『大いなる眠り』村上春樹訳2019-07-20

2019-07-20 當山日出夫(とうやまひでお)

大いなる眠り

レイモンド・チャンドラー.村上春樹(訳).『大いなる眠り』(ハヤカワ・ミステリ文庫).早川書房.2014 (早川書房.2012)
http://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/40714.html

続きである。
やまもも書斎記 2019年7月13日
『さよなら、愛しい人』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/13/9127906

村上春樹訳で、レイモンド・チャンドラーを読んでいる。原作の刊行された年からいうならば、この『大いなる眠り』が、マーロウのシリーズの最初ということになる。1939年の作品である。今からふりかえって、太平洋戦争の前に刊行された作品であることに、いささかおどろく。そして、これが、マーロウのシリーズの最初の作品になるわけだが、その完成度はおどろくほどに高い。

この本には、訳した村上春樹の「「警察にできなくて、フィリップ・マーロウにできること」――訳者あとがき」がついている。読んでなるほどと思うところがある。すぐれたレイモンド・チャンドラー論になっている。

フィリップ・マーロウのシリーズでは、『ロング・グッドバイ』が出来がいいということになるのかもしれないが、文学史的に考えるならば、マーロウのシリーズの最初の作品である『大いなる眠り』の持つ意味は大きい。二〇世紀のなかばに刊行されたこの作品が、二一世紀の今になっても、読まれ続け、このように新しい日本語訳が刊行されている。その世界の文学への影響も、また大きなものがある。

この本を読んだところで思うことを書いてみる。

第一には、ハードボイルドという形式のもつ意味である。西欧の文学は、「神の視点」を手にいれることによって発展をとげたといっていいだろう。昨年、いっきに全巻を読み終えた『失われた時を求めて』(プルースト)など、心理描写をする作者自身をも、さらに俯瞰的に見る視点を獲得していると読める。

だが、ハードボイルドは、「私」の視点に限定される。無論、フィクションであるから、日本の私小説のような「私」ではない。しかし、視点が、「私」に限定されるというのは、きわめて不自由な制約かもしれない。

そのような制約が課せられることによって、より自由闊達に主人公「私」を描くところに、ハードボイルドの妙味があるといえようか。語りの視点が制約されるからこそ、そこから、自由に文学的想像力を働かせることが可能になっているかもしれない。

第二には、(これは村上春樹も指摘していることだが)読みながら感じることは、作者は、楽しみながら書いていることが感じ取れることである。この意味において、「私」は、きわめて饒舌である。禁欲的に「私」の視点に制約されながらも、そのなかで饒舌に、見たこと、体験を語っていく。この饒舌の楽しみが、この作品には感じ取れる。

以上の二点が、『大いなる眠り』を読んで思うことなどである。

さらに書いてみるならば、ミステリとしてのストーリーの展開とは別に、登場する女性が魅力的に描かれていることがあげられるかもしれない。特に、姉妹の妹が、この作品に生彩をはなっている。

つづけて、マーロウのシリーズを村上春樹訳で読んでいくことにする。次は、『リトル・シスター』である。

追記 2019-07-24
この続きは、
やまもも書斎記 2019年7月24日
『リトル・シスター』村上春樹訳
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/24/9132690

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