『趣都の誕生』2008-12-29

2008/12/29 當山日出夫

森川嘉一郎(2008).『趣都の誕生 -萌える都市アキハバラ- 増補版』(幻冬舎文庫).幻冬舎

もろさんのブログで紹介されていたので、本屋さんでみつけて、すぐに買った。

http://d.hatena.ne.jp/moroshigeki/20081207/p1

私が付箋をつけたのは、次のような箇所。

『ほしのこえ』『月姫』にかんして、

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これまでなら社会的な力学によってしか実現し得なかった次元の趣味の商業化を、個人の方がより効率的にできるような状況になりつつあることを直感したからではなかったか。(p.214)

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おそらく、この指摘は、人文情報学(デジタル・ヒューマニティーズ)全般にも言えることかもしれない。確かに、大学や研究所など、既存の、研究機関による大規模な研究、その環境の整備、さらには、機関リポジトリなど、組織でなければできないこともある。主に、資金と設備の問題。

だが、そのなかでの個々人の研究者の自由な活動や相互のコミュニケーション、また、情報発信など、かえって、ブログなどの個人レベルのメディアの方が、より有効である、ともいえよう。

ふと思うが、人文学系の研究者は、やはり「オタク」的な存在かなあ、と思ってしまう。現在の開放的な渋谷の街よりも、個室的なアキバの方が、似合う。(ちなみに、私は、アニメ絵は描けないので、本物のオタクではありません。ねんのため。)

そういえば、神保町(実は、アキバからすぐ近くにある)も、かなり、個室的な店構えの街である。書店といっても、ジュンク堂のような開放感はない。特に専門(歴史や古典の研究所をあつかうような)の古書店は、入るのに、ある種の敷居がある。これは、アキバの、それぞれのオタク専門店に足を踏み込むのに近い感覚かもしれない。

なれてしまえば、どうということはない。いや、なれてしまうと、門外漢の来店にすぐ気づく。「あ、これは、卒論の資料さがしに歩いている学生だな」と、直感的にわかる、いや、わかったものである(こんな話し、いまでは、昔話になってしまっているが。)

當山日出夫(とうやまひでお)

研究会はライブであるという考え方2008-12-29

2008/12/29 當山日出夫

安岡さんのおっしゃるように、研究会=ライブハウス、に私も賛成。

学会誌などが別にあるのなら、当日の予稿がフルペーパーである必要はない。ま、このあたり考えて行くと、情報処理学会の研究報告というペーパーのあり方の位置づけが難しい。査読つきの論文誌がある一方で、自由に書けるメディアもあっていいと思っている。

ところで、研究会=ライブハウス論に近いのが、以前、言及した、『これから学会発表する若者のために』(酒井聡樹、共立出版)の考え方。

第3章「学会発表とは何か」で、こうある、

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学会発表は、研究成果発表の仮の場である。(かなり長い中略)論文には、記録としての価値がある。学会発表に、記録としての価値はほとんどない。論文は記録に残すために書く。学会発表は記憶に残すために行う。(p.9)

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であるならば、学会発表とはライブ、である。しかり、とするならば、

論文とは、

「CD」

のごときもの、と考えるべきである--これは、あくまでも、たとえ、であるが。

などと、急に司馬良太郎風に書いてしまうのは、『猿蟹合戦とは何か』の影響なのだ。

う~~ん、それにしても、12月の先日開催の「じんもんこん2008」が、第10回目。CH研究会は、先年、全国制覇を達成。そして、「東洋学へのコンピュータ利用」が、次回は、20回目。ついでに(といっては失礼だが)、アート・ドキュメンテーション学会も、20年目になる。

後になってふりかえれば、ここ1~2年が、「CH 2.0」(あまり、いい名称とは思わないが、とりあえず書いてみた)への、節目の時期であるのかもしれない。

當山日出夫(とうやまひでお)

『ARG』355号の感想2008-12-30

2008/12/30 當山日出夫

『ARG』355号について、すこしだけ。

今回の号で、気になるのは、「郡山女子大学図書館、SBMを応用した郡山女 子大学図書館パスファインダー」である。

http://d.hatena.ne.jp/arg/20081228/1230466419

「こころみ」としては、確かに新鮮であり、価値がある。強いて難を言えば、 ということになるのか、あるいは、SBMに代表される、いわゆる「集合知」 の課題でもあるのだが、とにかく、ある一定量の情報があつまらないことには、 その意味がない。そして、さらにその先の課題がある。

現時点で、ここにアクセスしてみる。まず、トップにあるのは、「松尾ぐみの 論文執筆」。実際には、松尾豊(東京大学)のHPにリンクしてある。ここま ではいいのだが、さて、ここで紹介の方法が、「論文執筆」のスタンダードで あるかどうかとなると、いさかか気になる。

実際に、学生に文章の書き方を教える身となると、参考文献の書き方ひとつで も、さまざまに流儀がある。そして、その分野の流儀に反しているだけで、相 手にされない、ということあり得る。学生には、この点は厳しく言う。当該分 野の参考文献リストの書き方のルールにのっとっていない場合、その時点で、 (中身を読む前に)、その論文やレポートは、シュレッダーにほうりこまれた と覚悟すべし!

ただ、これは、数をあつめただけで解決する問題ではない。個々の分野の参考 文献の書き方のルールの集積だけでは、ある意味では、なんの意味もない。ま ず、教えるべきは、各分野ごとにルールがある、というルールの認識である。 そのうえで、自分の勉強している分野のルールを知れ。

たとえば、自動車が道の左を走るか、右を走るかは、それぞれの国によって違 っている。しかし、国によって異なること、そして、どちらかに決まっている、 ということは知っていなければならない。

道の右を走る国、左を走る国、それぞれのリストを作って集めても、これは、 「集合知」にはならない。ここから、さらに、上述のような知見を導き出せて こそ「知」である。それ以前のもの(個々の国別のルール)は、データである。 (これは、あくまでも、私の考え方。)

SBMもまだまだ発展途上。ようやく本格的にスタートしたばかり。ここで難 点を言うのは、無理な注文であることは承知している。まず始めないことには、 先につながらない。この意味で、まず、始めたことを評価したい気持ちである。

ところで、くだんの郡山女子大学の図書館から、大学にリンクしてないようで ある。大学からは、図書館へのリンクがたどれる。これは、大学図書館のHP の作り方として、いささか問題があるのではと思うが、どうであろうか。

當山日出夫(とうやまひでお)

『思想地図 vol.2』2008-12-31

2008/12/31 當山日出夫

『思想地図 vol.2-特集:ジェネレーション-』(NHKブックス).東浩紀・北田暁大(編).日本放送出版協会.2008

まず、やはり問いかけたくなるのは、なぜ、「世代(ジェネレーション)」であるのか、ということ。この論集の第1号について、これは、世代ということを意識した希な論集であることを、述べた。

『思想地図』:研究者は自分の年齢を言うべきか ( 2008-05-01)

http://yamamomo.asablo.jp/blog/2008/05/01/3430366

そして、この第2号は、「特集:ジェネレーション」である。一般的に考えて、これが、自然科学などの分野であれば、研究者の年齢と、その業績評価は、あまり関係ないだろう。だが、人文学では、そうもいかない。文化的な事象をあつかうとき、研究者自身の年齢(世代)ということは、かなり重要な問題としてある。特に、「世代」ということを語るとき、自分がどの「世代」に属しているかは、重要な要件である。

そして、今の日本ほど、「世代」という問題が重要視されている時代も、また、希であろう。いわゆる「格差論」をふくめ、ネットワーク論においても、しかりである。この論集の第二特集は「胎動するインフラ・コミュニケーション」。ネットワーク社会についての議論は、「世代」抜きには語れない。

ところで、この論集の白眉というべきは、(もちろん、私の独断であるが)、

濱野智史.「ニコニコ動画の生成力(ジェネレイティビティ)-メタデータが可能にする新たな創造性-」(pp.313-354)

であると、読む。(この論文については、あらためて考えてみたい。)そして、

入江哲朗.「「市民性」と批評のゆくえ-〈まったく新しい日本文学史〉のために-」(pp.417-446)

當山日出夫(とうやまひでお)