『雪国』川端康成/新潮文庫2022-02-14

2022年2月14日 當山日出夫(とうやまひでお)

雪国

川端康成.『雪国』(新潮文庫).新潮社.1947(2006.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100101/

川端康成を読んでおきたいと思って手にした。谷崎潤一郎の新潮文庫版を読み切ったので、次は川端康成ということにしたいと思った。特に、順番を決めて読もうということではない。適当に見つくろいながらである。

「雪国」は、これまで何度か読んでいる。川端康成で、多くの回数読みかえした作品かもしれない。他には、「伊豆の踊子」があるだろうか。

読むたびごとに、いろいろと思うことがある。今回、読んでみて思うことなど書いてみることにする。

第一には、やはり叙情性ということである。

透徹した叙情性というべきだろうか。川端康成の作品に共通することではあるが、特に「雪国」には強く感じる。モデルとなっているのは、越後湯沢である。だが、作品中にそのことが特に明示されているわけではない。この山間の温泉町の、冬の雪のシーズン、それから初夏、夏、秋と、季節の変化をおりまぜながら、ひなびた温泉町の風情と自然が描写される。ここに展開される叙情性は、日本文学の古来の流れをふまえたものであると感じるところがある。

第二には、エロティシズム。

表面的にはさらりと書いてあるのだが、「雪国」はエロティシズムの小説である。冒頭近く、駒子と再会した島村が、覚えているのはこの指であると、左手の薬指をしめす。このあたり、なんともいえないエロティシズムがある。

しかし、「雪国」を読んでいって、決して露骨な性描写があるということではない。駒子という女性の境遇と、そこを訪れている島村との関係から、こんなことがあったのだろうと想像することになる。これは、想像するしかない。だからこそ、一層のことエロティシズムは強まる。

以上の二点ぐらいが、とりあえず思い浮かぶことである。

以前にこの作品を読んだときに感じたことでもあるが、この作品は、「城の崎にて」(志賀直哉)とどこか通じるところがあると感じる。特に、夏の場面で、座敷の床の上に蛾の死骸を見つめるシーンなど、生のいきつくところを凝視していると感じる。

そして、この作品は、「徒労」の作品でもある。このことばは、作中に何度か出てくる。駒子の島村への思いは、まさに「徒労」といってよいのだろう。だが、それが「徒労」であることがわかっているだけに、その思いは深くなる。

また、島村は傍観者である。冒頭の汽車の中でのシーン。ガラスに写ったた葉子の姿を「見る」、その「見る」という行為を、さらにその外の視点から描いている。ここで葉子は、二重に読者から見られている。

この作品とはあまり関係のないことかもしれないが、気になったことがある。それは、この作品には、方言が出てこないことである。なぜ、川端康成は作品中で方言を使っていないのであろうか。(これは、ひろく、日本の近代文学と方言という視点から考えるべきことであるかとも思うのだが、しかし、これは私の手にあまる。日本語学と日本文学にまたがる領域の研究として、面白いと思うのだが。)

2022年1月28日記