BS世界のドキュメンタリー「私を“合成”したのは誰 ディープフェイク・ポルノ犯を追う」 ― 2025-02-22
2025年2月22日 當山日出夫
「私を“合成”したのは誰 ディープフェイク・ポルノ犯を追う」
インターネットが登場したときから、ポルノとは関係があった。日本では、インターネットのことについて、かなり早く言及していた一人が、立花隆であるが、その書いたものを読むと、こんなポルノ画像が見られると、驚きを隠さないでいる。(これも、今日の価値観からするならば、立花隆の感覚を否定的に評価することになるだろうが。)ともあれ、新しいメディアが登場すると、それにともなってポルノも変わってきたということだけは、言っていいだろう。インターネットやSNSの世界から、ポルノを駆逐すべきだという、ある種の理想論はあってもいいが、私の見るところ、あまり現実的とは思えない。
番組は、被害者である女性の視点から作られているのだが、正直にいえば、自分の顔画像が使われたディープフェイク・ポルノを、ネット上で探索していくというのも、ある種の怖ろしさ、執念を、感じる。こういう感情は、かなり文化的な要素があるかと思う。どうせフェイクなんだから気にしない……という考え方もできるかもしれないが、そう思うことはない。ネット上にあることは、すべて真実でなければならない、と考えているのかもしれないが、これも見方によっては偏った考え方でもある。
それから、犯人とされた男性。この番組では、一方的に犯罪者としているのだが、これを距離をおいて見るならば、もしこのような男性の周囲の人びと(男性でも女性でも)が、適切に接していれば、このような事態にはならなかったかもしれない。どうするのが適切だったのか。その大学では、何か問題はなかったのか。
あるいは、その男性が、そのような性的指向(ディープフェイク・ポルノを作って満足する)だったとしたら、そのような自分の性的指向のあり方に、自分で責任を取れるのだろうか。もし、責任を取ることのできないものであったならば、そのことを理由に社会的に責められることはあってはならない。自分で選ぶことのできない性的指向(たとば、同性愛)で、社会的に不利なことがあってはならないのと、論理的には同じである。
必要なことは、そのような性的指向を持った人物がいたとしても、具体的な被害者を生まないためには、社会としてどうあるべきか、という方向からのアプローチであるべきだろう。
技術が生んだ新しい犯罪、ということができるかもしれないが、では何故ひとはそのようなことをするのか、という人間のあり方の深みにとどく議論がこれからは必要かと思う。その前には、まず、被害者が声を上げることは重要ではあるが。
また、ポルノ画像に固有名(固有名詞、特定の誰と特定できる顔の映像)が付随するのは、いったいどうしてなのだろう……これも、おそらく性の文化にかかわる多様な歴史があってのことだと思う。
2025年2月18日記
「私を“合成”したのは誰 ディープフェイク・ポルノ犯を追う」
インターネットが登場したときから、ポルノとは関係があった。日本では、インターネットのことについて、かなり早く言及していた一人が、立花隆であるが、その書いたものを読むと、こんなポルノ画像が見られると、驚きを隠さないでいる。(これも、今日の価値観からするならば、立花隆の感覚を否定的に評価することになるだろうが。)ともあれ、新しいメディアが登場すると、それにともなってポルノも変わってきたということだけは、言っていいだろう。インターネットやSNSの世界から、ポルノを駆逐すべきだという、ある種の理想論はあってもいいが、私の見るところ、あまり現実的とは思えない。
番組は、被害者である女性の視点から作られているのだが、正直にいえば、自分の顔画像が使われたディープフェイク・ポルノを、ネット上で探索していくというのも、ある種の怖ろしさ、執念を、感じる。こういう感情は、かなり文化的な要素があるかと思う。どうせフェイクなんだから気にしない……という考え方もできるかもしれないが、そう思うことはない。ネット上にあることは、すべて真実でなければならない、と考えているのかもしれないが、これも見方によっては偏った考え方でもある。
それから、犯人とされた男性。この番組では、一方的に犯罪者としているのだが、これを距離をおいて見るならば、もしこのような男性の周囲の人びと(男性でも女性でも)が、適切に接していれば、このような事態にはならなかったかもしれない。どうするのが適切だったのか。その大学では、何か問題はなかったのか。
あるいは、その男性が、そのような性的指向(ディープフェイク・ポルノを作って満足する)だったとしたら、そのような自分の性的指向のあり方に、自分で責任を取れるのだろうか。もし、責任を取ることのできないものであったならば、そのことを理由に社会的に責められることはあってはならない。自分で選ぶことのできない性的指向(たとば、同性愛)で、社会的に不利なことがあってはならないのと、論理的には同じである。
必要なことは、そのような性的指向を持った人物がいたとしても、具体的な被害者を生まないためには、社会としてどうあるべきか、という方向からのアプローチであるべきだろう。
技術が生んだ新しい犯罪、ということができるかもしれないが、では何故ひとはそのようなことをするのか、という人間のあり方の深みにとどく議論がこれからは必要かと思う。その前には、まず、被害者が声を上げることは重要ではあるが。
また、ポルノ画像に固有名(固有名詞、特定の誰と特定できる顔の映像)が付随するのは、いったいどうしてなのだろう……これも、おそらく性の文化にかかわる多様な歴史があってのことだと思う。
2025年2月18日記
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