映像の世紀バタフライエフェクト「ラストエンペラー 溥儀 財宝と流転の人生」2025-02-07

2025年2月7日 當山日出夫

映像の世紀バタフライエフェクト ラストエンペラー 溥儀 財宝と流転の人生

これまでに「映像の世紀」シリーズでは、溥儀は何度も登場している。こういう人生もあるのか、という気持ちで見ていた。この回を見て、最後に気になることは、溥儀ははたして思想改造を受け入れたのか、ということである。共産党に屈服するようにみせかけただけで、その本心は違っていたのかもしれない。ひょっとすると、清朝復辟を思っていたとしても不思議ではない。

溥儀について、中国共産党のプロパガンダに利用したという言い方をしたのは、「映像の世紀」シリーズのなかでは初めてのことかもしれないと思うが、どうだっただろうか。

おそらくこのような人生を経た人間は、もうどのような人も思想も信じなくなるのではないか。人を愛することも、信頼することも、出来なくなってしまったのかと想像してみることになる。

溥儀が紫禁城から持ち出した財宝の行方も気になることだが……そのいくつかは、今の中国から出てしまった富豪が持っていたりしても、これはおどろくことではないと感じる。おそらくは、表には知られていないだけで、闇の裏世界では、美術コレクターの間を流れているのかもしれない。まあ、そのうちいくつかは、戦禍の犠牲になったものもあったかとも思うが。

これをふくめて、清朝の財宝を、今、どこでだれが持っているのか……「故宮博物院」の所蔵をふくめて……というのは、非常に面白い歴史があるのだろう。今から、勉強してみようとは思わないけれど。

どうでもいいことだが、以前、立命館大学の文学部で非常勤で教えることがあったとき、講師室のメールボックスの始めの方に……あいうえお順でも、abc順でも始めにくる……愛新覚羅という名前を見たときは、正直、おどろいたものである。が、これも考えれば、不思議なことではない。満州語の専門家としてであったが。

2025年2月4日記

3か月でマスターする江戸時代「(5)華やかな「元禄文化」はどのように生まれた?」2025-02-07

2025年2月7日 當山日出夫

3か月でマスターする江戸時代 (5)華やかな「元禄文化」はどのように生まれた?

元禄文化についてであったが、ちょっと気になったことがある。

近松門左衛門のことが出てきていたが、その時の映像は、現代の文楽のものであった。これはいいとしても、近松門左衛門の時代の人形浄瑠璃は、人形は一人でつかっていた、というのが私の知っているところである。三人づかいになったのは、後のことである。(人形浄瑠璃と言うのは正しい。現代は、文楽と言っているが、これは、文楽座という劇団の名称に由来する、新しい言い方である。)

井原西鶴の『好色一代男』のことについては、世之介が三〇〇〇人の女性を相手にしたというのはいいとして(たしかにそのように書いてある)、男性も相手にしている。決して、世之介の性の対象は、女性に限定されていたわけではない。男色もあった。さて、これは、この番組を作るときに、意図的に言わなかったことなのだろうか。(国文学など勉強したことからいえば、江戸時代の男色は、近代になってからのような潔癖な倫理観にもとづくタブーではなかった。陰間茶屋のことなどは、国文学の常識である。)

近世の出版文化史ということは、確かに近年になって研究が非常にすすんだ分野である。その背景には、近世になってからのリテラシーの向上ということもある。また、国語史、日本語史の立場からいうと、浮世草子に見られるような、漢字仮名交じりの文章の成立と普及ということがある。それは、もうすこしさかのぼって、近世初期の仮名草子ぐらいから歴史をたどる必要がある。(余計なことかもしれないが、近世の出版文化を語るならば、古活字版のことには触れておいてほしい。)

元禄時代になって、全国の耕地面積が増大した。農業生産力が向上したということは、そのとおりなのだろうが、同時に気になるのは、そこで増大した農作物が、どのように流通し、消費されたということである。また、農業以外の、漁業はどうだったのか。また、農業の生産力の増大が、年貢に依存する武士の生活にどう影響することになったのか、ということも気になる。

西回り航路、東回り航路で、ものの流通があって、大阪が天下の台所になった、ということはそうなのだろうと思うが、これは、同時に、それぞれの航路にある港と港をつなぐ文化の伝搬があったことにもなる。また、大阪に集められた物資は、どのように、消費され、流通したのかということも、気になることである。

松尾芭蕉について、重要なのは、その旅をささえる人びと……全国にちらばる徘徊の仲間……があったことは、そのとおりだと思う。ここで気になったのは、俳句と言っていたこと。これは、NHKのこの番組としてはしかたないことかと思うが、文学研究の立場からすれば、芭蕉の時代であれば、俳諧でなければならない。

それから、前近代の時代において、旅から旅に生きる人びとがいたことも重要だろう。その延長に、宮本常一のような仕事もありえたことになる。ただ、歴史学として、『忘れられた日本人』の生活を、江戸時代以前のどこぐらいまでさかのぼって考えることができるのか、ということは、かなり難しいことにはちがいない。

このシリーズで、これまでに、江戸時代の人口とか村落の家族構成ということについては、触れていない。あつかいには難しいところもあるかとも思うが、歴史人口学の成果は、認めるべきではないだろうか。(なお、私が慶應義塾大学の学生のころ、経済学部の速水融さんのことは知っていたのだが、その受業をこっそりと聞いてみようというところまではしなかった。)

農書、農業全書というような書物が、どのような人びとに読まれたかということは、重要なことにちがいない。まったく受容がないところに、このような書物の出版はありえない。それだけ、生活に余裕があり、リテラシを持った、上層の農民という人びとが、各地に存在したということになる。本の書き手、その刊行にかかわった本屋、それを読んだ人たち……これらを、総合的に考えなければならないことになる。

2025年2月6日記

アジアに生きる「インド 変革の風」2025-02-07

2025年2月7日 當山日出夫

シリーズ アジアに生きる インド 変革の風

私の基本的な立場は、人は自由意志で決められないことについて責任を問われたり、不平等なあつかいをうけることがあってはならない、ということである。

男性であるか、女性であるかは、自分で選んで産まれることはできない。どのような「人種」であるかも、選択することはできない。社会的階層や、生まれる地域や国などについても同様である。

このなかに性的指向もふくめて考えることができる。異性(男性/女性)を好きになるのか、同性でなければだめなのか、どちらも好きになれるのか、それとも、自分でもどうだか分からないのか……これらは、自らの自由意志で選択できることではない。だから、同性愛者だからといって、不当なあつかいがあってはならない。これが基本であると思っている。

ただ、現代のセクシュアリティについての議論は、その先のことになっている部分がある。人は、自分の性的指向を自由意志で選ぶことが可能である。人間の自由意志は、何よりもとうとい。これが侵害されることがあってはならない。だから、同性愛を選択したとしても、それは自由として尊重されなければならない。(これは、理屈としては分からなくはないが、しかし、人間の性(ジェンダー)の文化的側面について見るならば、それがかなり社会構築的な部分を持っていることを、考慮すべきかと思う。まったくの自由意志での選択と、自分の意志では変えることのできないこと、これらの中間的要素がある。)

インドの場合でみるならば、つい近年まで、同性愛が犯罪であったことから、いきなり、同性婚を法律的に認めるところまで求めるのは、ちょっと飛躍がありすぎるので、ついてこれない人が多くいるのは当然だろうとは思う。まずは、同性愛というのも、人間の性的指向として、少数ではあるが確実に存在するものである、という事実を認めるところからスタートすべきであろう。

このような番組では、多くの場合、同性愛者がすすんだ考えの持ち主で、それを認めないのは遅れている、という価値観を提示することが多い。これを、考え方が進んでいるか遅れているか、という基準でとらえようとするから、あまり建設的な議論にならないと感じるところである。

同性愛が、人間において、さほど不自然なものではなく、少数ではあるが確実に存在するものである、ということを認めた上で、では、社会の制度としてどうあるべきか……法的な結婚を認めるのか、実質的にはそれぞれの好みの問題として自由であることにするのか、このあたりのことについては、それぞれの文化や歴史のもとに、判断の違いがあってもいいだろうと、思う。これが、絶対に法的な結婚に固執すると、妥協点が見いだせなくなる。また、法的な結婚だけが、家族のあり方であるとすることになり、これはこれで、また議論を呼ぶことになる。

性的指向の多様性を認めるならば、同時にそれは、家族のあり方についての多様性も認めるものでなければならない。少なくとも理論上はそうなる。

この番組に登場していた女性は、インドのなかで、どれぐらいの社会的階層の人びとなのだろうか。ことの是非は別にして、社会の階層と、その生活の価値観は多くの場合、関連があるといっていいだろう。伝統的価値観から自由であっても生活できる人びともいれば、逆に、その中に埋もれて生きるしかない人びともいるはずである(私は、それが不幸だとは思わないが)。

インドの王様というのが、テレビに登場するのは珍しいかなと思う。こういう人たちは、今のインドで、どんな暮らし方をしているのだろうか。

2025年1月31日記