『豊饒の海』第三巻『暁の寺』三島由紀夫(その三)2017-04-01

2017-04-01 當山日出夫

つづきである。
やまもも書斎記 2017年3月31日
『豊饒の海』第三巻『暁の寺』三島由紀夫(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/31/8436052


『暁の寺』は、前半(第一部)と後半(第二部)に分けて書かれている。これは、『豊饒の海』全体の構成を見ると、異常であるといえようか。そして、私の考えるところでは、『豊饒の海』の「輪廻転生」の物語は、前半(第一部)で、もう終わっている。三島は、これ以上「輪廻転生」の物語を書き続けることはできなかったのだと考える。だが、『豊饒の海』としての話しの続きを書き続ける必要があった。そこで、三島の選んだのは、本多を主人公にすえる、という方法であった。このように私は、『豊饒の海』を読む。

昨日、書いたことを含めて再整理するならば、次のようにまとめることができようか。

第一に、インドのベナレスでの生と死、聖と俗、人と動物、水と火、これらが混濁しているシーンを描いた後には、もはや、『春の雪』から書き継いできた、「輪廻転生」の物語も、「唯識」も、髑髏と清水のたとえも、消し飛んでしまう。これを、書いたところで、三島は、『豊饒の海』をある意味で挫折してしまう。

第二に、これは、三島の晩年の歴史観ともかかわることだが、戦争を描かなかったことを、どう考えるかということがある。負けてしまった戦争の記憶というのは、三島にとっては、もはや正視するに絶えるものではなかったのかもしれない。戦争で、終わっているのである。この意味では、『春の雪』の舞台となった渋谷の松ヶ枝の屋敷跡での、老女と本多の邂逅のシーンは、印象的である。三島にとって、戦争とは、戦前のよかったものを何もかも無くしてしまった、忌避すべきことがらであったように思える。

第三に、『暁の寺』の第二部以降で、『豊饒の海』を書き継ぐことになったとき、そのテーマとなっているのは、もはや「輪廻転生」ではない。老いと生、そして、そこにあるエロティシズムである。『暁の寺』第二部以降は、本多の「老い」と「性」をめぐる物語になっている。ここにきて、「輪廻転生」して生まれ変わりであるとされるタイの王女は、脇役でしかありえない。

ざっくりと整理すれば、『暁の寺』については、以上の三点に、私の思うところを、まとめることができようか。

このようなことをうけて考えるならば、最後の『天人五衰』は、ただ、「輪廻転生」の物語をそれらしく完結させるための蛇足のようなものといえるのではないだろうか。