千両2021-12-01

2021-12-01 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので写真の日。今日は千両である。

前回は、
やまもも書斎記 2021年11月24日
綿毛
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/11/24/9442727

もう一二月である。写真は、先月、一一月のうちに写しておいたものからである。千両の実である。これも今では、赤く色づいている。その色が変わり始めたころのものである。

千両や万両の実の色の変化を見ていると、季節の移り変わりを感じる。千両の実は、色の黄色くなるものと、赤くなるものとがある。今年は、例年写している黄色い実が、ほとんど見られない。

これもそのうち、鳥が来て食べてしまってなくなる。強いて防護しようとも思っていないので、自由に鳥が食べるのにまかせている。だいたい、鳥が食べ尽くすころになると、一番寒い時期を迎えることになるだろうか。

紅葉は、盛りを過ぎたころである。公孫樹の葉も色づいて、ほとんど散ってしまっている。駐車場の山茶花の花が咲いている。南天の実も赤く色づいているのだが、これも鳥が食べてしまうので、少なくなってきている。秋も終わりで、冬になろうとしている。

千両

千両

千両

千両

Nikon D500
TAMRON SP 90mm F/2.8 Di MACRO 1:1 VC USD

2021年11月29日記

追記 2021-12-08
この続きは、
やまもも書斎記 2021年12月8日

https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/12/08/9446316

『100万回死んだねこ』福井県立図書館2021-12-02

2021-12-02 當山日出夫(とうやまひでお)

100万回死んだねこ

福井県立図書館.『100万回死んだねこ-覚え間違いタイトル集-』.講談社.2021
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000356010

福井県立図書館のHPで公開されているものを編集してある。覚え間違いタイトルは、福井県立図書館が、かなり以前から、収集して公開している。SNSなどで、その存在は知られていたものであるが、これがついに本になったかという気がする。

売れている本のようだ。図書館関係の本としては、異例のベストセラーといっていいかもしれない。

読んで思うこととしては、次の二点ばかりを書いておく。

第一には、読んで面白いこと。

「100万回死んだねこ」は、無論、「100万回生きたねこ」の覚え間違いである。(この絵本は、うちの子どもが小さいころに買ってきて読んだのを覚えている。絵本としては、有名なものである。)

この他、いろんな本のいろんな覚え間違いが紹介されている。どうしたらこんなふうに思い間違えることができるのか、読んでいてふと笑ってしまうような事例が多い。

第二には、図書館、司書の存在意義について。

利用者から本を探しているという依頼があった場合、なぜ司書は、そんなに丹念に探索することになるのか。まさに、司書という職業の存在意義が、ここで問われることになる。また、図書館とは何のためにあるのか。図書館の存在が、根底から問いかけられもする。

このことに、この本はある意味できちんと答えている。

以上の二点が、この本を読んで思うことなどである。

それから、さらに書いてみるならば……本を探すとき、あるいは、何かを検索するとき、漢字ではなく、ひらがなの読みで検索するとうまくいくことがある、これは、非常に重要なヒントである。図書館の蔵書検索だけではなく、一般のネット検索にも応用できる。

2021年11月29日記

映像の世紀プレミアム(17)「人類の危機」2021-12-03

2021-12-03 當山日出夫(とうやまひでお)

映像の世紀プレミアム (17) 人類の危機

再放送を録画して見ていっている。いつものように月曜の放送を録画しておいて、木曜日に見た。(火曜日は、『青天を衝け』について書いているし、水曜日は写真の日である。また、学校に行く日でもあるので、どうしても木曜日に見ることになる。)

二〇二〇年の放送。スペイン風邪のことからはじまっていた。最初の放送のときも見ている。そのときに思ったことは、スペイン風邪のことを、いずれ映像の世紀プレミアムでもとりあつかうことになるだろうが、それはどんなものになるのか、という印象である。

どうやらスペイン風邪はアメリカが発祥地らしい。それが、第一次世界大戦のなかで戦場にひろがった。その後、世界に広がることになる。ただ、その当時は、戦場での疫病の発生自体が軍事機密とされた。スペイン風邪の名前の由来は、スペインで感染が大きく報じられたことによる。

ここで、日本のこととして芥川龍之介が登場していた。これはこれとして興味深いものなのだが、それよりも、日本での流行がどうであったのか、このあたりもう少し詳しく語ってほしかったという気がしてならない。(これは、今のCOVID-19のことを考えてみても、その当時の普通の人びとが、スペイン風邪のことをどう思って暮らしていたのか、興味のあるところである。)

大恐慌。ここで日本は登場しなかった。しかし、日本では昭和の初めにおきた大恐慌のあおりで、その後の日本の歴史が大きく動くことになったとはいえそうである。アメリカで、大恐慌からのがれることができたのは、結局は戦争ということである。日本においても、昭和初期の不況をぬきにして、その後の日中戦争、太平洋戦争を考えることはできないだろう。

キューバ危機。核戦争の一歩手前までということでは、未曾有の人類の危機であったかもしれない。それをすくうことになるのは、為政者……ケネディ大統領など……の判断もさることながら、現場の判断によるところが大きかったというのは、貴重な記録といっていいだろう。

チェルノブイリ原発事故。これは、今にいたるまで片付いていない。いったいこの事故の決着をみるまでに、どれほどの年月がこれからかかることだろうか。それにしても、事故処理にあたるのに、最終的には人手によるほかなかったというのは、これはどうにかならなかったものかとも思ってしまう。(ただ、番組では、ここで日本の福島の事故のことについては言及することがなかった。これはこれとして、一つの立場だろう。)

最初、この番組の放送があったときは、まさにCOVID-19の流行で、この先の世の中どうなるのだろうかと、不安な思いであったのを思い出す。再放送のときにも、まだ流行はおさまっていない。感染の再拡大する国がある。また、あらたな変異株のことも懸念材料としてある。これから、世界がこの危機をのりこえるには、まだ時間がかかることになるだろう。

2021年12月2日記

『戦争と平和』(三)トルストイ/望月哲男(訳)光文社古典新訳文庫2021-12-04

2021-12-04 當山日出夫(とうやまひでお)

戦争と平和(3)

トルストイ.望月哲男(訳).『戦争と平和』(三)(光文社古典新訳文庫).光文社.2020
https://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334754327

続きである。
やまもも書斎記 2021年11月27日
『戦争と平和』(二)トルストイ/望月哲男(訳)光文社古典新訳文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/11/27/9443468

三冊目には、戦争のことは出てこない。戦闘場面はない。ただ、解説によると、この小説の舞台背景としては、ロシアとフランスの間では、ただならぬ事態が進行していたようである。だが、西欧の歴史に疎い私としては、ただ小説の物語の展開を追って読んでいる。

ここで魅力的なのは、なんといっても、ナターシャである。ロシア的な理想の女性というイメージで登場してくる。特に、舞踏会のシーンは印象に残る。また、村での狩りの場面とか、それにつづく音楽の演奏など、かなり理想化したロシア女性として描かれていると感じるところがある。

だが、そのナターシャも、この巻の終わりの方で、あやまちをおかすことになる。なんとも愚かな女であることかと思ってしまう。さて、これから、ナターシャとアンドレイの関係はどうなるのだろうかと気になる。(まあ、この作品を読むのは、何度目かになるので先のことは分かってはいるのだが。)

ここまで描かれているのは、ロシア的としかいいようのない何かなのだろうと思って読む。これは、ドストエフスキーを読んでも感じるところではあるが、ナターシャや、アンドレイの言行など読んでいくと、これがロシアの人びとの思うことなのか……といっても、当時のロシア貴族は、その当時の社会のほんの一握りであったのだろうが……強く印象に残る。

それにしても、貴族だからといっても、必ずしも経済的に裕福であるとは限らない。この小説は、金銭的なことにかなり細かい。貴族の生活も、それなりの生活を維持しようと思うならば、とても大変だったようだ。

さて、彗星が空に出たところで、この巻が終わる。これからのロシアの運命はどうなるのか、ナターシャやアンドレイを始めとする登場人物たちはどうなるのか、楽しみに次の巻を読むことにしたいと思う。

2021年10月15日記

追記 2021年12月11日
この続きは、
やまもも書斎記 2021年12月11日
『戦争と平和』(四)トルストイ/望月哲男(訳)光文社古典新訳文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/12/11/9447055

『カムカムエヴリバディ』あれこれ「第5週」2021-12-05

2021-12-05 當山日出夫(とうやまひでお)

『カムカムエヴリバディ』第5週
https://www.nhk.or.jp/comecome/story/details/story_details_05.html

前回は、
やまもも書斎記 2021年11月28日
『カムカムエヴリバディ』あれこれ「第4週」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/11/28/9443704

戦後の大阪を舞台にした週であった。一九四八(昭和二三)年までということのようだが、その時間の流れを感じさせない、凝縮した展開であった。

安子は岡山の家を出る。(ただ、このとき、いくら朝一番の汽車だからといっても、がら空きなのは、ちょっとどうかなと思ったが。)かつての稔の住まいしていたところで、住むところをたのみこむ。大阪で、芋アメをつくり、闇市で売る。そのうち売れるようになり、「たちばな」の名前で、おはぎも作って売るようになった。

この週で、このドラマのタイトルである「カムカムエヴリバディ」のラジオ放送がはじまった。はじめは、よその家のラジオをこっそりと聞くだけだったのだが、そのうち余裕ができて、ラジオを買うことができたようだ。(このあたり、ラジオ購入の経緯が描かれているとよかったと思うのだが、省略されてしまっていた。)

仕事に忙しくなった安子は、配達の途中で、事故にあう。結果として、自分の腕は折れることになり、また、るいの顔にも傷をのこすことになってしまった。

最後、安子とるいは、岡山に帰る。

このような展開のなかで、特に印象に残っているのは、「カムカムエヴリバディ」の放送を軸とした部分だろうかと思う。このドラマはフィクションであるが、このラジオ放送は、事実にもとづいている。

私の経験……一九五五年の生まれ……では、「カムカムエヴリバディ」の放送を聞いたことはない。しかし、どこかで「カムカム英語」ということばを目にしたか耳にした記憶はある。それほど、戦後の人びとにとって、ラジオの英語講座は、戦後の日本を象徴するものだったのだろうかと思う。

そして、「カムカムエヴリバディ」の講座の内容は、普通の日本の人びとの生活に即したものであったらしい。たぶん、このあたりは、考証して作ってあるのだろうとは思うが。

また、戦後の闇市のシーンで、パンパンの姿がなかった。これは、以前の『エール』のときもそうだった。必ずしもそのような女性の姿を登場させなくてもいいということなのかもしれない。(だからといって、そのような女性がいたことを忘れてはならないとも思うが。)

次週は、再び岡山に舞台がもどって、ドラマは展開するようである。楽しみに見ることにしよう。

2021年12月4日記

追記 2021年12月12日
この続きは、
やまもも書斎記 2021年12月12日
『カムカムエヴリバディ』あれこれ「第6週」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/12/12/9447336

映像の世紀プレミアム(21)「太平洋戦争 銃後 もうひとつの戦場」2021-12-06

2021-12-06 當山日出夫(とうやまひでお)

映像の世紀プレミアム 第21集 太平洋戦争 銃後 もうひとつの戦場

今、映像の世紀プレミアムを順次再放送しているのだが、その途中でこの放送である。太平洋戦争から八〇年ということでの企画のようだ。見て思うことなど、思いつくままに書いてみる。

これまで、映像の世紀のシリーズでは、日本ニュースの映像を多く使ってきたが、その会社の設立の経緯からスタートしていた。映像資料といえども、誰がどのような意図で製作したのか、史料批判の目が必要ということである。

この回の放送は、特に、これまでの放送では使わなかったの映像資料を多く使っていたように思える。

昭和一六年の、戦争開戦をつげる大本営の発表の場面。これが、後になってから再現撮影した、いわゆるやらせ映像であることは、この放送で知った。

印象に残る場面がいくつかある。

慰問袋をつくるアイヌの人びとの映像。これは貴重なものであろうと思う。

テニアンの人びとのくらし。沖縄出身で、南洋に移住した人びとの生活が、興味深い。島には、映画館やカフェもあったそうだが、この当時のカフェは、おそらく風俗営業の店だろう。このあたりは、説明があってもよかったかと思われる。

何よりも印象にのこるのは、テニアンの島に作られた、日本人の子どもたちのための学校。テニアンというと、悲劇的な自決の島というイメージを持っていたのだが、このエピソードは、ある意味で驚くところがあった。ここでは、日本語で日本の子どもたちの教育が行われていたようだ。

それとくらべるとであるが、日本がインドネシアを占領して、現地で日本語が使われていた……あるいは、強制されたともいうべきであろうが……このことは、日本語の歴史のなかで忘れてはいけないことの一つだと思う。

マレー語の学習が、日本でさかんにおこなわれていたことを、この放送で知った。

学徒出陣。これは、これまで幾度となく放送されてきた。それを、その場面を撮影した日本ニュースの視点からとりあげていたことが重要かもしれない。ニュース映画の制作者であっても、学徒出陣を必ずしも肯定的にはとらえていなかった。

何度も見ているシーンではあるが、神宮競技場での東條英機の「天皇陛下万歳」の声ほど、今になってみれば、むなしくひびくものはない。(このシーンを見て思うことがあるならば、軽々しくこのことばを口にすべきではないと、私は思う。)

特攻隊員として、上原良司のことがとりあげられていた。この名前は、記憶にある。(いつ覚えたのかはさだかではないのだが。)

戦時中の保育園の記録映画。監督した厚木たかのことばが印象的である。この短い映画も、その当時にあっては、せいいっぱいの時代への抵抗であったことになる。普通の生活の、普通の様子さえも、映像として残すことが困難であった時代ということになる。

太平洋戦争については、その前からの日中戦争をふくめて、膨大な映像資料が残っている。それを、どのような視点からどうとりあげるのか、歴史をどう見るのか、まさに歴史観が問われることになる。

この放送では、亡くなった半藤一利のことばがいくつか引用されていた。半藤一利の本は、代表的なものは読んできたつもりであるが、やはり貴重な仕事をした人であったと思う。

2021年12月5日記

『青天を衝け』あれこれ「栄一の嫡男」2021-12-07

2021-12-07 當山日出夫(とうやまひでお)

『青天を衝け』第38回「栄一の嫡男」
https://www.nhk.or.jp/seiten/story/38/

前回は、
やまもも書斎記 2021年11月30日
『青天を衝け』あれこれ「栄一、あがく」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/11/30/9444241

久しぶりの家康の登場ではじまった。この回では、篤二と慶喜のことがメインだった。

第一に篤二のこと。

結果として、渋沢の家を継ぐことになるのは、その次の代の敬三ということになる。このことは、結果としては分かっていることではある。この意味では、篤二の役というのは、微妙なところがあるかと思う。栄一の影で、押しつぶされそうになり、そこから逃れるために遊蕩三昧にはしる。これは、まあいたしかたのないことであろうかと思う。

第二に慶喜のこと。

明治時代、東京になってから、江戸開府三〇〇年ということで式典があった。ここで、旧幕臣たちがつどうことになる。江戸の時代からつづくものとしての、東京であり、明治である、ということを印象づけるできごとである。

栄一は、慶喜の事跡を顕彰するための事業にのりだろそうとする。このあたりは、史実に基づいていることなので、そのとおりなのだろう。

ともあれ、徳川慶喜という人物は、これまで多くの幕末ドラマで登場してきているのだが、今一つ、どのようなことをなした人物なのか、判然としない感じがしてきている。あるいは、今日にいたるまで、その評価については、定まっていないというべきかもしれない。

以上の二点、篤二ことと、慶喜のことを軸に展開した回であった。

このドラマ、残る放送は、年内にあと三回になってしまっている。このまま、栄一の最晩年まで描くことになるらしいのだが、はたしてどうなることだろうか。

それから、伊藤博文が、日清戦争に勝ち、アジアの一等国になったといっていた。これが、世界の一等国の仲間入りをはたすのは、日露戦争の後ということなのだが、その戦争の結果のゆくすえは、後の太平洋戦争へとつながることになる。ただ、渋沢栄一は、日中戦争がはじまる、ちょうどその時期に亡くなっているので、日中戦争、太平洋戦争ということを見ずにすんでいる。

どうでもいいことかもしれないが、このドラマ、この頃の放送を見ていると、演出や脚本は細かな気配りがあると思うが、セットがどうにもショボい。日清戦争のことなど、いっそのことナレーションだけで済ませてしまった方がよかったかもしれないぐらいである。(やはり、ドラマのはじめの方で、血洗島の渋沢家と村のセットで、予算を使い果たしてしまったのだろうか。)

次回、日露戦争のときのことになるようだ。楽しみに見ることにしよう。

2021年12月6日記

追記 2021年12月14日
この続きは、
やまもも書斎記 2021年12月14日
『青天を衝け』あれこれ「栄一と戦争」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/12/14/9447855

2021-12-08

2021-12-08 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので写真の日。今日は柿である。

前回は、
やまもも書斎記 2021年12月1日
千両
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/12/01/9444550

我が家の近辺のところどころに柿の木がある。秋になると実をつける。

散歩のときとか、自動車に乗っているときとか、柿の木を目にする。写したのは、我が家から少しあるいたところの柿の木の実である。これは、自動車で家から駅に行く途中で、いつも目にしている木である。

毎年、秋になると、木に実のなっているのが見える。写真に撮ってみようと思って、カメラを持って歩いて家を出た。持って行ったのは、70-300のレンズ。ちょっと歩くので、軽い方がいいと思ってこれにした。150-600のレンズを持っていくには、ちょっと重い。

これも季節の変化とともに、移り変わっていく。まだ葉っぱがあるうちに、黄色い実がなる。そのうち、葉っぱがおちて、実だけが枝についている状態になる。その実も、徐々に減っていく。おそらく鳥が食べてしまうのだろう。

柿

柿

柿

柿

Nikon D500
AF-P DX NIKKOR 70-300mm F/4.5-6.3G ED VR

2021年12月7日記

追記 2021年12月15日
この続きは、
やまもも書斎記 2021年12月15日
ピラカンサ
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/12/15/9448088

忠臣蔵狂詩曲No.5 中村仲蔵 出世階段(前編)2021-12-09

2021-12-09 當山日出夫(とうやまひでお)

忠臣蔵狂詩曲No.5 中村仲蔵 出世階段
https://www.nhk.jp/p/ts/282VPZ4VY6/?cid=jp-timetable-modal-programofficial

NHKは、このような「けれんみ」たっぷりのドラマをうまく作る。脚本、演出は、源孝志である。私がこの人の名前を覚えたのは、何年か前に放送した『怪談牡丹灯籠』であったかと思う。

普段の生活では、書斎で本を読むか、花の写真を撮りに外に出るか、あるいは、学校に教えに行くか、ぐらいの生活である。歌舞伎の舞台など見ることは基本的にない。寄席で落語を見ることもない。しかし、そのような私であっても、中村仲蔵の名前ぐらいは知っている。

このドラマの面白さは、基本的に次の二点から考えることができるだろうか。

第一には、考証の緻密さ。

江戸の芸能にそう詳しいというわけではない。いや、まったくの門外漢といっていいのだが、見ていて、江戸時代の芝居小屋などの時代考証をきっちりとやって作ってあることは感じとれる。緻密な時代背景の描写と考証のうえに、どのようなドラマを見せるか、ここが見せ所である。

第二には、「けれんみ」。

下手な監督が作ると、まったくダメになってしまう。しかし、このドラマは、それが成功している。それに役者もこたえている。あるいは、それにこたえることのできる一流の役者をそろえたというべきかもしれない。

以上の二つの観点から見て、これは傑作であると思う。

史実の中村仲蔵がどうであったか、そのあたりの知識はまったくないのだが、そうであっても、十分に楽しめるドラマになっている。

また、近世以前において、あるいは近代になってからもそうであるが、役者というのは差別とともあったことも、描いている。ただ、華麗な舞台だけが役者の世界ではない。このあたりも、重要なところかと思う。

後編を楽しみに見ることにしよう。

2021年12月6日記

追記 2021年12月13日
この続き(後編)は、
やまもも書斎記 2021年12月13日
忠臣蔵狂詩曲No.5 中村仲蔵 出世階段(後編)
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/12/13/9447602

映像の世紀プレミアム(18)「ナチス 狂気の集団」2021-12-10

2021-12-10 當山日出夫(とうやまひでお)

映像の世紀プレミアム (18) ナチス 狂気の集団

これは、二〇二〇年、昨年の放送。放送されたときに見たのを覚えている。そのときに感じたことから、さほど思うことは変わらない。思いつくままに書いてみる。

ナチスは、普通の人びとによって支持されていた。多くのドイツ国民が党員となり、その政策は受け入れられていた。この意味では、多くのドイツ国民は、共犯者といっていいのかもしれない。が、今にいたるまで、あるいは、番組の作りもそうだったが、「だまされていた」といういい方はしない。ここは、ナチスのプロパガンダの巧みさということで、説明されていた。

さて、今の時代、ヒトラーのナチスの独裁のようなことが可能だろうか。世界を見わたしてみて、確かに独裁体制の国はある。しかし、今では国際社会の世界的な監視の目が、かつてよりも厳しいということもあるかもしれない。

その一方で、もしヒトラーのような人物が登場してきたとして、それになびいてしまわないという保証もない。ごく普通の人びとの普通の生活と、ナチスドイツとは、となりあわせにある。

また、見ていて思ったことであるが……番組では、あえてドイツ以外の国のことを語らなかった。少し、英国のチャーチルが出てきたぐらいである。フランスのヴィシー政権のことも、スターリンのソ連のことも、イタリアのムッソリーニのことも、触れることがなかった。日本も、三国同盟ということで、ドイツ、イタリアと運命を共にする歴史を歩むことになるのだが、これについては、一切触れることがなかった。

ナチスのしたこと、その考え方は、今の歴史では否定されることになるが、そのプロパガンダの手法については、今なお考えるべきところが多くあるように思える。これは、インターネットの時代においてこそ、このことについて省みる必要があるだろう。

さて、買ってあってまだ読んでいない『ヒトラー』(岩波新書)を読んでおくことにしよう。

2021年12月9日記