『スカーレット』あれこれ「火まつりの誓い」2019-12-01

2019-12-01 當山日出夫(とうやまひでお)

『スカーレット』第9週「火まつりの誓い」
https://www.nhk.or.jp/scarlet/story/index09_191125.html

前回は、
やまもも書斎記 2019年11月24日
『スカーレット』あれこれ「心ゆれる夏」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/24/9180650

この週で描いていたのは、喜美子の自立ということだろうか。

丸熊陶業で社長が亡くなって代替わりする。新しい社長(照子の夫である)のもとで、火鉢の生産から、植木鉢の生産に、主力を移すことになる。絵付け火鉢の生産は、縮小されることになる。結果、フカ先生をはじめ、職人たちは、丸熊陶業をはなれて、それぞれに道を歩み始める。

だが、喜美子は、一人で丸熊陶業に残る。

一方、喜美子の家においても、父親との関係がどうもうまくいっていないようだ。運送業をやっている父親は、好きでその仕事をしているのではない、好きな仕事をして生活できている人間などいないと、あえて喜美子につらくあたる。

しかし、喜美子は、自分の選んだ丸熊陶業での仕事をつづける決意をかためる。

その喜美子が決意をかためたのは、信楽の火祭りの時だった。その火祭りのシーンが、印象的に描かれていた。

次週、この喜美子の仕事にも変化があるようだ。それから、草間さんがまた登場するらしい。どのような展開になるか、楽しみに見ることにしよう。

追記 2019-12-08
この続きは、
やまもも書斎記 2019年12月8日
『スカーレット』あれこれ「好きという気持ち」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/08/9186516

新潮日本古典集成『源氏物語』(二)2019-12-02

2019-12-02 當山日出夫(とうやまひでお)

源氏物語(2)

石田穣二・清水好子(校注).『源氏物語』(二)新潮日本古典集成(新装版).新潮社.2014
https://www.shinchosha.co.jp/book/620819/

続きである。
やまもも書斎記 2019年11月25日
新潮日本古典集成『源氏物語』(一)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/25/9181049

前回読んだ時のものは、
やまもも書斎記 2019年2月21日
『源氏物語』(二)新潮日本古典集成
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/21/9038816

『源氏物語』を再度読んでおきたいと思って(いや、再度ならず何度でもであるが)、新潮版で読んでいる。第二冊目である。「紅葉賀」から「明石」までをおさめる。

読んでいるのは、後期の講義の準備ということもある。『源氏物語』と「文字」というのは、どのような関係にあるのか、自分なりに読んで考えてみたかったからである。

第二冊目を読んで思うことは次の二点。

第一には、「文字」という語で「ことば」の意味につかってある用例が目につく。これは、とりもなおさず、『源氏物語』の世界が、「文字」の基盤の上になりたっていることを意味することになる。

第二には、『源氏物語』が、(現代風に言うならば)文字コミュニケーションの上に成立していることの確認である。歌を詠むとき、そのほとんどは、紙に書いたものとしてわたされている。そのとき、どのような筆跡であるか、どのような紙(料紙)であるかについても、言及がある。

以上の二点などが、第二冊目を読んで、自分なりに納得のいったところである。

ところで、須磨・明石に流謫の身となった光源氏は、京に残してきた紫の上と頻繁に手紙のやりとりをしている。また、それを、「日記」のようなものと表現した箇所もある。このようなところを読むと、文字・文書・消息が読めるものとして、その登場人物が造形されていることがわかる。

そういえば、まだ幼い紫の上に、光源氏が、手習いを教えるシーンがあった。「若紫」。

現在、われわれは、『源氏物語』を書かれた文学作品として享受している。文字に書かれることを前提としている。しかし、平安時代において、文字が書けた人はいったいどれほどいただろうか。おそらくは、一部の貴族層に限られていたと想像してまちがいないだろう。

「須磨」「明石」を読むと、現地の人びと(下層のといっていいだろう)については、「さへづる」と言っている。そのことばが、京の貴族たちのことばと違っているということである。

文学を読むとき、書かれたものしか残っていない。これは当然のことなのかもしれない。だが、その書くということが、日本語の、日本文学の歴史のなかで、どのような意味をもってきたものなのか、あらためて考えてみたいものである。

追記 2019-12-09
この続きは、
やまもも書斎記 2019年12月9日
新潮日本古典集成『源氏物語』(三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/09/9186983

『いだてん』あれこれ「火の鳥」2019-12-03

2019-12-03 當山日出夫(とうやまひでお)

『いだてん』第45回「火の鳥」
https://www.nhk.or.jp/idaten/r/story/045/

前回は、
やまもも書斎記 2019年11月26日
『いだてん』あれこれ「ぼくたちの失敗」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/26/9181413

東京オリンピック開催の一歩手前のところまでこぎつけた。見ていて印象に残ったのは、次の二点。

第一に、田畑の頑張り。

表向きは、オリンピックから手を引いたことになるのだが、「裏」の事務総長として、オリンピック開催に向けて様々に画策する。見ていると、この田畑政治のような人物がいたからこそ、一九六四年の東京オリンピックは、成功することができたのだろうと思える。

「おれのオリンピック」と言い切れるような人間がいたからこその、東京オリンピックであったことになる。冷静に考えれば、これはどこかおかしい。オリンピックについては、やはり正規の手続きをふんで、公明正大にことが運ぶのでなければならない。

しかし、このドラマは、見ていて、つい田畑政治に肩入れしたくなる。田畑のオリンピックだからこそ、成功させてやりたいという気分になる。この意味では、田畑政治という人物を、ドラマの後半の主人公にもってきたことは功を奏したと言っていいのだろう。

第二に、女子バレーボール。

オリンピックのために青春を犠牲になどしていない……このように選手に言わせてはいるのだが、しかし、実際のオリンピックはどうであったろうか。田畑は回想する……以前の人見絹枝や前畑秀子の時代のように「日本」を背負って戦う時代ではなくなっているのだ、と。

これは見ていて違和感があった。一九六四年の東京オリンピックこそ、その選手が、「日本」を背負っていたのではないだろうか。(これは、その当時、小学生であった私の思い出としても、感じるところである。)それは、今日においても続いていることだと思う。メダルを期待される選手、競技については、やはりマスコミの報道が、違っている。

あるいは、これは、脚本(宮藤官九郎)の理想を、無理に投影した表現であったのかもしれない。オリンピックとは、そのようなものであって欲しいとの願いの表れであったのではないだろうか。

以上の二点が、見ていた思ったことなどである。

次回、いよいよ東京オリンピックの開催になるようだ。その舞台裏をどのようにこのドラマは描くことになるのか、楽しみに見ることにしよう。

2019年12月2日記

追記 2019-12-10
この続きは、
やまもも書斎記 2019年12月10日
『いだてん』あれこれ「炎のランナー」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/10/9187465

桜の紅葉2019-12-04

2019-12-04 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので花の写真の日。今日は花ではなく、桜の木の葉を写してみたものである。

前回は、
やまもも書斎記 2019年11月27日
アラカシ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/27/9181787

我が家やその周辺にいくつかある桜の木を見ていると、早々と葉を落としてしまうものもある一方で、葉がのこって、きれいに色づくものもある。そのいくつかを、写真に撮ってみた。

もう一二月で、紅葉のシーズンも終わりに近づいた。家の近所の木々を見ていると、季節の変化によって、徐々に姿を変えるのが、いろいろと興味深い。が、写真に撮ろうとおもうと、難しいところがある。何よりも、その木の名前がわからない。(これは、私が、植物の方面に知識が疎いせいなのだが。)モミジの木でも、種類によって、植わっている場所によって、紅葉の姿がちがう。また、その他の木々においても、様々である。

名前は分からないが、しかし、その季節とともに移り変わっていく姿を目にするのは、楽しみでもある。

桜

桜

桜

桜

桜

桜

Nikon D500
AF-S DX Micro NIKKOR 85mm f/3.5G ED VR

追記 2019-12-11
この続きは、
やまもも書斎記 2019年12月11日
ピラカンサ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/11/9187892

NHK『映像の世紀プレミアム』「運命の恋人たち」2019-12-05

2019-12-5 當山日出夫(とうやまひでお)

NHK『映像の世紀プレミアム』第14集「運命の恋人たち」
https://www4.nhk.or.jp/P4235/5/

録画しておいて、月曜日に見た。見ていて思ったことなど、思いつくままに書いてみる。

番組のスタートは、アメリカにおける、黒人と白人の結婚からはじまっていた。その裁判のニュースから。それまで、アメリカにおいては、これは法的に禁じられていたことだった。それが、今日では普通のことになっている。

性にかんする意識というのは、時代とともに大きく変わっていく。時代の変化が、性に対する意識を変えることになる。また、時として、時代を変えていく役割をはたす先駆的な人びとがいたりもする。

この番組の終わりが、LGBTのことでおわっていたのは、この意味で、まっとうな姿勢から作ったと考えられる。今日の社会において……まだ、一部に偏見が残っているのだろうが……性的少数者の権利は、確立しつつある、と言っていいだろう。

見ていて思ったことであるが……このような企画の場合、誰、どのようなカップルを登場させるかもあるが、あえて触れないということもあるだろう。ナチスのゲッベルスの妻のマグダは登場していたが、ヒトラーの愛人であったエヴァ・ブラウンは出てこなかった。また、英国のエドワード8世のことはでてきていたが、英国王室のかかわりでは、ダイアナ皇太子妃のことに触れることはなかった。さらに出てこなかった女性としては、アメリカのジャクリーン・ケネディがいる。中国の江青も登場していない。……などなど、登場していない人物のことの方に関心がいってしまうのは、いたしかたのないことかもしれない。

そして、日本のことが出てこなかった。もし、日本から誰かが登場するとなると誰になるだろうか。あえて日本のことに触れなかったというのも、ある意味で、この番組の制作における判断であったのだろう。

一つ思い出を書けば、グレース・ケリーの出た映画「裏窓」を映画館で見たことを思い出す。その時には、すでに死んだ後のことになるだろうか。(しかし、この番組の意図として、グレース・ケリーのことは、そう大きくあつかう必要があったのだろうかとも、見終わってから考えて思う。)

2019-12-02記

『彼岸過迄』夏目漱石2019-12-06

2019-12-06 當山日出夫(とうやまひでお)

彼岸過迄

夏目漱石.『彼岸過迄』(新潮文庫).新潮社.1952(2010.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/101011/

続きである。
やまもも書斎記 2019年11月29日
『門』夏目漱石
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/29/9182718

現代のわれわれは、この作品が漱石の「修善寺の大患」の後の作品であることを知っている。この体験が、漱石の作品にどのような影響があるのか、それは漱石研究の分野において研究のなされていることだろうと思う。ただ、今の私としては、二一世紀の読者として、自分の思うとおりに読んでみたいと思っている。

この作品を読んで思うことは、次の二点だろうか。

第一には、探偵について。

漱石は、「探偵」を最も嫌っていたと思う。『猫』など読むと、「探偵」ほど下劣な人間はいないという意味のことが書いてある。それが、この『彼岸過迄』になると、なぜ、「探偵」のまねごとなどしているのだろうか。あれほど嫌っていたと思う「探偵」のことを書いているのはなぜだろう。

第二には、その「探偵」にはいりこんでいく作者について。

ひょっとすると漱石は、人のこころを「探偵」することの楽しみ……無論、それは小説という架空の世界においてであるが……に気付いたのかもしれない。この作品の後半の部分になると、登場人物のこころのうちを「探偵」として、観察し、のぞき見ているような気がしてならない。

そう思って読むと、この次の『行人』も、『こころ』も、人のこころのうちを「探偵」してさぐる物語であるとも読める。

以上の二点が、『彼岸過迄』を読んで思うことなどである。

さらに書けば、この作品のなかで印象的なのが、子ども(幼児)の死と葬儀のシーン。漱石の作品を読んでいくなかで、このところは、特別に印象に残るものと感じる。近代文学のなかで、「父」や「母」を描いたものは多くあると思うが、幼い幼児とその死を描いたものが、他にどれくらいあるだろうか。

また、この時代、子どもの死というものも、そんなに珍しいことではなかった、ということもあるかと思う。乳幼児死亡率が激減するのは、戦後になって近年になってからのことである。

それから、この作品中の女性、千代子が、女学生ことばをつかっている。漱石の作品中で、女学生ことばをつかう女性は、作品中で独特の位置にある。若い女性として、下女も登場するのだが、これは、別のことばをつかっている。おそらく「役割語」というような観点を導入して分析するならば、漱石の作品中での登場人物のことばというのは、かなり興味深いことになるかと思う。これは、おそらくは、文学研究と言語研究の両方にまたがった研究になるにちがいない。

ところで、この作品『彼岸過迄』は、まさに「彼岸過迄」ぐらいの連載になるということで、このタイトルになったようだ。特に、小説としての構想があったというのではないように思える。もし、最初から緻密に構想して書いたとするならば、どうも全体としてチグハグな印象の残る作品である。そうではなく、まさに作者(漱石)が書いているように、どのようなストーリーの展開になるか、特に決めたこともなく、思いつくままに書いていった結果が、このような小説になった。そして、それは、人のこころのうちを「探偵」する物語になった。このように思ってみる。

次は、順番に読んでいって『行人』である。

追記 2019-12-12
この続きは、
やまもも書斎記 2019年12月12日
『行人』夏目漱石
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/12/9188301

『村上ラヂオ2』村上春樹・大橋歩2019-12-07

2019-12-07 當山日出夫(とうやまひでお)

村上ラヂオ2

村上春樹(文).大橋歩(画).『村上ラヂオ2-おおきなかぶ、むずかしいアボカド-』(新潮文庫).新潮社.2013(マガジンハウス.2011)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100165/

続きである。
やまもも書斎記 2019年11月30日
『愛について語るときに我々の語ること』レイモンド・カーヴァー/村上春樹(訳)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/30/9183071

やまもも書斎記 2019年11月22日
『村上ラヂオ』村上春樹・大橋歩
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/22/9179939

最初の『村上ラヂオ』の「アンアン」連載が、2000年(2001年に単行本、2003年に文庫本)。その一〇年後に、再度「アンアン」に連載したものである。

前の本との間に一〇年の開きがあるのだが、つづけて読んで違和感なくこの本のなかにはいりこんでいける。

村上春樹のエッセイというと、安西水丸と組んだものを先に読んでいるのだが、それらとくらべて、やはり、ちょっと雰囲気が違う。安西水丸とのものは、もっと気楽に肩の力をぬいて楽に書いていると感じる。それに対して、この『村上ラヂオ』では、少し気取った雰囲気の文章になっている。気取ったというか、ちょっと文章にひねりをきかせてあるというか、とにかく、少し身構えたところを感じてしまう。

だが、そうはいっても、そんなに大上段にふりかぶって大事を論じるというのではない。どの文章も、日常のささいなことをめぐる、ふとした感想のようなものが、独特の軽い感じの文章でつづってある。

ただ、このエッセイを読んで、なるほど村上春樹の小説はこのような背景があって書かれたのかと、思わずに納得するところがいくつかある。この意味では、村上春樹文学の理解にとって、重要な意味をもつ本であると言えよう。

「アンアン」連載ということもあるのだろう。著者(村上春樹)自身は、特に読者を意識することはないと書いてはいるのだが、それでも、やはり、「アンアン」という雑誌に書いているということで、若い女性(たぶん、読者として想定されるのは、こうなるだろう)を意識していると感じさせるところがある。そして、それが、自然に文章の味わいとなっている。これを、一〇年間のブランクがあるにもかかわらず、前の作品と同じ雰囲気で、文章が書けるというのは、やはり村上春樹の文章の才能と言っていいだろう。

新潮文庫では、『村上ラヂオ』は、三冊出ている。続けて読んでいきたい。

追記 2019-12-13
この続きは、
やまもも書斎記 2019年12月13日
『ビギナーズ』レイモンド・カーヴァー/村上春樹(訳)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/13/9188650

追記 2020-01-11
この続きは、
やまもも書斎記 2020年1月11日
『村上ラヂオ3』村上春樹・大橋歩
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/01/11/9200606

『スカーレット』あれこれ「好きという気持ち」2019-12-08

2019-12-08 當山日出夫(とうやまひでお)

『スカーレット』第10週「好きという気持ち」
https://www.nhk.or.jp/scarlet/story/index10_191202.html

前回は、
やまもも書斎記 2019年12月1日
『スカーレット』あれこれ「火まつりの誓い」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/01/9183505

喜美子は恋をすることになる。

この週で描いていたところの見どころとしては、次の二点だろうか。

第一に、恋。

喜美子は、会社にいる十代田と恋をすることになる。そこにいたる過程を、じんわりと描いていた週だったと思う。ふとしたことから陶芸に興味をもった喜美子は、十代田に教わることになる。はじめのうちはぎこちなく他人行儀なふたりであったが、そのうちにお互いを意識しはじめる。そして、喜美子が大阪に出る前にひろった陶器のかけらを見るために、十代田は喜美子の家をおとずれる。そこで、二人は、お互いの気持ちを確認することになる。

第二に、陶芸。

喜美子が十代田と恋仲になるきっかけは、陶芸であった。ここで、喜美子は陶芸の基本を十代田から教わることになる。たぶん、これが契機として、これからの喜美子の陶芸家としてのスタートということになるのであろう。

以上の二点、喜美子の恋と、陶芸家への道、これをうまく融合させて描いた週であったと思う。

さらには、妹の直子のことがある。東京でうまくいっていないらしい。そこで、草間さんにたのんで直子のことを見てもらうことになる。どうやら、直子は、恋をしたらしい。しかも、片思いである。が、そのことを、母親に話したことで、どうやら気持ちの整理ができたようでもある。

ここで草間さんが言っていたこと……人を好きになる気持ちのこと、これが、喜美子と十代田の恋につながることとして、うまく出てきていたと感じる。

これから、喜美子の陶芸家への道のりと、十代田との恋のゆくえをめぐって、いろいろありそうである。今後の展開を楽しみに見ることにしよう。

追記 2019-12-15
この続きは、
やまもも書斎記 2019年12月15日
『スカーレット』あれこれ「夢は一緒に」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/15/9189442

新潮日本古典集成『源氏物語』(三)2019-12-09

2019-12-09 當山日出夫(とうやまひでお)

源氏物語(3)

石田穣二・清水好子(校注).『源氏物語』(三)新潮日本古典集成(新装版).新潮社.2014
https://www.shinchosha.co.jp/book/620820/

続きである。
やまもも書斎記 2019年12月2日
新潮日本古典集成『源氏物語』(二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/02/9183986

『源氏物語』を読んでいる。岩波文庫でも読んでおきたいが、まだ全巻完結していない。が、これは、これとして、既刊分について読んでおくつもりではいる。新編日本古典文学全集のテキストが、今ではもっとも一般的なテキストであることは理解しているつもりではいるが、このシリーズは、現代語訳を見なければならないのが、読んでいてわずらわしい。『源氏物語』は、いくら古文を読むことができるからといって、その本文だけで理解できるというものではない。書かれてから千年以上にわたって、読み継がれてきた歴史の積み重ねの上に、現代の校注本がある。

新潮版で読んでみての第三冊目である。この本については、すでに書いている。

やまもも書斎記 2019年2月22日
『源氏物語』(三)新潮日本古典集成
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/22/9039182

再度読んでみて、基本的な印象は変わらない。特に「少女」の巻が難解である。いや難解というのとはちょっと違うかもしれない。なんとか注釈を読めば理解できるのだが、光源氏、内大臣(頭中将)、夕霧、雲居雁……これらの登場人物の錯綜するこころの動きをおっていくのが、骨がおれる。

それが、「玉鬘」の巻になると、すっかり雰囲気がかわる。西国で生い育った玉鬘が、京にでてきて、長谷寺で右近とめぐりあうというストーリーは、きわめて説話的である。この箇所は、明らかに観音霊験譚として書かれたものであろう。(このような霊験譚は、『今昔物語集』のなかにあってもおかしくない。)

ところで、なんで『源氏物語』を読んでいるかというと、(すでに書いたことであるが)その理由の一つとして、「書く」ということ、「文字」ということがある。『源氏物語』の登場人物たちは、たしかに「文字」を書いている。「文字」「消息」「歌」によるコミュニケーションで、意思疎通をはかり、行動している。これは、とりもなおさず、『源氏物語』が書かれ読まれた平安貴族の社会において、「文字」というものが一般化していたことと、表裏一体をなすものであろう。

こんなこと、ちょっと調べれば、先行研究の論文があるだろうと思うのだが、もう、老後の楽しみの読書である。自分の目でテキストを読みながら、確認していきたいと思って、付箋をつけながら読んでいる。「文字」によるコミュニケーションを基盤としたところに、『源氏物語』が書かれていることが、読みながら確認できる。(これは、先行研究を軽んずる意味ではない。もう限られた時間の使い方として、何よりも自分の目でテキストを読むことを優先させたいのである。また、『源氏物語』全体を通じて、「文字」「書く」「仮名」というようなことがどう書かれているかは、自分の目で全体を読み通しながら考えるしかないことでもある。)

これはすでに知られていることだが、「草(そう)」ということばがでてくる。「草仮名」のことである。「仮名」(=平仮名)ではない、また、「真名」(=漢字)でもない、草書体の万葉仮名ということになる。この「草」が実際に『源氏物語』のどの部分に、どのように出てくるのか、自分の目で読んで確かめておきたくもある。

そして、「少女」の巻など、ああでもないこうでもない、いややはりああしようかこうしようか……あれこれと悩む心中については、たぶん、耳で聴いただけでは理解できるものではないだろう。目で読む「文字」の文学としてでなければ、読めないと思われる。そして、それが今において読めるのは、この『源氏物語』が書かれてからずっと読まれてきた歴史があるからである。でなければ、どうして、この文言の解釈がどうしてそのようになるのか、表面の字面だけでは、到底理解できるものではない。

秋の授業がはじまるまでに、『源氏物語』を最後まで通読しておきたいと思う。(追記、これを読んで文章を書いたのが夏のうちだった。)

追記 2019-12-16
この続きは、
やまもも書斎記 2019年12月16日
新潮日本古典集成『源氏物語』(四)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/16/9189826

『いだてん』あれこれ「炎のランナー」2019-12-10

2019-12-10 當山日出夫(とうやまひでお)

『いだてん~東京オリムピック噺~』第46回「炎のランナー」
https://www.nhk.or.jp/idaten/r/story/046/

前回は、
やまもも書斎記 2019年12月3日
『いだてん』あれこれ「火の鳥」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/03/9184379

この回のメインの話題は、聖火のこと。

一九六四年(昭和三九)の東京オリンピックの時、私は小学生だった。そのいくつかの競技をテレビで見たのを記憶している。特に、最後にあった、女子バレーボールのソ連との試合を見たと憶えている。

聖火リレーである。どういういきさつがあって決まったルートなのかしらないが、その当時、私の通っていた小学校の近くを通ることになった。それで、授業を中断して、学校そろってその走るのを見に行った。ただ、それは、人が走るのを見たというのにとどまる。特に、それがオリンピックの聖火であるという感慨などは、特に感じることなく終わってしまった。実にあっけなかったというのが、正直なところである。

その聖火リレーのスタートが、沖縄であったということは、このドラマを見て知った。その当時、沖縄は、アメリカの統治下にあった。そのため、日の丸の旗を掲揚することも、自由にはできなかったとのこと。その後の知識として、日の丸の旗が、沖縄の本土復帰のシンボルとなっていったことを知っている。(さらにいえば、今では、逆に、日の丸の旗は、日本のなかで虐げられた立場にある沖縄を象徴するものに、変化してきている。)

その当時は、まだ小学校であったこともあるのだが、特にナショナリズムということを感じてはいなかった。ただ、日本の選手が頑張ればうれしかった。

しかし、今になって思う……ナショナリズムとは、素朴な社会の人間の感情のなかに醸成されていくものである、ということを。(ただ、私は、ナショナリズムそのものを悪いものだとは思ってはいない。)

ドラマも終盤である。次回、いよいよ最終回。東京オリンピック開催ということになる。

そして、今から振り返ってみるならば、東京オリンピックは成功であった。しかし、その裏側には、実に生々しい人間のドラマがあったことになる。この『いだてん』というドラマは、オリンピックの理念を描くと同時に、その理念のもとに展開された様々な人間ドラマを描いてきた。ともあれ、次回、最終回を楽しみに見ることにしようと思う。

2019年12月9日記

追記 2019-12-17
この続きは、
やまもも書斎記 2019年12月17日
『いだてん』あれこれ「時間よ止まれ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/17/9190320