『司馬遼太郎の時代』福間良明/中公新書2022-10-28

2022年10月28日 當山日出夫

司馬遼太郎の時代

福間良明.『司馬遼太郎の時代-歴史と大衆教養主義-』(中公新書).中央公論新社.2022
https://www.chuko.co.jp/shinsho/2022/10/102720.html

司馬遼太郎論として、また、戦後の教養と出版の歴史として、非常に面白い。ただ、これは、司馬遼太郎の作品を一通り読んだことのある人にとっては、より面白いと言った方がいいかもしれない。

司馬遼太郎が亡くなってかなりになる。今でも広く読まれている作家である。そして、司馬遼太郎の作品、なかでも『坂の上の雲』をめぐっては、歴史学の方から、毀誉褒貶、様々な意見がある。この本にしたがって整理するならば、進歩的なアカデミズムの側からは極めて批判的に見られることになるし、一方で、学際的な総合知をめざすような論者からは、高く評価されるということがある。

この本は、司馬遼太郎論というよりは、司馬遼太郎の作品が、どのような時代背景のもとに書かれ、そして、読まれてきたのか、また、それがどのように批判され、あるいは、賛美されることになったのか……ということに主眼をおいて述べてある。これは、今までの司馬遼太郎論の類では書かれてこなかったことである。

いわゆる旧制高校的な教養主義が消えて後、昭和五〇年代になって、大衆教養主義の時代になる。それをささえていたのは、主に企業の男性のサラリーマンである。教養をもとめる気持ちはあるが、重厚な専門書は手が出ない、だが、歴史をあつかった小説なら手が出せる、そして、出版史的には、文庫本の時代を迎えることもあった、また、時代背景として高度経済成長の後の時代ということでもある……様々な要因があって、司馬遼太郎の小説が書かれ、そして、読まれた。

司馬遼太郎の経歴もそれを、裏付けることになる。「二流」の経歴をたどってきた。書いたのは、歴史小説でも、歴史書でもなく、読み物であった。それは、明治の明るさと、昭和の暗さを描く作品であったが、時代に受け入れられた。

司馬遼太郎が読まれれば読まれるほど、アカデミズムの側からの批判も強くなる。それは、とりもなおさず、司馬遼太郎が論じるに価する歴史観を提示しているという認識につながっていく。

この本は、戦後の教養史、読書史、出版史、文学史、それから、社会経済史、労働史というようなものを総合したところになりたっている。特に、教養ということと歴史のかかわりを考えるうえで、非常に興味深い。

ところで、私は、司馬遼太郎の作品のほとんどは読んできていると思う。といっても、若いころから、文庫本で読めたものに限っててということになるが。(ただ、「街道をゆく」は読んでいない。)

『坂の上の雲』や『翔ぶが如く』は、二度読んでいる。これらの小説は、もとが新聞連載ということもあるし、司馬遼太郎の作品の書き方がそうであるということもあるのだが、細切れに読んでも意味がつながる。若いときは、電車のなかで読む本と決めて、カバンにいれておいて、それで読んだのを憶えている。

司馬遼太郎は、学問の世界と、一般の大衆教養の世界をつないだ作家ということになる。今、このような人がいるだろうか。学術の世界は、その専門の世界に閉じこもろうとしているように見えなくもない。一方で、インターネットの世界では、その学術の世界も、一般社会に開かれたものになっていくという側面もある。はたして、これからどうなるだろうか。

司馬遼太郎はこれからどう読まれていくことになるだろうか。おそらく、その歴史観への批判はつきまとうことになるだろう。だが、そのような批判をともないつつも、読み物としての面白さで読まれていくのではないだろうか、私には、そのように思える。

2022年10月21日記

『ウクライナ戦争と米中対立』峯村健司/幻冬舎新書2022-10-13

2022年10月13日 當山日出夫

ウクライナ戦争と米中対立

峯村健司.『ウクライナ戦争と米中対立-帝国主義に逆襲される世界-』(幻冬舎新書).幻冬舎.2022
https://www.gentosha.co.jp/book/b14583.html

峯村健司の対談集である。

対談の相手は次のとおり。

小泉悠
鈴木一人
村野将
小野田治
細谷雄一

どれもその分野での一流の人物と言っていいだろう。論調としては、リアルに国際政治と歴史の流れを見ているというべきである。これは、保守とか右翼とかにラベリングして分類すべきものではないと考える。

いろんな論点が論じられているのだが、基本的に、
・ウクライナ戦争
・ロシア
・アメリカ
・中国
そして、
・台湾有事

これらの現実の国際政治のなかで、今最も重要なテーマについて、縦横に論じてある。これを読んで感じるのは、まさに今の時代に生きる日本の問題、課題である。また、台湾有事ということが、単なる空想のことではないことがよく理解される。

これからの時代、二一世紀になって二〇年以上が経過した時点においてであるが、これからの国際社会の向かっていく方向が、必ずしも幸福なものではないことを、強く実感することになる。

覇権主義的世界、多極化する世界にあって、日本はこれからどうすべきか。直近の問題としては、台湾有事というときに、何を成しうるのか、いろいろと考えることが多い。今の世界では、民主主義国家の方がマイノリティになってしまっている、という指摘は重要かもしれない。うまく統治できて、経済的に繁栄することができるならば、独裁体制でもいいのではないか、そう思う国が増えてきていることは否定できないことだろう。

最も避けるべき議論……ロシアも悪いがウクライナも悪い。どっちもどっち。この論法で、台湾有事があったとして、中国も悪いがそれなりに理がある。軍事的にも強い。ならば、尖閣諸島ぐらいで我慢しておいて、日本が平和と中立を保つのが賢明……さて、このような論は、もうすでに水面下では浸透している考え方かもしれない。それこそ、中国の言論工作のねらいということになろう。

2022年9月30日記

『ウクライナ戦争の200日』小泉悠/文春新書2022-10-08

2022年10月8日 當山日出夫

ウクライナ戦争の200日

小泉悠.『ウクライナ戦争の200日』(文春新書).文藝春秋.2022
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166613786

最近の小泉悠の対談を編集したものである。対談の相手は次のとおり。

東浩紀
砂川文次
高橋杉雄
片渕須直
ヤマザキマリ
マライ・メントライン
安田峰俊

いろいろと考えるところの多い本である。幸いなことにと言っていいのだろうが、日本にいて、今の段階では、そう大きくウクライナの戦争の影響があるということはない。ただ、物価上昇という日常生活にかかわることはあるが、まあなんとかしのげる程度である。

ウクライナの戦争をめぐっては、様々なひとば様々な意見を述べている。テレビをつけても、新聞を見ても、多様な言説がとびかっている。そのなかで、この人の言うことは信頼していいだろうと思える一人が、小泉悠であることは確かである。少なくとも、私はそう思っている。

それは、一つには、軍事の専門家としての専門知識であり、そして、それゆえの謙虚さに由来する。ただ、ウクライナのことは、軍事や国際政治、あるいは、経済の問題など、いろんな論点がからんでくるので、確かにややこしい。そのなかで、この分野について、この視点からは、このように言えるというラインを明確に意識している論者であると思っている。(まあ、テレビをつければ、専門的知識のないコメンテーターの放言が、ひどいレベルであると言ってしまえばそれまでであるが。)

読んで興味深い、教えられるところ、考えるところが多くある本であるが、私が読んで興味深かったのは、片渕素直との対談。『この世界の片隅に』について、語っている。この対談を読んで思ったことは、あの映画、あるいは、原作の漫画は、戦争の時代の日常を描いた作品であると同時、戦争映画、戦争漫画なのだな、ということである。戦争と日常とが、同じディテールの細かさで連続して描かれている。なるほど、あの作品の魅力は、このようなところにあったのか、と再確認したようなところがある。

時事的な話題の本であるが、二〇二二年の秋のころまでに、どんな状況でどんなことを考えていたのか、確認する意味で、読んでおいて、そして、側においておいて損のない本だと思う。

2022年9月29日記

『百姓の江戸時代』田中圭一/ちくま学芸文庫2022-07-23

2022年7月23日 當山日出夫

百姓の江戸時代

田中圭一.『百姓の江戸時代』(ちくま学芸文庫).筑摩書房.2022(ちくま新書.2000)
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480511263/

この本は、このような指摘からはじまる……かつてあった議論、そして、その余波はいまでも続いているのだが……講座派と労農派という対立があった。要は資本主義の発達段階において、明治維新をどう見るかということのちがいである。だが、この両方に共通していることは、それまでの江戸時代を封建制の時代と規定していることである。はたして、江戸時代という時代は、封建制の暗黒の時代、封建領主の権力による、身分差別の時代であり、農民はただ支配にひれ伏すだけの時代だったのだろうか。

著者は、主に、佐渡をフィールドとして調査している。そこから浮かびあがってくるのは、教科書的に記述される虐げられた農民ではなく、自分の土地を持ち、商業に従事し、村の自治にかかわり、時として、武士にも抗することのある、(今のことばでいうならば)自立した農民の姿である。

歴史学において、「百姓」とはかならずしも「農民」に限らないということは、かつてより言われてきたことだと思う。ではいったいどのような仕事をしていたのか。村のなかで、どのような家族の単位で暮らしていたのか。村の外の他国とは、どのような交易がなされていたのか。この本は、ここのところを実に生き生きと描き出している。

ただ、この本自身がそう書いているように、今の歴史学の大勢としては、歴史の記述が支配者の視点にたったものが多いことは確かだろう。(あるいは、その裏返しとして、社会の中で疎外されることになる少数者に視点を置くという方法論もあるだろうが。だが、これは、一つの歴史観の裏返してであるように私には思われてならない。)

より重要なことは、社会を構成するより多くの人びと、大多数の人びとが、どのように暮らしてきたのか、ということであるはずである。この当たり前のことを、この本は、史料にもとづき、分かりやすく解説してある。

私が若いとき、学生のころにでも、このような本を読んでいたら、ひょっとしたら歴史学に興味をもち、そちらの方向に進んでいたかもしれない、そんなことも思ってみる。

以前、ちくま新書として刊行されていた本の文庫化である。そう大部なものではないが、歴史学を考えるうえで貴重なヒントが多くある本だと思う。

2022年6月17日記

『歴史とは何か 新版』E.H.カー/近藤和彦(訳)2022-06-11

2022年6月11日 當山日出夫(とうやまひでお)

歴史とは何か

E.H.カー.近藤和彦(訳).『歴史とは何か 新版』.岩波書店.2022
https://www.iwanami.co.jp/book/b605144.html

「新版」といよりも「新訳」というべきかもしれない。すでに、清水幾太郎の訳で岩波新書出ているものである。この旧版については、最初に読んだのは高校生のころだったろうか、あるいは、もう大学生になっていたかもしれない。とにかく読んだのを憶えている。この清水幾太郎訳は、近年になって、岩波新書のロングセラーをいくつか改版して新しくしたなかで、これも新しい版に改版されてきれいになっているのが出た。これも、久しぶりに買って読んだ。

この新訳であるが……とどのつまり「歴史とは何か」という問いかけについては、旧版で読むのと、そう変わるわけではない。旧版の岩波新書の訳も、かなり読みやすい文章であると思う。(今、手元にないので、比較して読むということはないのであるが。)

新しい本は、まず字が大きい。ゆったりと活字が組んである。これは、ありがたい。そして、脚注が豊富についている。解説も丁寧である。そして、最大の特徴としては、第二版への序文があり、また、第二版のための草稿が掲載になっていることだろう。カーは、この本の第二版を準備していたのだが、ついにそれをはたすことはできなかった。

分かりやすい本であるともいえるし、難解な本であるともいえる。文章は平易である。しかし、その語るところは、素直には分かりにくいところがある。これは、「歴史とは何か」という問いかけの問題もある。これは、きわめて簡単な問いではあるが、答えは簡単ではない。また、カーの歴史家としての専門が、現代のソ連史ということもいくぶんは関係してくるだろう。

この本が最初に書かれたとき……一九六一年……まだ、ソ連という国があった。その後、一九九一年にソ連が崩壊したのは、(私にとっては)まだ記憶に新しいことである。

ソ連の現代史というものの馴染みの無さが、かなりこの本に影響していることは確かだろう。

歴史とは何か、現代と過去との対話である……これは語り尽くされたことばかもしれない。だが、ここからどのような意味をくみ取り、自分が歴史を読む、あるいは、歴史を研究するときに、どんな意味があるのか……これは、きわめて難しい問いかけであるといってよい。歴史学の対象とは何であるか、このことは、一般の読者にとっては、逆に、歴史学が描き出すからそれが歴史として意識される、こう見るべきかもしれない。

もう、自分の楽しみのために本を読む生活である。歴史とは何かということを考えることも重要であることは理解するとしても、その一方で、読んで面白い歴史の本を読みたい、そう思うところもある。

多くの読者が思うことであろうが、カーは、ソ連の崩壊の以前に亡くなっている。もし、この本の著者が、ソ連崩壊のときまで生きていたらどう思ったであろうか、このことをどうしても考えてしまう。

2022年6月2日記

『物語 ウクライナの歴史』黒川裕次/中公新書2022-04-02

2022年4月2日 當山日出夫(とうやまひでお)

物語ウクライナの歴史

黒川裕次.『物語 ウクライナの歴史-ヨーロッパ最後の大国-』(中公新書).中央公論新社.2002
https://www.chuko.co.jp/shinsho/2002/08/101655.html

話題の本というか、売れている本らしいので、読んでみることにした。

私のウクライナについての予備知識は、わずかである。旧ソ連の一部であった国、チェルノブイリ原発のある国、穀倉地帯……この程度のものである。連日、テレビのニュースで、ウクライナのことを報じているのだが、肝心のウクライナという国について知らないのはこころもとない。とにかく、手頃な本だろうと思って読んでみることにした。

この本が刊行されたのは、二〇〇二年である。ソ連の崩壊の後であるが、近年のクリミア半島をめぐる問題のおこる前の本ということになる。著者は、駐ウクライナ大使であった。その経験をもとに書かれている。ウクライナ、あるいは、ソ連、ロシアという国については、どちらかといえば友好的な立場で書かれているといっていいだろう。少なくとも、ロシアに対して、批判的な立場はとっていない。

ロシアがウクライナを侵略したということは、直接にはNATOの拡大をめぐる昨今のヨーロッパの状況ということもあるにちがいない。このあたりは、テレビなどでよく解説されるところである。だが、歴史的にさかのぼってウクライナとロシアは、どのような関係であったのか。また、現在のウクライナ人びとは、どのような歴史的経緯があって、今日のウクライナという国家を形成することになったのか、さらには、ウクライナの土地はどのような歴史があったのか……このようなことについて、概略を教えてくれる。

おそらく、ウクライナとロシアは、歴史的に友好国というよりも、愛憎相半ばする関係といっていいのかもしれない。といって、敵対してきたばかりの歴史でもない。

また、ポーランドなどとの関係をはじめとして、ウクライナから移住した人びとのすむ国としての、欧米の国々との関係も興味深いものがある。また、日本とも結びつきのある国であることが理解される。

この本は、二〇〇二年の本であるからこそ、今となっては貴重な記述になっているというべきであろうか。今の時点から、ウクライナとロシアの歴史を語るとするならば、とてもこのようには書けないだろう。そして、歴史は後戻りできない。これから書かれるかもしれない、ウクライナについての本は、もはや、この本のような視点はとることができないともいえる。

ともあれ、ウクライナのことを考えるうえで、読んでおいて損のない本だと思う。

2022年4月1日記

『現代ロシアの軍事戦略』小泉悠/ちくま新書2022-03-28

2022年3月28日 當山日出夫(とうやまひでお)

現代路リシアの軍事戦略

小泉悠.『現代ロシアの軍事戦略』(ちくま新書).筑摩書房.2021
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480073952/

話題の本ということで読んでみることにした。この本が出たのが、昨年(二〇二一)の五月。このときは、特に気にとめることのなかった本であるが、やはり昨今のニュースなど見ていると、読んでおきたくなった。

軍事の門外漢として、特にこの本について、どうこう言うところはない。なるほど、ロシアの軍事をめぐる状況とはこんなものかと思って読むだけのことになる。

著者の小泉悠は、このところテレビでよく見る。ニュース番組の解説などで、頻繁に登場している。たまたま見るようなことがあるときは、なるべく見るようにしている。

軍事の専門家の考えることはこういうことなのか、というあたりが非常によくわかる。そして、有象無象、あまた登場してくる、テレビの解説者のなかでは、そのことばを信用していいと思える一人でもある。

時に饒舌であると同時に時として寡黙である。それは、専門家というのは、自分の専門領域のことについては、きちんと語るべきことを語る。しかし、分からないことについては、分からないと明言できる。これが専門家の知見というものである。

そういえば、ここ二年ほど、COVID-19の流行以来、テレビなどで、多くの専門家のことばを聞いてきた。そこで分かったことは、一般にいわれる専門家といっても、ほとんど何も語っていないに等しい、あるいは、余計なことまでしゃべりすぎる、ということであったように思う。

専門家というのは、自分の専門領域のことについては、自信を持って語るべきであると思うが、何について専門的知見を有しているのかについては、常に批判的、自覚的であるべきだろう。

何かことがあると、コメンテーター、評論家が、のさばりだす。そのようななかにあって、そのことばに耳をかたむける価値のある専門家であろう。

強いて、この本の読後感として一言だけ述べておくならば……こんなはずでは
なかったのに……ということになるだろう。予見、観測が裏切られても、そこでふみとどまって、なぜそのような判断にいたったのか、反省する視点が確保できている。この冷静さが今では貴重なものである。

2022年3月27日記

『妻たちの二・二六事件』澤地久枝/中公文庫2022-03-25

2022年3月25日 當山日出夫(とうやまひでお)

妻たちの二・二六事件

澤地久枝.『妻たちの二・二六事件』新装版(中公文庫).中央公論新社.2017 (1975.中公文庫 1972.中央公論社)
https://www.chuko.co.jp/bunko/2017/12/206499.html

NHKの「戒厳指令 交信ヲ傍受セヨ 二・二六事件秘録」(再放送)を見たのが、先月のこと。

やまもも書斎記 2022年2月24日
戒厳指令 交信ヲ傍受セヨ 二・二六事件秘録
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/02/24/9466875

これを見て、二・二六事件関係の本を読んでみたいと思った。北一輝についての本も持ってはいるのだが、選んでみたのがこの本である。(昔の文庫本で買ってあったような気もするのだが、これは新しい版で読むことにした。)

テレビを見ていて印象に残っていること……事件関係者の未亡人が語っていたことば……「二月と七月はいやでございます」。(二月は事件のあった月。七月は処刑のあった月である。)事件について語られた数多くのことばのなかで、このことばは深く印象に残る。

事件から数十年後の取材になるのだが、なんとも、その姿勢の気丈なことかと、感銘をうけたものである。

二・二六事件については、いろんな立場からいろんなことを語ることができる。日本の歴史のなかで、重要な事件であることは確かである。どのよう立場から語るにせよ、この本のような視点は忘れてはならないことだろうと思う。

ところで、この文庫本の解説を書いているのは、中田整一。NHKの番組を作ったプロデューサーである。その後、ノンフィクション作家として活動している。

2022年3月24日記

『日独伊三国同盟』大木毅2022-02-28

2022年2月28日 當山日出夫(とうやまひでお)

日独伊三国同盟

大木毅.『日独伊三国同盟-「根拠なき確信」と「無責任」の果てに-』(角川新書).角川書店.2021
https://www.kadokawa.co.jp/product/322005000663/

この本のもとは、二〇一〇年にPHP新書として刊行された『亡国の本質-日本はなぜ敗戦必至の戦争に突入したのか-』を、改題し加筆したものである。(もとの本は残念ながら読んでいない。)

読んで思うことはいくらもあるが、二つばかり書いておく。

第一には、昭和戦前の政治史、外交史として、非常によく書けている本であることである。もとがPHP新書ということもあるのだろうが、比較的読みやすい文体になっている。(これは近年の『独ソ戦』などの文章とはちょっと違っている。)

なんと無責任な政治家、軍人たちであったことか、と思わざるをえない。これは、一つには歴史の結果として、太平洋戦争の敗北ということを知っている視点からのものであることは承知していても、それでもなお戦前の政治家、軍人たちの、無定見にはあきれるとしかいいようがない。

特に誰ということはないが、日独伊三国同盟に深くかかわったということでは、大島浩、松岡洋右などが、名前がうかぶところである。それから近衛文麿も、無責任な政治家ということになるだろうか。

希望的観測による独断……それを象徴するのが「バスに乗りおくれるな」ということばになるのかもしれない。

歴史の中で、ポイント・オブ・ノー・リターンを求めるとして、日独伊三国同盟という視点から、戦前の政治史、外交史を概観してある。確かに、結果としては、ドイツ(あるいはヒトラー)と組んだことは、日本の大きな失敗であったということになる。が、それを推進した人間がいたということ(大島浩とか松岡洋右など)がいて、また、それを支持する世論があったことになる。

ドイツ(あるいはヒトラー)と軍事同盟を結べば、ソ連や英米を敵にまわすことになる。そして、戦争になったら日本に勝ち目はない。これは、冷静に考えれば分かることであったかもしれない。だからといって、その当時の日本において、中国での戦争を終わらせて、英米と協調路線に転換することは、容易なことではなかったことも確かではあるが。(ただ、その当時の英米も、帝国主義国家である。日本の中国戦争を批判はしても、アジアの植民地支配という立場では、どこか落とし所があった可能性はある。といって、日中戦争を正当化することは今日の観点からはできないだろうが。)

第二には、まさに今の日本の状況。この本を読んでいるとき、ちょうどロシアのウクライナ侵攻がはじまった時である。さて、日本の政治家、また、世界の政治家は、この事態について、どう判断することになるのだろうか。

今から、八〇年ほど前のこと……第二次世界大戦の前夜、日本の、また、世界の政治家や軍人たちは、どのように判断していたのか……これは、歴史の教訓として、いくらでも学ぶべきところがあると思う。

この本を読みながら、脳裏に去来するのは、まさに今の国際情勢と、そのなかにおける、各国指導者の判断の是非である。ロシア、ウクライナ、アメリカ、EU、中国、そして、日本などの各国の指導者は、いったい何を思って行動しているのだろうか。根拠のない希望的観測にもとづいて判断しているということはないだろうか。

今の世界の情勢を冷静になって見てみようとするとき、この本の描いている日独伊三国同盟締結にいたるプロセスは、さまざまに考えるヒントを与えてくれるかと思う。国家の指導者とは、かならずしも合理的な判断ができるとは限らないことを、読みとることができるだろう。政治家が合理的で正確な判断ができるなら、そもそも戦争などおこりようがない。

以上の二つのことを、書きとめておきたい。

大木毅の本は、他に読んでいないものがある。読んでおきたいと思う。

2022年2月27日記

『源氏将軍断絶』坂井孝一2022-02-26

2022年2月26日 當山日出夫(とうやまひでお)

源氏将軍断絶

坂井孝一.『源氏将軍断絶-なぜ頼朝の血は三代で途絶えたか-』(PHP新書).PHP研究所.2021
https://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-84828-0

『鎌倉殿の13人』の時代考証担当である坂井孝一の書いた新書本としては、先の『承久の乱』につづくものとなるらしい。

やまもも書斎記 20220年2月18日
『承久の乱』坂井孝一
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/02/18/9465264

歴史学にはうといので、近年の平安時代から鎌倉時代について、どのような研究動向にあるのかよく分からない。が、一般向けの新書本ということで、私のような読者……まあ、高校の時の歴史の教科書で習った程度の知識の持ち主ということになろうが……が、読んでもなるほどと思うように書いてある。たぶん、この本は、専門の歴史家の目で見ても一定の水準で書いてあるのだろう。

読んで思うことはいろいろある。が、歴史学に踏み込まない範囲で思ったことなど書いてみると、次の二点になるだろうか。

第一には、ドラマとの関連。

確かこれからの出演者の発表で、源実朝の役も発表になっていたかと思う。(もうすっかり忘れているのだが。)では、このドラマ『鎌倉殿の13人』では、どのような実朝を描くことになるのだろうか。

実朝というと、国文で学んだ私としては、まず歌人として憶えていることになる。暗殺されてしまった悲劇の将軍でもある。さらには、太宰治を思い出す。そういえば、確か吉本隆明が、太宰治の実朝について何か書いていたのを読んだことを憶えている。

だが、この本を読むと、武士としても実朝は立派な存在であったらしい。そして、実朝の後の将軍を誰にするか、これは鎌倉幕府の大きな問題であったことになる。これも、鎌倉幕府という組織の維持を考えるならば、別に源氏の血筋でなくてもいいことになる。強いて読んでみるならば、組織の継続か、血筋か、ということになる。(歴史の結果としては、鎌倉幕府の存続という方向を選んだことになり、実朝は非業の最期をとげることになった。)

なぜ実朝は歌を読んだのか。このあたり、ドラマではどう描くことになるのだろうか。(ここは一般論として、鎌倉時代の武士のたしなみとしての和歌ということも考えておくべきなのであろうが。)

第二は、史料のこと。

この本では、『愚管抄』とか『曽我物語』が使われている。特に、『愚管抄』からの引用が多い。『愚管抄』は、昔の岩波の古典大系の旧版に収録である。若いころ、手にした本の一つではある。が、そう読むということもなく、今でもどこかにしまいこんだままになっている。『曽我物語』も同様である。

近年の国語史、日本語史という研究分野において、『愚管抄』や『曽我物語』が重要視されるということはあまり無いのかと思うがどうだろうか。これは、私が最近の研究に疎いだけのことかもしれないのだが。

しかし、歴史学の分野では、『愚管抄』や『曽我物語』……それも真名本……が、重要な史料として使われるようだ。これはこれで、非常に興味深い。

日本語のことばの資料として、『愚管抄』や『曽我物語』は、魅力的な文献といっていいだろう。ここは、楽しみの読書として、しまってある本を取り出してきて読んでみようかと思う。あるいは、『曽我物語』は新編日本古典文学全集もある。(ただ、もう論文を書いてみたいという気はおこらないでいるのだが。)

以上の二つのことを思ってみる。

それから、近年の研究として、頼朝は、自ら望んで征夷大将軍になったということではないらしい。このあたりの事情を、ドラマでどう描くことになるのか、興味のあるところである。

2022年2月25日記