『楡家の人びと』北杜夫(その六)2017-04-15

2017-04-15 當山日出夫

つづきである。
やまもも書斎記 2017年4月14日
『楡家の人びと』北杜夫(その五)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/04/14/8478445

北杜夫.『楡家の人びと』(新潮文庫).新潮社.2011 (1964.新潮社)

第一部
http://www.shinchosha.co.jp/book/113157/

第二部
http://www.shinchosha.co.jp/book/113158/

第三部
http://www.shinchosha.co.jp/book/113159/

たしか、東京にいて、大学院の学生のときだったろうか。ある先輩を介しての依頼で、次のような仕事をちょっとしたことがある……それは、日本の近代において、明治維新このかたどうして近代化が達成できたのか、また、戦後の日本は、敗戦からたちなおってどうして復興することができ、高度経済成長をなしとげることができたのか、その理由を考えるのに役立つような日本の近現代の文学作品を、外国(東南アジア)に翻訳して紹介したいので、その作品を選ぶ手伝いをしてほしい……ざっとこんなことだった。

それに対して私がいくつかの本を読んだなかで、推奨したのが、『楡家の人びと』(北杜夫)であった。他には、『青い山脈』(石坂洋次郎)とか、『暖簾』(山崎豊子)とかを、あげたのを憶えている。

もし、今、また、同じような依頼のようなものがあったとしても、たぶん、私は、『楡家の人びと』を推すことになると考える。それほど、この作品は、日本近代の……大正から昭和戦前にかけての……日本の国民の、市民の、庶民の、「物語」であるといってよい。日本が、大正時代のいわゆる大正デモクラシーの時代にどんな生活をおくっていたのか、その後、昭和になって日中戦争がはじまったときどんなふうに感じていたのか、またさらに、太平洋戦争でアメリカと闘っていたとき、戦地で、また、日本国内において、人びとはどのように暮らしていたのか……このようなことを、実にたくみに語りかけてくれる。

この小説を読むことによって、どのような時代の「物語」を日本人は持っているのか、それを感知することができるだろう。

無論、これには批判する立場もあってよい。これは、あくまでも、ある小説家の書いたものであって、実際の歴史はまた違うのである、と。それはそうなのだが、日本という人びとの共同体において、それを内側からささえる「物語」とは、なにかしら必然的に存在するものなのであるし、そして、それは、どんなものであるのか、批判的に検証される必要もある。

だが、それはそれとして、まずは、日本の人びとが、どのような「物語」のうえになりたっているのかが、理解されていなければならない。そのとっかかりとして、この小説は、見事にそれを提供してくれている。

外国の人が日本を理解するための手がかりとして、この小説が読まれてもいいのではないか、そのように、かつて私は思ったものであるし、今でも、同じように思っている。

と同時に、これからの若い人に、かつての日本の人びとは、どんなふうに生きてきたのか、文学を通じて理解を深めたい、そのような役割をも、この作品ははたすことができるだろう。

しかし、だからといって、この作品を全面的に支持するということでもない。あくまでも、とっかかりとして読んでおくことをすすめたい。

だが、そうはいっても、この作品は面白い。日本の近現代の文学のなかでも、突出して、ユーモアと抒情にみちた、それでいて、ある時代の様相をまざまざと描き出した小説なのである。純然と文学作品として読んでおく価値のあるものでもある。どんな理屈や評論よりもとにかく読んで面白い作品であること、これがもっとも大事なことである。現在、文庫本で読みやすい形で一般に出回るようになっていることは、私としては、喜ばしいことだと思っている。

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