『街道をゆく 十津川街道』司馬遼太郎/朝日文庫2023-07-02

2023年7月2日 當山日出夫

十津川街道

司馬遼太郎.『街道をゆく 十津川街道』(朝日文庫).朝日新聞出版.2008
https://publications.asahi.com/kaidou/12/index.shtml

もとは一九七七年から七八年、「週刊朝日」に連載。

この本は、とにかく理屈っぽい。奈良県の十津川村とその周辺……その当時の大塔村のことなどをふくめて……が語られるのだが、十津川村がなぜ、周囲から孤立した山の中の村なのか、理詰めで考えようとしている。その特殊性が、これでもかと強調されている。

歴史の話題としては、主に南北朝のころ、戦国時代、さらには、幕末のころのことが出てくる。これを読むと、確かに十津川村の人びとが、かなり特別な働きをしていたと思うところがある。

ただ、これも今の観点から見ると、一昔前、二昔前の十津川村の情景を記した紀行文として読むこともできる。今の十津川村は、過疎の村である。だが、道路が整備された今日からすると、司馬遼太郎が旅したころの十津川は、さらにひなびた村であったことが分かる。電灯がついたの、戦後になってからであるというようなエピソードが出てくる。

NHKのローカルのニュース、天気予報では、十津川村は頻繁に出てくる。特に風屋という地名は、気象の観測点になってもいる。日常的に馴染みのあるところではあるのだが、行ってみようと思うと、これは大変である。たぶん、泊まりがけで行くようなところになる。奈良県の北の方に住んでいると、どうしてもそういう感覚を持ってしまう。

奈良県に住んでいると、十津川村を、県の北部から見てしまいがちである。しかし、司馬遼太郎は、大阪の方から十津川村に入っている。あるいは、大阪に住まいする司馬遼太郎として、これが自然な見方なのかとも思う。

司馬遼太郎が若いとき、徒歩で旅行して知らずに寺の納屋で寝てしまっていて、翌日、粥を御馳走になったエピソードがいい。この時代、そのように旅をすることができた時代であり、また、旅人をもてなす気持ちが生きていた時代である。(宮本常一のことをふと思ってしまった。)

なお、十津川村は、日本語学、特にアクセント研究の分野では著名なところである。しかし、この本のなかでそのことに言及していなかったのは、ちょっとさびしい。

2023年6月29日記

『らんまん』あれこれ「ヤマザクラ」2023-07-02

2023年7月2日 當山日出夫

『らんまん』第13週「ヤマザクラ」

万太郎と寿恵子は祝言をあげることになった。

万太郎は寿恵子をつれて土佐に帰った。そこで、故郷の人びとに祝福される。だが、祖母のタキの病状がおもわしくない。タキが元気なうちにということなのだろう、東京から寿恵子の母(まつ)がやってくる。仲人(大畑夫妻)も一緒である。

同時に、竹雄と綾も一緒になって、これからの峰屋をもりたてていくということになった。

この祝言の場面なのだが、タキは、これからは「家」の時代ではない。個人がそれぞれに幸福を追求する時代である……という意味のことを語った。それまでは、本家と分家ということをやかましく言っていたタキが、考え方を変えたことになる。これには、分家の方としては不満もあったようだ。だが、このあたりは、ドラマの作りとしてはこのようなものかと思う。

ただ、この時代、まだ東京ではこれから鹿鳴館の時代になろうかというころであるが、この時代において、家ではなく個人の幸福ということを言うのは、早すぎるようにも思えてならない。家と個人というのは、日本の近代文学において、明治期以降、戦後にいたるまで大きなテーマとして書かれてきたところである。文学史的には、二葉亭四迷の『浮雲』もまだ登場していない(はずである)。

時代考証の点で疑問が残るというところにはなる。

しかし、これからの万太郎と寿恵子のことを考えると、このような展開であってもいいと思う。たぶん、万太郎は寿恵子と一緒に植物の世界の中で生きていくことになるのだろう。そこには、もはや峰屋も槙野の家も関係ないにちがいない。

次週以降、植物学者としての万太郎の新しい生活がはじまる。楽しみに見ることにしよう。

2023年7月1日記