書物にならない知2009-05-26

2009/05/26 當山日出夫

今日は、「休校」なので、清水義範の『翼よ、あれは何の灯だ』を読みながら、いろいろと書いている。

現在、「デジタル」の時代になって、「デジタル化できるもの/できないもの」という問題設定がなされるようになった。先日の東大でのCH82研究会における、モーションキャプチャをめぐる議論は、まさに、この点が大きな争点として、活発な議論があった。(このことは追って書きたい)。

では、これ以前はどうだったろうかと思い返してみる。文字/無文字、あるいは、文字があっても文字化されない、というような問いかけはあったと思う。しかし、ダイレクトに、

書物になる知/ならない知

というような根源的問いかけが、本格的になされただろうか。あるのかもしれない。しかし、現在の上述のような「デジタル」をめぐる議論のように、一般的な問題提起として、共有されているとは思えない。

ということは、図書館というのは、書物の存在を大前提にしている、この当たり前のことに、再度、認識を新たにすることになる。デジタル図書館を考えたとき、

(1)モノとしての書物が、どうデジタル化されるのか。逆に言えば、デジタル化できない、書物のモノとしての属性。

(2)書物以外のものも、デジタルライブラリの対象になるであろう。あるいは、はデジタルミュージアムの方向に向かうか。

ここで、「デジタルライブラリ・デジタルミュージアム」の議論になるかもしれない。だが、私としては、そもそもこれまで人間が文化として蓄積してきた知は、書物のみによっているのではない、という当たり前のことを、まず、確認したいと思っている。

知は書物のみにあらず、ということである。

ひょっとすると、この議論をふまえないでは、デジタルライブラリも、デジタルミュージアムも、論じられないかもしれない。

「文字を書く」ことによって書物はなりたつ(写本)。写本は、書物として残る。だが、写本(書物)がいくら残っても、「文字を書くという行為」の継承は、まさに、「文字を書くという行為」によってしか、継承できない。「写本」が残るだけでは、「行為の継承」を保証できない。「文字」も知であると同時に、「文字を書くという行為」も知である。

とりあえず、このように考えている。図書館学の立場の人は、また、別の考えをお持ちとはおもうが。

ただ、私がこのように考える背景には、ガチガチの文献学がある、ということだけは言い添えておきたい。

當山日出夫(とうやまひでお)

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