『失われた時を求めて』岩波文庫(11)2018-11-26

2018-11-26 當山日出夫(とうやまひでお)

失われた時を求めて(11)

プルースト.吉川一義(訳).『失われた時を求めて 11』囚われの女Ⅱ(岩波文庫).岩波書店.2017
https://www.iwanami.co.jp/book/b287044.html

続きである。
やまもも書斎記 2018年11月24日
『失われた時を求めて』岩波文庫(10)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/11/24/9002585

正直に言って、この巻はちょっと難渋した。が、ともかくここまでくれば最後まで(岩波文庫版ではあと一巻である)読んでおきたい。ともかく読んだ。

印象に残るのは、次の二点。

第一には、前半のヴェルデュラン夫人の夜会の場面。はっきり言ってよくわからないところもあるのだが、読んだ印象としては、シャルリュス男爵の同性愛をめぐる言説に、どことなく滑稽さを感じる。

第二には、後半のアルベルチーヌについての、「私」の煩悶とでもいおうか、ああでもない、こうでもないと、様々に思い悩む姿。これも、「私」自身は真剣なのであるが、どこなく、滑稽な感じがしなくもない。(そして、最終的には、アルベチーヌは、立ち去ってしまうのであるが。)

以上の二点を軸にして、その中に織り込まれている、様々な芸術論が印象に残る。前半では、ヴァントゥイユの作品の演奏にまつわる、音楽についての議論。後半では、ドストエフスキーの小説などに言及してある。

読みながら付箋をつけた箇所。

「「文学でもそうだよ。」そう言った私は、ヴァントゥイユのさまざまな作品に認められる同一性を思い返しながら、偉大な文学者たちはただひとつの作品しかつくらなかった、というか、自分がこの世にもたらすただひとつの同じ美を多様な環境を通じて屈折させただけだ、とアルベルチーヌに説明した。」(pp.420-421)

これと同じ趣旨のことが、絵画や文学についても語られている。

ここに示されているような見解にしたがうならば、この作品『失われた時を求めて』の作者は、ただ、この作品のみを残したことに、その文学者としてのすべてを傾けていると理解されるだろう。

また、この巻で描写されるアルベチーヌも、幻想のベールを通して描かれるところに、その愛らしさ、美しさがある。いや、そのようなものとして、描いているというべきであろうか。

次の一二巻で、岩波文庫版の既刊分を読み切ることになる。楽しみに読むことにしよう。

追記 2018-11-29
この続きは、
やまもも書斎記 2018年11月29日
『失われた時を求めて』岩波文庫(12)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/11/29/9004723

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