅がある。その〈境界〉の場所である駅に、主人公は魅了されている。多くの人びとの結節点であり、分岐点である駅。その駅にたたずむことが、主人公の位置する場所ということになる。

この小説は、現代において人びとをひきつけるだけの魅力をもっている。

追記 2019-04-11
この続きは、
やまもも書斎記 2019年4月11日
『海辺のカフカ』(上)村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/11/9058266