『なぜ古典を勉強するのか』前田雅之2018-09-21

2018-09-17 當山日出夫(とうやまひでお)

なぜ古典を勉強するのか

前田雅之.『なぜ古典を勉強するのか』.文学通信.2018
http://bungaku-report.com/blog/2018/05/post-167.html

いい本だとは思うのだが、どうもタイトルがどうかなという気がする。確かに、なぜ、今日において「古典」を勉強する価値があるのか、その必要があるのか、このような問いかけに、ある程度の答えは示されている。しかし、本書全体を通じては、この問いに正面から答えようとしているものではない。

タイトルの問いに答えようとして書いた本ではなく、著者(前田雅之)の近年に書いたものを集めて編集して一冊に作るときに、たまたまこのタイトルが選ばれたということの事情のようである。

表紙には、「近代を相対化しうる」……このようにあるのだが、このことに異論はない。確かに、「古典」を勉強することによって、「近代」というものを相対的に見る視座をきずくことにつながることは確かである。

だが、この本で述べられていることは、「近代」を相対化するために「古典」を学ぶということよりも、「近代」の学知としての「国文学」を、歴史の中で相対化して見る、このような方向にかたよっているように読める。

著者は、日本において「古典」として読まれてきた文学作品は、『古今』『伊勢』『源氏』それから『和漢朗詠集』であるという。それは、中世からこれらの作品について「注釈」を加えるという仕事が積み重ねられてきていることによる。そして、『万葉集』については、この意味の「古典」ではないとしている。

『万葉集』については、次の本について言及するにとどまっている。

品田悦一.『万葉集の発明-国民国家と文化装置としての古典-』.新曜社.2001
https://www.shin-yo-sha.co.jp/mokuroku/books/4-7885-0746-3.htm

また、『古事記』が「古典」として読まれることについては、特に本居宣長に触れることもない。

その一方で、明治二三年……憲法発布の翌年……「国文学」という学問の領域が成立したことには、細かな考証がある。帝国大学に「国文学」という学問領域がうまれ、また、その時代は、江戸時代からつづく「国学」系の学問も、並行して、相まって「国文学」になってきた概略を述べる。

ここのところには、我が国における「国文学」の研究史として、興味深いところである。

しかし、その後、現在、「国文学」が「日本文学」になった。(ちなみに、国語学会という学会は、日本語学会に名称を変えている。)このところの現代における学知のあり方の問題には触れるところがない。

総じて、この本が、タイトルのような問いかけを積極的に読者に問いかけるというよりも、「国文学」「日本文学」という学問領域がどのように歴史的背景を持っているのか、そのことへの関心がある場合には、それなりに、考えるヒントを提供してくれる本である。この意味では、このような興味関心をもっている人にとっては、面白く読める本であると思う。

著者(前田雅之)は、最後の「あとがき」(何故かこの部分はとても文字が小さい)で、次のように記している。

「私も古典的公共圏を近代の論理と言葉で語りたいのである。それが古典を理解し、かつ、近代を相対化=批判することになるからである。」(p.334)

このことに私も異存はない。このような大きな目標にむけて、これからの、国文学、日本文学の研究はあるべき、このように言っていいであろう。

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