『おむすび』「Restart」 ― 2025-02-02
2025年2月2日 當山日出夫
『おむすび』 「Restaet」
別にヒロインが登場しなくなっても、ドラマとして面白ければいいのだが、私の見るところ、あまり面白くなっていない。強いていえば、話しの展開に無理がある、というか、都合よく科白だけですませてしまっているところがあると感じる。
商店街にショッピングセンターが出来るということで、商店街の人たちは反対の立場になる。そのなかで、靴屋の渡辺も、最初は娘の真紀の思い出の残っている家を壊すことはできないと反対していたが、最終的には、土地を売ることに合意する。そして、ショッピングセンターが出来る。最初は反対していた人たちも、商店街に新しいお客さんが増えることになり、ショッピングセンターと共存する道をさぐることになる。という、めでたしめでたし、のお話しであった。
別にこのような筋のドラマであってもいいとは思うのだが、それならば、事前にもっと描いておくべきことがあったはずである。
まず、これは何度も書いているが、商店街の人たちの仕事が見えてこない。どんな仕事をしているのか、かろうじて映っていたのは理容店の米田の店ぐらいである。この週になって、ようやく靴屋の渡辺の仕事の場面があったが、それもわずかなものであった。
また、商店街のお客さんの姿がいっこうに見えてきていなかった。
たとえば、以前の『舞いあがれ!』(『おむすび』と同じくBKの制作)では、隣のお好み焼き屋さんの仕事がきっちりと描かれていたし、そこにやってくる近所のお客さんたちによって、東大阪の町工場がどんな街であるかが描かれていた。しかし、『おむすび』の太極軒にやってくるお客さんの姿から、その商店街にどんな人が集まっているのか、まったく見えてきていない。同じことは、パン屋についても、靴屋についても、また、理容店についても、言えることである。どこに住んでいるどんなお客さんが来ているのか、想像することもできない。
地元密着型の店舗経営でいくならば、まず、その街の人びとの生活が分かるように描いてある必要がある。しかし、少し前では、愛子の作ったホームページで遠方のお客さんを呼び込もうという方向であったりした。これは、ドラマの筋立てとして、ちぐはぐである。
パン屋でパンを焼く仕事、中華料理屋で料理を作る仕事、靴屋で靴を作る仕事、これらを描写してあったうえで、それを求めてくる地元のお客さんたちが、どんな人たちであるのか、それが震災後にどう変化していくのかということを描いてこそ、その商店街の未来を展望できるというものである。
また、パン屋とか町中華とか靴屋(高級なオーダーメイド)とか理容店(古くからのなじみ客が多い)の場合、ショッピングセンターが出来たからといって、すぐに大きな影響を受けることはないだろうと思われる。これが、既成の衣料品店などだったら、影響は大きいかもしれない。
靴屋の渡辺は、神戸の店を手放して東京に行くという。靴職人としてやっていくということである。だが、そのわりには、靴を作っているシーンがこれまで無かった。靴職人としての腕前は、ギャル向けのカスタムシューズの制作ではなく、普通の靴をそれを履く人に合わせて作る技術であったはずである。少なくとも、震災前の渡辺はそういう職人であったはずである。その肝心な部分がまったく出てきていない。靴は、どんなデザインであっても、サイズが合わなければまったく意味がない商品である。お客さんの足に合わせて作るのが、職人ある。
震災からの復興ということで、駅界隈の再開発ということになって、マンションができたようだが、これも唐突である。マンション建設の話しがあれば、そこにどんな人が住んで、どんな買物の需要があるのか、考えるのが商店街としての基本であろう。
それから、SNS映えでパンが売れる、餃子が売れる、ということだったが、これも、無理矢理に筋書きのなかにねじ込んだという印象がある。たしかに今の時代、SNS映えといういことは、商品の魅力的なアピールにつながることは確かだが、時期的に、これはちょっと早いかなという気がしないでもない。
それよりもまず作るべきは、商店街のホームページで、どこにどんな店があって、何を売っているか、ということの情報発信であることのように思えるのだが、どうだろうか。
チャンミカの店で、古着をオンラインショップで売るのはいいとしても、これも服のサイズなどの情報が必要であるし、何よりも決済の方法をきちんとしないといけない。独自に構築するのでなければ、どこかオンラインショップに店を出すということになるのだろうが、そのようなことについては、まったく言及がなかった。それに、もしオンラインショップだけでやっていけるなら、店舗は無駄である。
それよりも、古着バイヤーとしての歩の仕事ぶりとか、目のつけどころとか、値段の交渉とか、このあたりのことをきちんと描いておくべきではないだろうか。
おしゃれしたいという願望は、誰しも持つものであろうが、しかし、これを、おしゃれ=ギャル、としてしまうのでは、逆に、そういう人間の気持ちの普遍性を描き損なうと思わざるをえない。別に、ギャルの恰好が悪いという意味ではないが、このみは人それぞれであること、そして、時代の流行、これをまずふまえておかなければならない。
ギャルがすべてを解決する、というのは、いくらなんでも都合がよすぎると感じるのである。
このドラマの運が悪かったと思うところは、たまたま、『カーネーション』と『カムカムエヴリバディ』の再放送と重なってしまったことである。これらの過去のドラマでは、洋裁店、美容院、お菓子屋、クリーニング屋、回転焼き屋、映画俳優、などで手を動かして仕事をする姿が、ドラマの一部として意味を持つようにきちんと描かれている。そして、その仕事をとおして、時代と世相の変化が伝わるように作られている。どうしてもこれらを比べて見てしまうことになる。
かつて結は栄養士として、社食のメニューについて、地産地消を提案したことがあったが、この経験が、商店街の八百屋のビジネスと関係する展開もあり得たかもしれないと思うが、どうだろうか。
他にも書きたいことはあるが、これぐらいにしておく。
2025年1月31日記
『おむすび』 「Restaet」
別にヒロインが登場しなくなっても、ドラマとして面白ければいいのだが、私の見るところ、あまり面白くなっていない。強いていえば、話しの展開に無理がある、というか、都合よく科白だけですませてしまっているところがあると感じる。
商店街にショッピングセンターが出来るということで、商店街の人たちは反対の立場になる。そのなかで、靴屋の渡辺も、最初は娘の真紀の思い出の残っている家を壊すことはできないと反対していたが、最終的には、土地を売ることに合意する。そして、ショッピングセンターが出来る。最初は反対していた人たちも、商店街に新しいお客さんが増えることになり、ショッピングセンターと共存する道をさぐることになる。という、めでたしめでたし、のお話しであった。
別にこのような筋のドラマであってもいいとは思うのだが、それならば、事前にもっと描いておくべきことがあったはずである。
まず、これは何度も書いているが、商店街の人たちの仕事が見えてこない。どんな仕事をしているのか、かろうじて映っていたのは理容店の米田の店ぐらいである。この週になって、ようやく靴屋の渡辺の仕事の場面があったが、それもわずかなものであった。
また、商店街のお客さんの姿がいっこうに見えてきていなかった。
たとえば、以前の『舞いあがれ!』(『おむすび』と同じくBKの制作)では、隣のお好み焼き屋さんの仕事がきっちりと描かれていたし、そこにやってくる近所のお客さんたちによって、東大阪の町工場がどんな街であるかが描かれていた。しかし、『おむすび』の太極軒にやってくるお客さんの姿から、その商店街にどんな人が集まっているのか、まったく見えてきていない。同じことは、パン屋についても、靴屋についても、また、理容店についても、言えることである。どこに住んでいるどんなお客さんが来ているのか、想像することもできない。
地元密着型の店舗経営でいくならば、まず、その街の人びとの生活が分かるように描いてある必要がある。しかし、少し前では、愛子の作ったホームページで遠方のお客さんを呼び込もうという方向であったりした。これは、ドラマの筋立てとして、ちぐはぐである。
パン屋でパンを焼く仕事、中華料理屋で料理を作る仕事、靴屋で靴を作る仕事、これらを描写してあったうえで、それを求めてくる地元のお客さんたちが、どんな人たちであるのか、それが震災後にどう変化していくのかということを描いてこそ、その商店街の未来を展望できるというものである。
また、パン屋とか町中華とか靴屋(高級なオーダーメイド)とか理容店(古くからのなじみ客が多い)の場合、ショッピングセンターが出来たからといって、すぐに大きな影響を受けることはないだろうと思われる。これが、既成の衣料品店などだったら、影響は大きいかもしれない。
靴屋の渡辺は、神戸の店を手放して東京に行くという。靴職人としてやっていくということである。だが、そのわりには、靴を作っているシーンがこれまで無かった。靴職人としての腕前は、ギャル向けのカスタムシューズの制作ではなく、普通の靴をそれを履く人に合わせて作る技術であったはずである。少なくとも、震災前の渡辺はそういう職人であったはずである。その肝心な部分がまったく出てきていない。靴は、どんなデザインであっても、サイズが合わなければまったく意味がない商品である。お客さんの足に合わせて作るのが、職人ある。
震災からの復興ということで、駅界隈の再開発ということになって、マンションができたようだが、これも唐突である。マンション建設の話しがあれば、そこにどんな人が住んで、どんな買物の需要があるのか、考えるのが商店街としての基本であろう。
それから、SNS映えでパンが売れる、餃子が売れる、ということだったが、これも、無理矢理に筋書きのなかにねじ込んだという印象がある。たしかに今の時代、SNS映えといういことは、商品の魅力的なアピールにつながることは確かだが、時期的に、これはちょっと早いかなという気がしないでもない。
それよりもまず作るべきは、商店街のホームページで、どこにどんな店があって、何を売っているか、ということの情報発信であることのように思えるのだが、どうだろうか。
チャンミカの店で、古着をオンラインショップで売るのはいいとしても、これも服のサイズなどの情報が必要であるし、何よりも決済の方法をきちんとしないといけない。独自に構築するのでなければ、どこかオンラインショップに店を出すということになるのだろうが、そのようなことについては、まったく言及がなかった。それに、もしオンラインショップだけでやっていけるなら、店舗は無駄である。
それよりも、古着バイヤーとしての歩の仕事ぶりとか、目のつけどころとか、値段の交渉とか、このあたりのことをきちんと描いておくべきではないだろうか。
おしゃれしたいという願望は、誰しも持つものであろうが、しかし、これを、おしゃれ=ギャル、としてしまうのでは、逆に、そういう人間の気持ちの普遍性を描き損なうと思わざるをえない。別に、ギャルの恰好が悪いという意味ではないが、このみは人それぞれであること、そして、時代の流行、これをまずふまえておかなければならない。
ギャルがすべてを解決する、というのは、いくらなんでも都合がよすぎると感じるのである。
このドラマの運が悪かったと思うところは、たまたま、『カーネーション』と『カムカムエヴリバディ』の再放送と重なってしまったことである。これらの過去のドラマでは、洋裁店、美容院、お菓子屋、クリーニング屋、回転焼き屋、映画俳優、などで手を動かして仕事をする姿が、ドラマの一部として意味を持つようにきちんと描かれている。そして、その仕事をとおして、時代と世相の変化が伝わるように作られている。どうしてもこれらを比べて見てしまうことになる。
かつて結は栄養士として、社食のメニューについて、地産地消を提案したことがあったが、この経験が、商店街の八百屋のビジネスと関係する展開もあり得たかもしれないと思うが、どうだろうか。
他にも書きたいことはあるが、これぐらいにしておく。
2025年1月31日記
『カーネーション』「自信」 ― 2025-02-02
2025年2月2日 當山日出夫
『カーネーション』「自信」
この週から、糸子の娘たち(優子、直子、聡子)が、大きくあつかわれることになる。そろそろ、次の世代へとつながっていくことになる。
東京の洋裁学校に優子が行き、それから、直子も行くことになる。この二人は、ライバルということになる。優子は、まさにその名前のとおりの優等生である。一方、直子は、わがままという感じもするが、しかし、絵のセンスはある。そしで、服飾デザイナーとして生きていく覚悟を決めている。このことについては、優子の方は、糸子の店を継ぐというぐらいである。聡子は、いまのところ、さほど洋裁やデザインに関心があるというわけではなく、もっぱらテニスに熱中している。
このドラマを見るのは、三回目ぐらいになるはずだが、やはりうまく作ってあると感じるところが多い。何よりも映像として魅力がある。テレビドラマは、映像表現なのであるから、画面の映像としての魅力が重要である。つまらないドラマは、まず、画面の映像の魅力がないということが多い。
画面に奥行きを感じる作り方になっている。岸和田の家もそうだが、窓があって外の景色が見える。そして、窓からの日の光が差し込んでくる。この窓からの光を、このドラマでは非常にうまく使っている。時間や季節の変化を感じさせると同時に、画面が立体的に浮かびあがってくる。映像として非常に上手である。
ドラマの舞台は、ほとんど岸和田の糸子の店と、その前の商店街、ほぼこれだけでほとんどである。しかし、その岸和田の店の中の小道具が、その当時の生活や仕事ぶりをうかがわせるように、丁寧に配置されている。時代が進むごとに、家の中のものが少しづつ変わっていって、変化を感じさせる。
東京の学校の直子の仲間、男性三人が、岸和田にやってくる。糸子がやっている立体裁断を見学するためである。このとき、小原の家の食卓に出たのはトンカツだった。これも思いおこしてみると、昔、糸子が洋裁をミシンの先生(根岸先生)に習いはじめたとき、母の千代がトンカツを作ろうとしてうまくいかなかった。結局、イワシの煮たのをおいしそうにたべていたシーンを思い出す。それから年月がたって、岸和田の小原の家でも普通の、今のようなトンカツを作るようになっている。こういうところに、時代の変化ということをうまく表現している。
立体裁断を実演してみせる糸子を、直子はそばにたって黙ってじっと見ていたが、その目は、娘が母親を見る目ではなかった。服飾デザイナーとして、ライバルを見るという印象の目であった。
これに対して、優子の糸子に対する態度は、基本的に、娘の母親に対する姿勢である。
優子が東京の男性を連れてくるのだが、それに対して糸子はつれない。仕事ぐらい自分で探せという。まあ、若くから自立して洋裁店を経営してきた糸子にとっては、そのように感じるというところがあったのだろう。
この時の回は、昭和三四年であるが、世相を表すものとしては、皇太子御成婚であった。また、街角の描写のなかに、フラフープやホッピングが置かれていた。まさに、この昭和三〇年代を表していることになる。
土曜日の回で、優子は店の仕事をすることになったが、妊娠した女性について、失敗してしまう。このとき、糸子は、丁寧に手取り足取り教えるということはしない。優子に、自分でやってみろというだけであった。この回を見ると、岸和田の洋裁店で糸子がやってきた仕事は、服飾デザイナーであり、洋裁の職人であり、洋裁店の経営者であり、そして、同時にお客さんに対する接客業でもある……こういう仕事を全部やってきたのだ、ということが実感される。そして、女性であり、母親でもある。このドラマのうまさは、糸子のこういう多面性のある生き方を、たくみに糸子の人生のなかに、相互に連続性のあるものとして、織りこんであるところにあるのだろうと思う。
2025年2月1日記
『カーネーション』「自信」
この週から、糸子の娘たち(優子、直子、聡子)が、大きくあつかわれることになる。そろそろ、次の世代へとつながっていくことになる。
東京の洋裁学校に優子が行き、それから、直子も行くことになる。この二人は、ライバルということになる。優子は、まさにその名前のとおりの優等生である。一方、直子は、わがままという感じもするが、しかし、絵のセンスはある。そしで、服飾デザイナーとして生きていく覚悟を決めている。このことについては、優子の方は、糸子の店を継ぐというぐらいである。聡子は、いまのところ、さほど洋裁やデザインに関心があるというわけではなく、もっぱらテニスに熱中している。
このドラマを見るのは、三回目ぐらいになるはずだが、やはりうまく作ってあると感じるところが多い。何よりも映像として魅力がある。テレビドラマは、映像表現なのであるから、画面の映像としての魅力が重要である。つまらないドラマは、まず、画面の映像の魅力がないということが多い。
画面に奥行きを感じる作り方になっている。岸和田の家もそうだが、窓があって外の景色が見える。そして、窓からの日の光が差し込んでくる。この窓からの光を、このドラマでは非常にうまく使っている。時間や季節の変化を感じさせると同時に、画面が立体的に浮かびあがってくる。映像として非常に上手である。
ドラマの舞台は、ほとんど岸和田の糸子の店と、その前の商店街、ほぼこれだけでほとんどである。しかし、その岸和田の店の中の小道具が、その当時の生活や仕事ぶりをうかがわせるように、丁寧に配置されている。時代が進むごとに、家の中のものが少しづつ変わっていって、変化を感じさせる。
東京の学校の直子の仲間、男性三人が、岸和田にやってくる。糸子がやっている立体裁断を見学するためである。このとき、小原の家の食卓に出たのはトンカツだった。これも思いおこしてみると、昔、糸子が洋裁をミシンの先生(根岸先生)に習いはじめたとき、母の千代がトンカツを作ろうとしてうまくいかなかった。結局、イワシの煮たのをおいしそうにたべていたシーンを思い出す。それから年月がたって、岸和田の小原の家でも普通の、今のようなトンカツを作るようになっている。こういうところに、時代の変化ということをうまく表現している。
立体裁断を実演してみせる糸子を、直子はそばにたって黙ってじっと見ていたが、その目は、娘が母親を見る目ではなかった。服飾デザイナーとして、ライバルを見るという印象の目であった。
これに対して、優子の糸子に対する態度は、基本的に、娘の母親に対する姿勢である。
優子が東京の男性を連れてくるのだが、それに対して糸子はつれない。仕事ぐらい自分で探せという。まあ、若くから自立して洋裁店を経営してきた糸子にとっては、そのように感じるというところがあったのだろう。
この時の回は、昭和三四年であるが、世相を表すものとしては、皇太子御成婚であった。また、街角の描写のなかに、フラフープやホッピングが置かれていた。まさに、この昭和三〇年代を表していることになる。
土曜日の回で、優子は店の仕事をすることになったが、妊娠した女性について、失敗してしまう。このとき、糸子は、丁寧に手取り足取り教えるということはしない。優子に、自分でやってみろというだけであった。この回を見ると、岸和田の洋裁店で糸子がやってきた仕事は、服飾デザイナーであり、洋裁の職人であり、洋裁店の経営者であり、そして、同時にお客さんに対する接客業でもある……こういう仕事を全部やってきたのだ、ということが実感される。そして、女性であり、母親でもある。このドラマのうまさは、糸子のこういう多面性のある生き方を、たくみに糸子の人生のなかに、相互に連続性のあるものとして、織りこんであるところにあるのだろうと思う。
2025年2月1日記
『カムカムエヴリバディ』「1962」「1962-1963」 ― 2025-02-02
2025年2月2日 當山日出夫
『カムカムエヴリバディ』「1962」「1962-1963」
この週を見て思ったことなど書いておく。本来の放送での週の区切りとちぐはぐになるが、これはいたしかたない。
大阪のクリーニング店で働き始めたるいが、ジャズ喫茶のジョーと知り合い、そして、お互いに惹かれ合っていくということになる。
この週の放送の終わりで、ジョーの子どものときの回想シーンが、ようやく出てきた。これで、ジョーが、岡山で定一の店にいたトランペットの少年であったことが分かる、ということになる。だが、ジョーはそのことを、るいに告げるまでにはいたっていない。
トミーはベリーに、共鳴、ということばをつかっていた。これは、めぐまれた環境に生まれ育った二人(ベリーの生いたちはこれから明らかになるが)が、ジャズ喫茶で出会って、何かしら共通するものがあるということであろう。この時代のジャズ喫茶は、ドラマのなかではそうはっきりと描かれていないが、おそらくは不良の集まるところという印象だったろうと思われる。一方で、この時代、ジャズは、一部の知的エリートには、非常に人気のある音楽でもあった。(サブカルチャーには、このような、いわゆる低級な大衆向けというイメージの側面と、知的エリートの指向が合わさるという現象がある。)クラシック音楽の基本を学んだというトミーにとっては、ジャズは音楽の邪道でもあったにちがいない。
そして、この共鳴ということは、岡山で母の安子と別れた記憶のあるるいと、戦災孤児であったジョーとの、お互いの幼いころの思い出が、重なり合うということでもある。だが、ドラマのなかで、このことがはっきりと描かれるのは、もうちょっと先になってからである。
このドラマの演出でうまいなあと思ったのは……クリーニング屋の店先を妊娠した女性が歩いていて、次のシーンでは同じ女性が乳母車を押して歩いていた。これだけで、何の説明もしなくても、ほぼ半年から一年ぐらいの時間が経過したことが分かる。
地蔵盆のときのこともいい。地蔵盆で子どもと一緒に遊ぶジョーと、それを二階から見ているるい。ジョーがタコ焼きを落としてシャツを汚して、すかさずかけよるるいの姿が印象的である。また、これを見守る、クリーニング屋の夫婦の姿が、とても安心して見ていられる。かき氷、タコ焼き、ラムネ、風鈴……これらの小道具がたくみに使ってあった。
時代劇でのポスターで、モモケンと虚無蔵の名前が出てきていた。これらは、これからの京都でのドラマの展開に大きな役割をはたすことになる。
2025年1月31日記
『カムカムエヴリバディ』「1962」「1962-1963」
この週を見て思ったことなど書いておく。本来の放送での週の区切りとちぐはぐになるが、これはいたしかたない。
大阪のクリーニング店で働き始めたるいが、ジャズ喫茶のジョーと知り合い、そして、お互いに惹かれ合っていくということになる。
この週の放送の終わりで、ジョーの子どものときの回想シーンが、ようやく出てきた。これで、ジョーが、岡山で定一の店にいたトランペットの少年であったことが分かる、ということになる。だが、ジョーはそのことを、るいに告げるまでにはいたっていない。
トミーはベリーに、共鳴、ということばをつかっていた。これは、めぐまれた環境に生まれ育った二人(ベリーの生いたちはこれから明らかになるが)が、ジャズ喫茶で出会って、何かしら共通するものがあるということであろう。この時代のジャズ喫茶は、ドラマのなかではそうはっきりと描かれていないが、おそらくは不良の集まるところという印象だったろうと思われる。一方で、この時代、ジャズは、一部の知的エリートには、非常に人気のある音楽でもあった。(サブカルチャーには、このような、いわゆる低級な大衆向けというイメージの側面と、知的エリートの指向が合わさるという現象がある。)クラシック音楽の基本を学んだというトミーにとっては、ジャズは音楽の邪道でもあったにちがいない。
そして、この共鳴ということは、岡山で母の安子と別れた記憶のあるるいと、戦災孤児であったジョーとの、お互いの幼いころの思い出が、重なり合うということでもある。だが、ドラマのなかで、このことがはっきりと描かれるのは、もうちょっと先になってからである。
このドラマの演出でうまいなあと思ったのは……クリーニング屋の店先を妊娠した女性が歩いていて、次のシーンでは同じ女性が乳母車を押して歩いていた。これだけで、何の説明もしなくても、ほぼ半年から一年ぐらいの時間が経過したことが分かる。
地蔵盆のときのこともいい。地蔵盆で子どもと一緒に遊ぶジョーと、それを二階から見ているるい。ジョーがタコ焼きを落としてシャツを汚して、すかさずかけよるるいの姿が印象的である。また、これを見守る、クリーニング屋の夫婦の姿が、とても安心して見ていられる。かき氷、タコ焼き、ラムネ、風鈴……これらの小道具がたくみに使ってあった。
時代劇でのポスターで、モモケンと虚無蔵の名前が出てきていた。これらは、これからの京都でのドラマの展開に大きな役割をはたすことになる。
2025年1月31日記
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