『風立ちぬ』堀辰雄2019-07-22

2019-07-22 當山日出夫(とうやまひでお)

堀辰雄

堀辰雄.『風立ちぬ』(ちくま日本文学「堀辰雄」).筑摩書房.2009
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480425690/

「風立ちぬ、いざ生きめやも」、このことばを憶えたのはいったいいつのことだったろうか。

『風立ちぬ』の初出は、昭和一一年から一三年である。この作品を読んでみようと思ったのは、『腰ぬけ愛国談義』を読んだことによる。

やまもも書斎記 2019年7月15日
『腰ぬけ愛国談義』半藤一利・宮崎駿
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/15/9128716

半藤一利と宮崎駿の対談、それから映画『風立ちぬ』のことを読んで、堀辰雄の『風立ちぬ』を読んでおきたくなった。再読になる。昔読んだのは、いつのことだったろうか。高校生のころだったかもしれない。堀辰雄の作品のいくつかを読んだ記憶がある。だが、そうふかく堀辰雄に傾倒するということなく、今にいたってしまった。

久しぶりに再読してみて感じることは、やはり、この作品を、高校生のときに分からなかったのはいたしかたないな、という感想である。この作品にえがいている〈死〉というものが、若いときに理解が及ばなかったのは無理もない、そう思ってみる。

『風立ちぬ』は、特に波瀾万丈のストーリーの展開のある作品というわけではない。肺結核におかされた節子という女性、その女性が、山のなかのサナトリウムにはいる。それを見舞い、つきそうことになる「私」、その「私」の視点から、サナトリウムでの療養生活、そして、死後のことまでが、淡々と叙述される。そこにあるのは、〈死〉を意識の片隅において生きる〈生〉であり、また〈愛〉である。それを、深い〈詩〉として叙述してある。これら〈死〉〈生〉〈愛〉〈詩〉を、行間に感じ取りながら、思わず一気に読んでしまった。

まさにこのような作品を〈文学〉というのだろう。あるいは、このような文章を書けるひとを〈詩人〉というのであろう。この〈文学〉〈詩〉は、読みながら感じ取るものとしてある。表面的には、あっさりとした描写である。字面ではなく、読みながら行間に、紙背に、〈文学〉〈詩〉を感じ取りながら読まねば、読んだことにはならない。

高原のサナトリウムという舞台は、文学的である。いや、そうではなく、堀辰雄がこのような作品を書いたことによって、文学的イメージを獲得するようになっていると考えるべきだろう。およそ「文学」というものが「古典」として読み継がれるものであるならば、『風立ちぬ』は日本の近代文学におけるまぎれもない「古典」である。「古典」は、そこに立ち返ることによって、文学的感性を確認できる作品でなければならない。この意味で、「古典」でありつづけるにちがいない。

追記 2019-07-26
この続きは、
やまもも書斎記 2019年7月26日
『美しい村』堀辰雄
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/26/9133436

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