『麒麟がくる』あれこれ「三好長慶襲撃計画」2020-02-25

2020-02-25 當山日出夫(とうやまひでお)

『麒麟がくる』第六回「三好長慶襲撃計画」
https://www.nhk.or.jp/kirin/story/6.html

前回は、
やまもも書斎記 2020年2月18日
『麒麟がくる』あれこれ「伊平次を探せ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/02/18/9215065

この回で印象に残っているのは次の二点だろうか。

第一に、将軍とは何かの問いかけ。

光秀は語っていた、将軍のもとで戦を終わらせることができるはずであると。そうしないのは、何故なのか。

これは、おそらく、戦国時代のドラマに共通してあること、つまり、いったい何のために戦うのか、という問いにもつながる。以前に放送の『真田丸』や『女城主直虎』では、その一族が戦乱の時代を生きのびるために、ということがあったと思う。では、この『麒麟がくる』ではどうだろうか。光秀は、明智の一族が戦乱の時代を生きのびるため、そのためだけには、戦っていないようである。

光秀には、ひょっとすると、戦乱の無い時代、泰平の時代が見えているのかもしれない。いや、見えているというよりも、そのような泰平の世の中を願望しているというべきだろうか。ともあれ、ここで出ててきた光秀の将軍についての思いが、これからの光秀の人生にとって、大きな意味のあるものになるのであろう。

第二に、駒とのこと。

このドラマ、4Kでも放送している。そのせいもあるのだろうか、画面の作り方が、これまでの大河ドラマとは違ったところがあるように思う。たとえば、美濃に帰る光秀を、駒が送っていくシーン。人物を小さくして、まわりの風景を大きく写していた。非常に大胆な構図であった。

この駒という人物は、ドラマの架空の人物である。この駒が、これから光秀の生き方にどのようにかかわってくるのだろうか。

以上の二点が、この回を見て思うことなどである。

さらに書けば、三好長慶の屋敷での戦闘シーンは、かなり凝った演出であったかと思う。ただ、その当時の連歌がどのようであったか、このあたりは、いろいろと時代考証で言うことのできるところかもしれない。

次回は、帰蝶のことが大きく取り上げられることになるようだ。楽しみに見ることにしよう。

2020年2月24日記

追記 2020-03-03
この続きは、
やまもも書斎記 2020年3月3日
『麒麟がくる』あれこれ「帰蝶の願い」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/03/03/9220152