アカデミックライティング:さてどの本にするか ― 2009-05-02
アカデミックライティングの授業、3回は、オンラインでの添削(TA担当)。それに最後に、まとまった本を一冊読んで要約せよ、の課題をあたえることにしている。
だいたい3冊ぐらい選んで、そのうちどれか、ということにしている。
これまで、一つは、科学ジャーナリスト賞を得たものから選んできた。本を、一冊買っても死にはしないから(たぶん)、と言ってきた。とはいえ、新書本ぐらいが、課題図書としては、現実的な限界である。
他には、文学・文化・歴史などにかかわる本をえらぶ。とはいっても、中公新書の『アダム・スミス』は、文学部の2回生には、むずかしかろう。
さあ、どの本にしようか。
當山日出夫(とうやまひでお)
「が」という曲者 ― 2009-05-02
ひさしぶりに、なつかしいことばを目にした。
『『こころ』は本当に名作か』(小谷野敦)の、あとがきの最終ページ。
オリジナルは、清水幾太郎の『論文の書き方』(岩波新書)にある、
「が」を警戒しよう
の章。
これが、高校の教科書に採用されたとき、タイトルが変わって、
「が」という曲者
になった。
今でも、どんな論文の書き方のテキスト本を読んでも、かならず、「が」(接続助詞)については、注意書きがある。「~~が、~~が、~~が、……」と、だらだらと続けて書いてはいけない、と。
特に、日本語の作文のテキストというわけではない。しかし、より明確にものごとを相手に伝えるための文章技能のテキストとしては、
三森ゆりか.『外国語を身につけるための日本語レッスン』.白水社.2003
がある。この本など、かなり強く、文の論理構成の明確化を主張している。
個人的には、可能な限り、接続助詞「が」の使用は、さけている。とはいえ、このようなブログ記事を書くときには、なるべく気楽に書きたいので、つかってしまうこともある。だが、それは、他の言い方に書き換えることが、面倒で、そのままにしてしまうことが多い。
ところで、どうでもいいような話し。『外国語を……』の本、印刷は、精興社である。しかし、奥付の、印刷の会社名の表記で、「精興社」の「興」の字が、精興社字体になっていない。普通の「興」の字。
當山日出夫(とうやまひでお)
『論文の教室』 ― 2009-01-21
戸田山和久.2002.『論文の教室』(NHKブックス).日本放送出版協会
次年度の教科書のはなし。アカデミック・ライティングでは、あいかわらず、と言っては著者に悪いが、『論文の教室』を使うことにした。
これに代わる本がない、というの私の認識。一般的な視点から、見れば、この本の特徴は、「論理」の構造を、論理学的に、きちんとあつかっている、ということになる。私も、最初は、この視点で、この本を採用した。だが、実際に、読んで使ってみて、「要約」について、解説した本として、すぐれているという認識に変わった。
世の中に、「論文の書き方」「レポートの書き方」の本は、山のようにある。最近のものは、インターネットでの資料調査まで解説してある。このような、マニュアル本はあってもよい。
「論文は独創的なものでなければならない」、はたして、今の大学生にいきなり、このレベルの議論が通用するだろうか。私の実感として、否である。それよりも、まず大切なのは、与えられた文献(論文や書籍)を、的確に読み解くことの方だろう。『論文の書き方』の表現にしたがうならば、
問い+答え+論拠
のかたちに再構成して、「理解」することである。また、この方式にしたがって、「書く」ことができなければいけない。これが、まず、基礎教養であろう。
たしかに、部分的には、文体模写などの冗長な部分もある。だが、このような「あそび」を理解できないで、何が教養だ、とも言いたくなる。逆に言えば、この程度の「あそび」を理解できる以上のレベルの学生にとっては、ということになってしまうが。
いま、さかんに人文学の危機がさけばれ、また、FDが議論されている。いきなり、独創性をもとめるよりも、まずは、基本的な書物の読解力(アカデミックな視点から)、この基礎トレーニングが必要ではなかろうか。
ところで、著者自身は、この本を、教養小説と称している。これは、私見であるが、私の認識では、今の日本における、最もすぐれた教養小説は、『ルドルフとイッパイアッテナ』(斎藤洋.講談社)である。この『ルドルフ』のシリーズは、3冊とも我が家にある。というよりも、斎藤洋については、実はファンなので、子ども大きくなっても、自分で読むために買っている。
さて、『インパクトの瞬間』(清水義範、ちくま文庫)を読まないと。
當山日出夫(とうやまひでお)
『名作コピーに学ぶ読ませる文章の書き方』 ― 2009-01-05
2009/01/05 當山日出夫
鈴木康之.『名作コピーに学ぶ読ませる文章の書き方』(日経ビジネス人文庫).日本経済新聞社.2008
かなり以前に書いた、この本のことにつき、たくさんの方がトラックバックなど送ってくれている。私自身は、広告業界とは何のかかわりあいもない人間である。普通の、新聞の読者、である。それでも、この本を読んでから、自分のうちで、何かが変わったなと思うことがある。端的にいえば、広告を読むようになった。
そして、もう一つは、評価以前に、まず、相手に読んでもらえるようにすること、ということを強く意識するようになった。プレゼンテーションであれば、まず、聴衆に、関心を持ってもらえるようにするには、どうすればいいか、を考えるようになった。
これは、特に広告についてだけのことではない。学生の書くレポートについても同じであると、考える。
学生には、いささか脅迫めくが次のようにいう。
「君たちが、提出したレポートを、教員が、すべて丹念に読んでいるなどと思ってはいけない。多人数の講義などで、何百枚もあるようなレポートを、丁寧に読んでいる時間などあろうはずがない。まず、表紙を見る。大学指定の所定の表紙以外の場合(自分で書く場合)、そこに、タイトル・氏名・日付・科目名(曜日・時間・担当教員名)などが、きちんと書いてあるかどうか。最後を見て、脚注や参考文献リストの書き方が、ルールにのっとっているかどうか。それから、中身をさっとながめる。各パラグラフが数行~十数行程度で、きちんとならんでいるか。最初と最後のパラグラフを見る。それが、適切に対応して、問題提起・まとめ・アブストラクト、になっているかどうか。で、ようやく中身を読んでみようか……(と、私なら考える。)」
『名作コピーに学ぶ……』は、広告として、人目をひきつける文章の書き方についての本。だが、このような文章が書けるためには、その前提として、ごく普通の文章がまともに書けないといけない。
学生のレポートであれば、人目をひきつける(教員の目にとまる)ためには、奇をてらう必要など無い。むしろ、逆に、徹底的にオーソドックスに、当該研究分野でのルールに従った ドキュメントであることが望ましい。たいていの学生は、それを知らない。また、多くの教員も強いて教えようとはしない。したがって、きちんとアカデミックなルールに従ったドキュメントは、それだけで、おのずから目立つ。つまり、読んでもらえる、のである。
このような考え方は、このブログでもとりあげた、次の本にも共通する。
酒井聡樹.『これから学会発表する若者のために-ポスターと口頭のプレゼン技術-』.共立出版.2008
なお、『これから……』について、上記のような書き方をするのは、主に、人文学系(日本文学とか日本史など)の分野の流儀。分野によっては、『書名』とは、絶対にしない。これだけで、もう、読んでもらえない可能性がある。
読んでもらえるドキュメントを書くのは、難しい、のである。
當山日出夫(とうやまひでお)
Wikipediaを学生にどう教えるか ― 2008-11-21
2008/11/21 當山日出夫
もろさんのブログで、Wikipediaを、教育にどう利用するかの議論がなされている。Wikipediaについては、すでに、この私のブログでも、すでに、関連本について言及した。
http://d.hatena.ne.jp/moroshigeki/20081120/p1
『ウィキペディア革命』(岩波書店)
2008年11月11日
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2008/11/01/3866548
『ウィキペディアで何が起こっているのか』(オーム社)
2008年10月31日
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2008/10/31/3861170
今、私が考えることは、ある項目についての、改訂履歴をリサーチさせること、である。授業の資料などで、今の学生は、平気で、Wikipediaを使う。参考資料としてあげている。
それを一概にダメとも言えないし、また、無制限に許容というわけにもいかない。学生に書かせるのも一案であるが、やはり、なんとなく不安である。
その前に、変更の履歴をたどって、どこからスタートして、何が問題になって、どのように書き換わって、今の画面での情報があるのか、を的確にレポートさせるような段階が、あっていいように思う。
後期の一つの授業の最終レポートの一つは、この方針でいくつもり。課題となる、項目は、「陵墓」を予定している。
當山日出夫(とうやまひでお)
パワーポイント2003 ― 2008-10-02
2008/10/02 當山日出夫
どういう気まぐれ、とういわけでもないのだが、3回生対象のコンピュータの授業で、「アカデミック・プレゼンテーション」をテーマにして、後期を行うことにした。
先日、その第1回目。まあ、初日なので、これまでパワーポイントを使ってどんなことで困りましたか、というようなことを書いてもらった。
予想は、完全にうらぎられた。
私の考えでは、今の時代、(いくら文学部といっても)ゼミの発表などで、学生自身が、パワーポイントをつかうだろう、そこで困っていることがあれば、どうにかしよう。あるいは、アカデミックな効果的なプレゼンテーションとはどういうものか、考えてみることにしよう。
しかし、教室にあつまった学生は、「つかったことありません」というのが、かなり。ああ、そうか、やっぱり、まだ、文学部では、パワーポイントで授業したり、学生が発表したりとかは、無理なのか………
それに困ったことに、大学のは、XPで2003版、しかし、今の学生であれば、持っているパソコンは、半数ぐらいがVistaで2007版。まずは、プレゼンーションがどうのこうの言う前に、2003版での操作から教える必要がある。
で、本屋さんに行って探してみたら、まだ、2003版のパワポの解説書は、売っている。まあ、どうにかなるだろう(たぶん)。
ついでに買った本、
『ネット君臨』、毎日新聞社
『図書館 愛書家の楽園』、アルベルト・マングェル、白水社
『新 武器としてのことば』、鈴木孝夫、アートデイズ
當山日出夫(とうやまひでお)
『名作コピーに学ぶ読ませる文章の書き方』 ― 2008-07-18
2008/07/18 當山日出夫
この前、ARGカフェで東京に行くとき、京都駅で買ってしまった本。他にバッグの中には、本は用意してあるのだが、ちょっとした時間があると、つい本屋さんに、たちよってしまう。
たまたま目について、手にとったのが、タイトルの本。
この本は、一般の文章術・文章読本・作文技術の本ではない。広告コピーの書き方の指南書とでもいうべきものである。その「はじめに」にまず、こうある。
『文章は書くものではない 読んでもらうものである』
そして、第四部「発想の方法」には、こうある。
『人と同じことを思い 人と違うことを考えよ』
東京駅につくまでの間、読みながら、時折、ページを閉じて、考え込むことしばしであった。この本に書いてあることは、論文やレポートのみならず、パワーポイントでのプレゼンテーションにも、あてはまる。学会発表でも、まず、このような発想が根底に必要ではないのか。いままで、自分は、何をしてきたのだろう……いろいろと、考えてしまった。
たとえば、次のような指摘、
>>>>>
いい文章ほど書くのは簡単ではありません。難儀なことに、書くこと以上に難しいことがありまして、それは読んでもらうことです。(p.15)
<<<<<
学会発表などでは、この発表が理解できないやつはバカである、というスタンスをとることも可能である。しかし、もう、そういう時代ではないだろう。より多くの人に、自分の研究内容を分かってもらう(=読んでもらう)、こういう視点にたたなければならない、と痛切に思う。
だからといって、急に、自分のスタイルが変わるわけではない。だが、可能な限り、「読んでもらう」「聞いてもらう」という方向に、自ら変わっていければと、思う。(さて、明日は、どうなるだろう。)
鈴木康之.『名作コピーに学ぶ読ませる文章の書き方』(日経ビジネス人文庫).日本経済新聞.2008
當山日出夫(とうやまひでお)
科学について思うこと:『論文の教室』と『科学哲学の冒険』 ― 2008-06-08
2008/06/08 當山日出夫
科学・疑似科学について、さらに、トラックバックをいただいているので、思うことを、順次、考えながら書いていきたい。他のテーマと同時進行になるので、やや歩みは遅くなるかもしれないが。
Chromeplated Rat
http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/
定義の水準
http://blog.so-net.ne.jp/schutsengel/2008-06-07/trackback
さて、このブログを始めるときのメインのテーマとして、デジタル・ヒューマニティーズ、と、アカデミック・ライティング、などとした。デジタル・ヒューマニティーズ(人文情報学)は、立命館のグローバルCOEに関係してのこと。それから、アカデミック・ライティングは、たまたま、担当している、授業科目名(要するに、文学部の大学生相手の、作文技術の授業である。)
その教科書を選ぶとき、私は、まよわずに、『論文の教室』(戸田山和久、NHKブックス)を選んだ。
この本を教科書として使うと、困ることがある。それは、「事実」と「意見」の区別が、さほど明瞭に書かれていないことである。今、たいていの、作文技術関係の本を読めば、「事実」と「意見」を区別する、と強調している。
「事実」と「意見」の違い、このことを、日本の文章技術教育史(などという分野があるとして)に位置づけるなら、『理科系の作文技術』(木下是雄、中公新書)に、さかのぼる。その後の各種の本は、その影響下にあるだけ、といってよい。
『論文の教室』では、木下是雄の本を、まず、参考文献として推奨している。そして、その推奨のポイントは、パラグラフ・ライティングを、日本語の作文教育にとりいれた点、としている。
だが、『理科系の作文技術』を読めば(あるいは、その後の『レポートの組み立て方』など)、木下是雄が、特に強調したかった点は、2点ある。第一は、「事実」と「意見」の区別であり、第二は、パラグラフ・ライティング、である。
『論文の教室』を通読して、「余計な個人的な感想は書くな!」という指摘はある。また、パラグラフ・ライティングについても、かなり、詳しく説明してある。だが、「事実」と「意見」の区別については、木下是雄のような、明確な定義がなされてはいない。(これは、私の読み方であるが。)
このあたりを考えていくと『科学哲学の冒険』にいたる。そして、そこから、私なりに、科学的であるとはどういうことか、逆にいえば、非科学的である、あるいは、疑似科学とはどういうものであるか、と考えることになる。
なお、先に、結論めいたものを書けば、『疑似科学入門』(池内了、岩波新書)を、評価するのは、「疑似科学」という概念を、岩波新書という、きわめてポピュラーなメディアで、提示したことにある。内容がどうでもいいというわけではないのは、もちろんである。だが、その本が持つ社会的インパクト、というものも、ある意味で大事であると思う。
ある用語が広く使用されるようになること、その概念が、社会に広まることには、場合によっては、功罪がある。「デジタル・アーカイブ」など、私の直面する、問題である。
「疑似科学」という言葉から、どのように「科学」を考える方向にむかっていくのか、これが、『疑似科学入門』の瑕瑾をあげつらうよりも、今後の本当の課題であると、思う。
続きは後ほど。
當山日出夫(とうやまひでお)
『疑似科学入門』:疑似科学と科学は明瞭に区別可能か ― 2008-06-06
2008/06/06 當山日出夫
私が、以前、このブログで『疑似科学入門』(池内了、岩波新書)に言及したところ、コメントをいただいている。
それほど、じっくりと読んだというわけではない。しかし、現時点で、私の考えを記しておきたい。
Chromeplated Rat
http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/
「疑似科学入門」のレビューを書かない
http://blog.so-net.ne.jp/schutsengel/2008-05-21/trackback
科学そのものから話しははずれる。私自身は、文字の研究者(のつもりでいる)。文字について、「正しい文字」「間違っている文字」を定義できるだろうか……一見すると、簡単そうなことだが、意外と、難しい。
「正しい文字」とは、この文字は正しい文字ではない……という逆方向からの定義によってしか、定義できない。一種の架空の存在である。そして、そのうえで、「間違っている文字」とは、「正しい文字」があることを、前提にしないと、言えない。(なお、このような、文字についての認識を持っている文字研究者は、限られているのが実際である。)
「科学」と「疑似科学」(疑似科学にもいろいろあるが)については、このような、相互に逆方向にしか、定義できないものであると、思う。
池内了の本については、いろいろコメントされている。それは、上記のブログ記事のコメント、トラックバックをたどると、よくわかる。これ以上、私が、付け加えることもないだろう。
大前提として、「正しい科学」というものがある……ということを、暗黙のうちに設定してしまうことの危うさ、これは、言い換えるならば、科学の方法論への自覚の欠如と言ってよいかもしれない。
疑似科学を、科学の対象とすることによって、科学とは何であるかが、より分かるようになる……このような論の方向が望ましいと、考える。さて、この本、学生に読ませるとすると、どう使うべきか。
『疑似科学入門』を読んで、科学と疑似科学の違いが分かるか、これによって、科学とは何であるか理解できるか、そのように書けているかどうか、を、レポートせよ、というような方向があるかもしれない。が、まあ、これは、学生のレベルにもよるので、思案ものではある。
當山日出夫(とうやまひでお)
アカデミックライティングの課題図書 ― 2008-05-30
2008/05/30 當山日出夫
文学部のアカデミックライティングの授業。年度が始まってから、いろいろあって、結果的には、次週(6月7日)に、授業の履修学生は、文章能力検定準2級を、団体受験、という方向になってしまった。したがって、その「受験対策特別授業」をやらないといけないことになっている。
文書能力検定は、悪い検定試験ではない。だが、現在、要求される、「論文」という特殊な文書作成のためには、少し、考え方が違うところがある。
テキストにした『論文の教室』(戸田山和久、NHKブックス)と、読み比べるとよくわかる。文章能力検定は、『理科系の作文技術』(木下是雄、中公新書)の影響を強くうけている。「事実と意見」「段落(パラグラフ)」などである。戸田山和久の『論文の教室』は、読めばわかる。戸田山和久は、木下是雄を、超えるところがある。論証の形式や、論理のプロセス、である。
ところで、このアカデミックライティングの授業は、学期末には、課題図書を指定して、その「要約」を書かせることにしている。「要約」は、「読書感想文」ではない。(「読書感想文」ほど、日本における作文教育、文書コミュニケーション技能教育を阻害しているものはないと、私は考える。)
その課題となる本は、科学ジャーナリスト大賞を受賞した本、ということにしている。
第1回は、福岡伸一.『プリオン説はほんとうか?』.講談社(ブルーバックス)
第2回は、村松秀.『論文捏造』.中央公論新社(中公新書ラクレ)
今年の受賞の本は、新書本では2冊
海堂尊.『死因不明社会』.講談社(ブルーバックス)
松永和紀.『メディア・バイアス』.光文社(光文社新書)
今年度は、この2冊を最終課題レポートの課題図書にする。ただ、刊行時期の関係によるのであろうが、
池内了.『疑似科学入門』.岩波書店(岩波新書)
が入っていなかったのは、残念な気がする。(2008年4月の刊行)。
科学ジャーナリスト会議
當山日出夫(とうやまひでお)
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