『おかえりモネ』あれこれ「それでも海は」2021-07-11

2021-07-11 當山日出夫(とうやまひでお)

『おかえりモネ』第8週「それでも海は」
https://www.nhk.or.jp/okaerimone/story/week_08.html

前回は、
やまもも書斎記 2021年7月4日
『おかえりモネ』あれこれ「サヤカさんの木」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/07/04/9394437

この週は、亀島が舞台だった。震災、津波災害からの人びとの有様が描かれていた。思うこととしては、次の二点ぐらいだろうか。

第一には、大人たち。

百音の家族(両親たち)、それから、りょーちんの父の新次のこと。この週で、二〇一一年の震災の前後に、この人びとの間で何があったのか、ようやく分かってきた。新次は、船を作ろうとした。そして、その船も、また、妻の美波も失ってしまうことになる。まさに震災で何かもなくしてしまったといっていいのだろう。

その新次に対して、なんとか力になりたいと思う、永浦の人びと。特に、母親と父親。これも、それぞれに、立場があって、新次との距離のとりかたが微妙に違う。が、それぞれの立場で、新次のことを思っている。

だが、何もかもなくしてしまった新次は、そう簡単にはたちなろうとはしない。が、しかし、子どものりょーちんに対しては、未來を託しているようなところがある。

第二には、子どもたち。

百音や未知、りょーちん、クラスメートたち。まだ若い彼らは、未來を考えている。何かをなそうとしている。大人たちとは違う未來を考えているようだ。

気象予報士を目指している百音も、いつとはなしに、そんな仲間たちにまじって、自分の未來を考えているかと思われる。勉強に覚悟をきめて、菅波にいわれたように縄跳びにはげむ姿が印象的であった。

以上、二点、二つの世代にわけてみたが、ドラマでは、それぞれに震災をどううけとめているのか、そこから、さらにどう未來を構想していくのか、丁寧に描いてあったと思う。ただ、震災の被災者ということでひとくくりにせずに、各自のおかれた環境、立場で、どのようにこれからのことを考えているのか、おのおのの生き方があることになる。

特に印象的だったのが、りょーちんの母の美波が、カラオケで歌うシーン。このドラマでの登場は、ほとんどこれだけだったが、「かもめはかもめ」の歌が、こころに残る。留守番電話の声とカラオケだけでも、このドラマのなかで存在感がある。

それから、亀島の百音のところに電話してきた菅波。百音に縄跳びをすすめてはみたけれど、やはり気になって、関連の論文を探して読んでみたらしい。菅波もまた、百音の生き方に寄り添う人間の一人である。

次週、試験の結果が明らかになるようだ。楽しみに見ることにしよう。

2021年7月10日記

追記 2021年7月18日
この続きは、
やまもも書斎記 2021年7月18日
『おかえりモネ』あれこれ「雨のち旅立ち」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/07/18/9399169

映像の世紀プレミアム「オリンピック」2021-07-12

2021-07-12 當山日出夫(とうやまひでお)

映像の世紀プレミアム オリンピック 激動の祭典

去年の放送を、オリンピック開催を前にして(たぶん、このまま開催になるのだろうが)、再放送であった。最初の放送があったのは、昨年の六月。二〇二〇年の東京オリンピックが中止と決定してからのことになる。編集は、昨年のうちのものなのだが、今年の視点から見ても、いろいろと考えることが多い。

第一に、オリンピックと政治。

ベルリン、幻の一九四〇年東京、モスクワ、ロサンゼルス……これらの大会は、きわめて政治色の強いものであった。政治とオリンピックは、切り離すことができないことが、歴史を振り返れば見えてくる。

その意味では、逆説的になるが、メキシコシティ大会における、黒人差別への抗議行動は、現在の価値観からは、許容されるべきことになることになる。今回のオリンピックでも、たしか、ある程度の政治的意志の表明は許容する、という方針になっていたはずである。

第二に、オリンピックと商業主義。

このところに、この番組ではあまり踏み込むことがなかったが、ロサンゼルス大会をきっかけにして、オリンピックの商業主義が始まった。そして、そのきっかけになるのが、テレビ放送であり、そのテレビ中継がはじめておこわれたのが一九六四年の東京大会であるというのも、なんとなく皮肉に思えてくる。東京大会、それから、その次のメキシコシティ大会ぐらいまで、オリンピックの精神……特にアマチュアリズムが、強くいわれていたことはなかったかと記憶する。

今回の、東京でのオリンピックに多くの人びとが批判的なのは、特にその商業主義に対してである。

以上の二点を思ってみるのだが、その他、いろいろと思うところはある。

オリンピックの歴史を映像で振り返るとき、これは、日本で作った番組だからということもあるのだが、ベルリン大会のマラソン金メダリストの孫基禎を大きくとりあげてあった。このような視点からは、ヨーロッパの国々おける、植民地、あるいは、旧植民地をふくめて考えていいかもしれないが、本国以外の出身の選手を、どう遇してきたか、これはこれとして、さまざまに考えるべき問題点となるだろうと思う。

私の記憶にある範囲でいうならば、ミュンヘン大会のテロ事件のことにふれなかったのは、ちょっと残念な気がしないでもない。まさに、オリンピックが国際政治の舞台であるからこそ、おこった事件であったはずである。

レニ・リーフェンシュタールと、記録映画「オリンピア」のことは、オリンピックの歴史と直接は関係ないかもしれないが、著名なできごとの一つである。いや、見方によっては、オリンピックの政治性を最も体現している、一つのできごとであったのかもしれない。政治性をまったくはなれた、純粋な記録映画というようなものがあり得るのであろうか。(そういえば、今回の東京でのオリンピックの記録映画の監督は、河瀬直美である。どのような記録映画が作られることになるのだろうか。)

そして、今の時点で、再放送を見て思うことは……昨年、オリンピックの中止が決まったとき、「完全な形での開催」を目指すということがいわれた。では、オリンピックの「完全な形」とはいったいどんなものなのだろうか。昨年からのCOVID-19をめぐる一連の動きのなかで、歴史を振り返って、改めて考えるべきことのように思えてならない。

おそらくは、ただ国内外からたくさんの観客が入ればそれで「完全な形」といいいかねない安直な発想を、歴史をかえりみることによって、考えべきなのであろう。

2021年7月11日記

『青天を衝け』あれこれ「篤太夫、パリへ」2021-07-13

2021-07-13 當山日出夫(とうやまひでお)

『青天を衝け』第22回「篤太夫、パリへ」
https://www.nhk.or.jp/seiten/story/22/

前回は、
やまもも書斎記 2021年7月6日
『青天を衝け』あれこれ「篤太夫、遠き道へ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/07/06/9395089

おそらく、この『青天を衝け』で最大の見せ場であるパリ万博である。

見ていて思うことは、次の二点ぐらいあるだろうか。

第一に、パリのこと。

COVID-19の影響で、フランスでのロケができないということになっている。もし、何事もなければ、おそらくはフランスロケという手はずであったろうと思う。

だが、そのかわり、テレビの特撮技術ならではの、圧巻のパリであった。凱旋門から見たパリの街。万博会場。そして、ナポレオン三世との謁見。これら、コンピュータによる画像処理の技術を駆使しての場面であったかと思われる。

ひょっとすると、実際にフランスでロケをするよりも、この方が、現実味があったかもしれない。たぶん、『青天を衝け』のフランスでのシーンは、大河ドラマ史上に残る名場面として、語り継がれることになるにちがいない。

第二に、琉球のこと。

パリ万博に幕府は、「日本」を代表するものとして参加した。だが、その一方で、薩摩と琉球が展示を行っていた。これに、幕府はクレームをつける。

だが、明治政府になって、正式に沖縄県が設置されるまで、琉球は、れっきとした独立国であったはずである。(実質的には、清朝と薩摩藩の両方に帰属するということではあったかもしれないが。)

また、日本を開国させたペリーは、日本に来る前に、琉球にもたちよっているはずである。その当時の欧米列強からするならば、日本と琉球は別の国である。また、日本を代表するのは、将軍なのか、天皇なのか、このあたりも、まさに幕末の動乱のなかで議論の紛糾したところである。立場によって、天皇が君主であり、そのもとに、各藩が存在する連邦国家であっても、おかしくはない。

以上の二点が、この回を見て印象に残っているところである。

今までのところ、江戸幕府は、諸藩を相手にして、また、イギリスとフランスを相手にして、どうにかうまく立ち回っているというところであろうか。したたかである。慶喜は外国語に堪能だったようだ。が、それも、この回までかもしれない。次回は、いよいよ大政奉還ということになるらしい。

ところで、ちょっと気になったことは、ナポレオン三世への慶喜の書状。「源慶喜」と署名してあったが、この当時の、武家の正式の署名として、これでいいのだろうか。このあたり、しかるべく時代考証をふまえてのことだろうとは思うが、すこし気になったところでもある。

次週、まだ、栄一のフランス滞在はつづくようだ。また、日本では、明治維新ということになる。オリンピックが、開催になるとしても、少なくとも次週は、放送があるはずである。楽しみに見ることにしよう。

2021年7月12日記

追記 2021年7月20日
この続きは、
やまもも書斎記 2021年7月20日
『青天を衝け』あれこれ「篤太夫と最後の将軍」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/07/20/9399807

綿毛2021-07-14

2021-07-14 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので写真の日。今日は綿毛である。

前回は、
やまもも書斎記 2021年7月7日
エゴノキ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/07/07/9395395

駐車場の空き地のところに、タンポポが咲く。それが、いつの間にか綿毛になっている。どうして、タンポポの花から、綿毛に変化していくのか、その過程を知りたいと思いながら、いまだにはたせずにいる。

今年も、近所のところどころに綿毛が見られる。接写用のレンズを持っていると、必ず撮影したくなる対象の一つといっていいかもしれない。年に何度か、庭に出て、思いっきりクローズアップで撮影してみたりすることがある。

掲載の写真は、撮りおきのストックからである。

庭に咲いていたクチナシの花は、植木屋さんが来て剪定してしまったので、ほとんど姿を消してしまっている。来年には、また白い花を咲かせるだろう。家の近所で、上を見上げると白い花が見える。リョウブのはずである。キキョウの花がつぼみになっているのが確認できる。今年は、雨の日が多かったせいか、昨年にくらべて咲くのがちょっと遅いようだ。

綿毛

綿毛

綿毛

綿毛

綿毛

綿毛

Nikon D500
TAMRON SP AF 180mm F/3.5 Di MACRO 1:1

2021年7月13日記

追記 2021年7月21日
この続きは、
やまもも書斎記 2021年7月21日
桔梗
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/07/21/9400088

『源氏物語』秋山虔2021-07-15

2021-07-15 當山日出夫(とうやまひでお)

源氏物語

秋山虔.『源氏物語」(岩波新書).岩波書店.1968
https://www.iwanami.co.jp/book/b267326.html

岩波新書で、『源氏物語を読む』(高木和子)が刊行になったのを機に、岩波新書で昔出た本を復刊したものである。たしか、これは、若いときに読んだかもしれない本なのだが、今となってはすっかり忘れてしまっている。新しいきれいな本で読んでみることにした。

『源氏物語を読む』でも感じたことなのだが、『源氏物語』の一般的な本……新書本など……を書こうとすると、どうして、あらすじにしたがって書くということになるのだろうか。入門的な本という意図からするならば、長大な『源氏物語』についてその梗概を書く必要が、まずある。そのうえで、この物語を今の研究においてどのように読むことになるのか、論ずることになる。全体として、あらすじになってしまうのは、これはいたしかたのないことかもしれない。

この本、出たのが一九六八年……昭和四三年……ということもあるのだが、今の時点から読むと、ちょっと時代を感じさせる。「王権」というような用語がつかってない。が、全体として、『源氏物語』を論じる視点は、オーソドックスなものであるといってよいだろう。

これは、「古典は本当に必要なのか」の議論とも関連するところだが、『源氏物語』の入門的な本などが、新書本で、かつてはあった、その証拠のような本ともいうことができる。「教養」としての「古典」であり、その代表的作品としての『源氏物語』である。だから岩波新書のなかの一冊として刊行されていた。

『源氏物語』を、文学作品として読んでいる。これは、当たり前のことかもしれないが、古典文学研究の立場からすると、これは、意外とそうでもない。強いていえば、秋山虔のころまでは、『源氏物語』を、コンテンポラリーな視点から、「文学」として享受する感覚が生き残っている。これが、今では、消えかかっているとでもいうべきだろうか。少なくとも、日本の古典文学の専門の研究者以外から、『源氏物語』をどう読むか、という声が、なかなか聞かれなくなってきてしまっているとはいえそうである。

そうはいっても、『源氏物語』については、今でも、入門的な本のいくつかはある。が、その多くは、やはり入門であって、本格的に『源氏物語』を論じる入り口というわけにはいかなくなっているように感じられる。

『源氏物語』について勉強してみようと思っている、日本文学専攻の学生などにとっては、今回の復刊は、よろこぶべきことかもしれない。日本における代表的な中古文学研究者の手になる、『源氏物語』の概論として、その成立論、作品論、作者論、などをふまえて、(ちょっと時代はふるくなるが)その時点における、基本的な論点をおさえてある。

特に、その作品論に踏み込んだ評言に共感するかどうかは、また別のこととしておいて、一読の価値のある本だと思う。

2021年7月5日記

新・映像の世紀(5)「若者の反乱が世界に連鎖した」2021-07-16

2021-07-16 當山日出夫(とうやまひでお)

新・映像の世紀(5) 「若者の反乱が世界に連鎖した~激動の1960年代~」

続きである。
やまもも書斎記 2021年7月9日
新・映像の世紀(4)「世界は秘密と嘘に覆われた~冷戦~」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/07/09/9396202

この回は、一九六〇年代の東西冷戦の時代のころから、ベルリンの壁の崩壊まで。ちょっと編集に無理があるかなと感じるところがないではなかった。一九六〇年代の若者の反社会的、反体制的な動きから、中国の文化大革命、さらには、天安門事件、フランスの五月革命などを経て、一九八九年のベルリンの壁の崩壊までは、確かに、若者がある意味で主役であったかもしれないが、それでひとくくりにするのは無理があるかなと感じないでもない。

ところで、久しぶりに、毛沢東の映像を見たかと思う。これまで、「映像の世紀」などのおいても、あまり毛沢東は登場してきていなかった。また、天安門事件のことを大きくとりあげていたのも、印象に残る。今、日本の主要メディアは、中国に配慮してか、天安門事件のことについて、正面から大きくとりあげることはあまりない。

かつては、日本においても、毛沢東が英雄視される時代があったのである。その時代のことは、私の記憶のうちにあることになる。

映像記録だから分かることとして、ゲバラが本を読んでいるシーンがあったが、そのタイトルにあったの文字は、ゲーテであった。

一九六〇年代は、日本においても若者の反抗の時代であった。これについては、日本においては、歴史の彼方のことになってしまったともいえるし、あるいは、まだ、歴史的に評価の難しいところでもあるのかもしれない。

この回で描いていたのは、若者であったかもしれないが、さらに、もう一つの主役として登場してきていたのが、メディア、それもテレビである。ベトナム戦争は、テレビでほとんどリアルタイムで見ることのできた戦争ということになる。

そして、メディアの発達が、ペレストロイカになり、さらには、ベルリンの壁の崩壊につながったというのは、その時代を生きてきた人間なら、感じ取ってきたことであろうと思う。映像の世紀というが、それは、すなわちメディアの時代である。特に、映画から、テレビになり、さらには、インターネットになる時代、二一世紀はどのような時代になり、どのような記録映像を残すことになるのであろうか。

次回は、その新しいメディアの時代を描くことになる。

2021年7月13日記

追記 2021年7月23日
この続きは、
やまもも書斎記 2021年7月23日
新・映像の世紀(6)「あなたのワンカットが世界を変える」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/07/23/9400708

プロジェクトX「オートフォーカスカメラ」2021-07-17

2021-07-17 當山日出夫(とうやまひでお)

プロジェクトX オートフォーカスカメラ 14年目の逆転劇

続きである。
やまもも書斎記 2021年7月10日
プロジェクトX「妻に贈ったダイニングキッチン」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/07/10/9396482

カメラというものは、ある意味では日本の特産品のようなところがある。そのカメラの歴史の中では、いくつかの画期的な製品、技術が登場してきている。そのうちの一つが、オートフォーカスカメラということになる。

子どものころからのカメラ好きである。そのせいもあって、使っていたのは、一眼レフが主だった。そのため、35ミリコンパクトカメラというのは、あまり使ったことがない。

そもそも、コンパクトカメラの開発自身が画期的であったともいえる。

オートフォーカスコンパクトカメラを最初に出したのが、コニカであったことは、この番組(再放送)を見るまで忘れていた。(ミノルタがオートフォーカス一眼レフα7000を出したときのことは、かなりはっきり覚えているのだが。)

ただ、オートフォーカスの技術の核になる部分は、アメリカのハネウェル社のものであったことは、いたしかたのないことかもしれない。だが、それを使って製品化にこぎつけたのは、コニカの技術力であり、その仕事に携わった技術者の努力である。

そういえば、ミノルタがα7000を出したとき、これも、オートフォーカスの技術のコアの部分について、ハネウェル社との間で、特許権をめぐって問題がおこったはずである。

だが、そのコニカもミノルタも、今はない。一緒になってコニカミノルタになったものの、カメラ事業からは、撤退してしまった。その流れは、今では、ソニーが受け継いでいることになる。

そして、35ミリコンパクトカメラというものが、すでにこの世から姿を消してしまっている。いや、フィルムカメラそのものが、もう過去のものになってしまっている。

番組は、二〇〇〇年の放送であるから、そろそろデジタルカメラの時代になっていたころになる。(おそらく、デジタルカメラの開発をめぐっても、いろいろと興味深いドラマがあるのだろうと思う。)

今、日本のカメラ産業は転換期であるともいえよう。象徴的なこととしては、ニコンが、日本国内での工場での組み立てを終了するということがある。一眼レフについていえば、いわゆるミラーレスの方向に大きく舵をきっていくことになるだろう。いまだに、ニコンの一眼レフを使いつづけているような、(私のような)人間は、時代遅れかもしれない。

カメラの歴史、写真の歴史も、また日本の近代の生活誌の一コマということで、この番組も興味深いものであった。

2021年7月14日記

追記 2021年7月24日
この続きは、
やまもも書斎記 2021年7月24日
プロジェクトX「トランジスタラジオ」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/07/24/9401070

『おかえりモネ』あれこれ「雨のち旅立ち」2021-07-18

2021-07-18 當山日出夫(とうやまひでお)

『おかえりモネ』第9週「雨のち旅立ち」
https://www.nhk.or.jp/okaerimone/story/week_09.html

前回は、
やまもも書斎記 2021年7月11日
『おかえりモネ』あれこれ「それでも海は」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/07/11/9396852

この週で、前半の登米、気仙沼編はおわりということになるようだ。

見どころかと思うのは、次の二点。

第一には、百音の震災への思い。

震災のあったとき、百音は島にいなかった。高校の合格発表で仙台に行っていた。それはそれで苦労があったろうとは思うが、しかし、故郷の気仙沼をおそった津波は体験していない。それが、百音にとって、重荷になっている。妹の未知とも、すれちがってしまったようである。

その思いが、最終的には、百音を気象予報士へと向かわせることになる。誰かの役にたちたいと強く願うようになる。

第二には、百音の周囲の人びと。

気象予報士試験に合格したことを、サヤカさんに言い出せないでいる。素直に喜びの気持ちを表現できない。が、それも、ヒバの木を切って、未來への希望が見えてきたところで、ふっきれたものがあったようである。

また、亀島の家族も、百音のことを思っている。気持ちよく、東京に行くことを許してくれる。森林組合の人びと、それから、菅波医師も、百音を送り出してくれている。

以上の二点が、この週を見ていて思ったところなどである。

次週から、東京編ということになるが、無事に気象予報士の仕事ができることになるのだろうか。そして、サメのぬいぐるみも登場するようだ。楽しみに見ることにしよう。

2021年7月17日記

追記 2021年7月25日
この続きは、
やまもも書斎記 2021年7月25日
『おかえりモネ』あれこれ「気象予報は誰のため?」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/07/25/9401361

『原節子の真実』石井妙子2021-07-19

2021-07-19 當山日出夫(とうやまひでお)

原節子の真実

石井妙子.『原節子の真実』(新潮文庫).新潮社.2019 (2016.新潮社)
https://www.shinchosha.co.jp/book/340011/

原節子の映画を映画館で見たのはどれくらいあるだろうか。はっきりと覚えているのは、『我が青春に悔いなし』(黒澤明監督)は、見たのを覚えている。小津安二郎監督の映画のいくつかも、映画館で見た記憶はあるのだが……私の学生のころ、小津安二郎の映画は、場末、もう今ではこんなことばは使わないが、しかし、このようないい方しか思い浮かばない、で上映されていたものである……はっきりと原節子と意識して見たという記憶はない。

原節子の名前を意識するようになったのは、近年になって小津安二郎の作品が再評価されるようになってからのことである。それまで、日本の女優の……特に美人の……一人という認識でいたかと思う。ただ、一般的な知識としては、いつの間にか日本の映画界から姿を消して隠棲してしまった、謎の多い女優ということは思っていたかと思う。

「女優」のことばをつかって書いてみたが、近年では、このことばは、あまりつかわないことばになってしまっている。女性であっても、俳優というのが、ちかごろのならわしである。だが、原節子については、私は、女優と書いておきたい気がしてならない。女優として仕事をし、生きて、そして、「原節子」という女優を残して、この世を去ったのが、まさしく原節子だろうと思う。

この原節子を、テレビで見ることがあった。小津安二郎の映画の放送もあるのだが、そうではなく、NHKの「映像の世紀」のシリーズにおいてである。そこでは、原節子は、戦前の日本とドイツとの合作のプロパガンダ映画の主演である。また、戦時中は、真珠湾攻撃を描いた『ハワイ・マレー沖海戦』にも出演している。これらのことは、テレビを見ていて知った。

この本『原節子の真実』のことは、知ってはいたが、今まで手にとることなく過ぎてしまっていた。ふと思って、手にしてみた。なるほど、原節子とはどのような人生をあゆんだ人間なのか、得心がいったというところであろうか。まさに、小津安二郎の映画に登場する女性のイメージである。(だが、実生活において、煙草をすいながら酒を飲んでいたというのは、ちょっとそぐわない気がしないでもないのだが。)

石坂洋次郎は『青い山脈』を書くにあたって、原節子をイメージして書いたという。さもありなんと思う。新しい時代の女性というイメージが確かにある。が、その一方では、小津安二郎作品などでは、逆に古風な価値観の女性を演じてもいる。

今は、時間のあるときは、本を読むようにしている。読めるときに読んでおきたいと思う。そして、時間があれば、外に出て、草花の写真をとっている。が、これも、本を読むのに倦むときがくるかもしれない。そのときはどうしようか。DVDで、映画でも見ようかと思う。若いときに、そのいくつかを見たことのある、小津安二郎の作品でも、じっくりと振り返って見てみたい気がする。

しかし、原節子自身は、小津安二郎監督作品については、自分の代表作ではないと思っていたとのことである。原節子の生きてきた「原節子」は、ついに演じきられることな終わってしまったということなのかもしれない。

また、この本は、原節子という女性の生き方をたどることによって、日本の映画史の一面を描いた作品にもなっている。これはこれとして、興味深いところが多々ある。

2021年7月13日記

『青天を衝け』あれこれ「篤太夫と最後の将軍」2021-07-20

2021-07-20 當山日出夫(とうやまひでお)

『青天を衝け』第23回「篤太夫と最後の将軍」
https://www.nhk.or.jp/seiten/story/23/

前回は、
やまもも書斎記 2021年7月13日
『青天を衝け』あれこれ「篤太夫、パリへ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/07/13/9397596

明治維新である。この回の見どころとしては、次の二点ぐらいかと思う。

第一に、栄一。

栄一は、パリにいる。そこで、日本のことが気にはなるのだが、情報が入ってこない。いや、ある意味では、この時代のように、外国に出てしまえば、情報が隔絶してしまうような状況の方が、留学という点では、意味があったのかもしれないと思う。

が、ともあれ、パリで栄一は、ヨーロッパの国々の、商業と政治のあり方について、見聞をひろめることになる。これは、日本に帰国してから、明治維新以降の渋沢の経済での活躍ということを考えれば、重要な伏線ということになる。

その栄一は、パリに行っても算盤を手放さない。いつも机の上には、算盤がある。日本に先がけて、断髪・廃刀ということになっても、それを素直に受け入れているようだ。これは、栄一が、もとは農民だから、武士ということにそうこだわりがないせいなのであろう。新しい時代の流れに順応していっている。

第二に、慶喜。

討幕の動きが激しくなろうとしているところで、慶喜は、大政奉還ということになる。これは、ある意味では、クーデターのようなものかもしれない。討幕の大義名分を失わせてしまうことになる。

これに対して、京都の朝廷側では、岩倉具視を中心にして、王政復古の旗をあげる。クーデターに対する、クーデターである。

ここで、いよいよ明治維新ということになっていく。

だが、ここで描かれていたのは、慶喜の孤独感であったかとも思う。江戸の最後の将軍として、大政奉還を決意するものの、それを補佐するものはいない。円四郎は死んでしまっているし、また、栄一は遠くの異国にいる。

以上の二点が、この回を見て思ったところなどである。

次回は、八月の放送になる。まあ、たぶんオリンピックは開催ということなのだろう。オリンピックの放送は、一切見ないことにするつもりでいる。定時のニュースぐらいは見るが。時代の流れとしては、栄一がパリにいる間に、日本は明治維新をむかえてしまうということになる。このあたり、どう描くことになるのか、楽しみに見ることにしよう。

2021年7月19日記

追記 2021年8月17日
この続きは、
やまもも書斎記 2021年8月17日
『青天を衝け』あれこれ「パリの御一新」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/08/17/9411326