3か月でマスターする江戸時代「(11)「開国か攘夷か」で大騒ぎしたのはなぜ?」 ― 2025-03-21
2025年3月21日 當山日出夫
3か月でマスターする江戸時代 (11)「開国か攘夷か」で大騒ぎしたのはなぜ?
島崎藤村の『夜明け前』を読むと、なるほど江戸時代の人たちはこんな生活感覚を持っていたのかと感じるところがある。だが、読んでいくと第二部の始まり(新潮文庫版だと、三冊目)で、いきなり幕末の外交のことになって、それまでの信州の宿場町の描写からとんでしまって、かなりとまどうことになる。だが、これも、『夜明け前』の書かれた昭和の初めのころの人びとの感覚としては、幕末のいろいろなできごとは、父母や祖父母の世代の経験した、つい近年のできごとであった、という歴史の感覚を表していると理解するべきだろう。今の時代のことを考えるのに、太平洋戦争のときのことから考えることが多いのに、近い感覚かもしれないと思う。
この時代の「空気」としては、尊皇攘夷が、まず基本の路線であって、それを実現するための方法論の争いであった……すぐに国を閉ざすのか、あるいは、いったん交易をして国力をつけてから外国勢力をうちはらうのか……ということは、そのとおりかなと思う。
それにしても、孝明天皇というのは、迷惑な存在であったことになる。普通、歴史を語るとき、一人の個人の意志がどうであったかというようなことで、歴史は動くものではない……もう今では、影響力はなくなったかと思うが、唯物史観にたつならば、個人の意志で歴史を動かすということは、ありえないことになる。とはいえ、時代の転換点では、個人の判断が、歴史の方向を変えるということもありうる。
歴史と個人、という論点からは、かなり興味深い事例ということになるだろう。
この回では出てこなかったが、孝明天皇の死因はなんだったのだろうか……まあ、これは、幕末維新を題材にしたドラマで、いろいろと描かれるところではある。
気になっていることとして、江戸時代、庶民の意識として、幕府はどのような存在だったのだろうか。天領であれば、まず、お代官様がいたはずである。藩の領地であれば、その藩に属するという気持ちはあったかもしれない。全体として、江戸時代の庶民……その圧倒的多数は農民であったろうが……にとって、江戸の幕府や将軍という存在は、どのように意識されていたのだろうか。江戸市中の人びとにとっては、御公儀ということだったかと思うが、それを、支配・被支配という感覚で、うけとっていただろうか。
日米修好通商条約は不平等条約であった、ということであるが、これについても、その当時の幕府としては、可能な限りの交渉の結果であったということもあるかもしれない。
日本語学の観点からは、この時の条約の交渉や条約の文書が、どのような言語でなされたのかということが問題になる。研究のあることは知っているが。
2025年3月20日記
3か月でマスターする江戸時代 (11)「開国か攘夷か」で大騒ぎしたのはなぜ?
島崎藤村の『夜明け前』を読むと、なるほど江戸時代の人たちはこんな生活感覚を持っていたのかと感じるところがある。だが、読んでいくと第二部の始まり(新潮文庫版だと、三冊目)で、いきなり幕末の外交のことになって、それまでの信州の宿場町の描写からとんでしまって、かなりとまどうことになる。だが、これも、『夜明け前』の書かれた昭和の初めのころの人びとの感覚としては、幕末のいろいろなできごとは、父母や祖父母の世代の経験した、つい近年のできごとであった、という歴史の感覚を表していると理解するべきだろう。今の時代のことを考えるのに、太平洋戦争のときのことから考えることが多いのに、近い感覚かもしれないと思う。
この時代の「空気」としては、尊皇攘夷が、まず基本の路線であって、それを実現するための方法論の争いであった……すぐに国を閉ざすのか、あるいは、いったん交易をして国力をつけてから外国勢力をうちはらうのか……ということは、そのとおりかなと思う。
それにしても、孝明天皇というのは、迷惑な存在であったことになる。普通、歴史を語るとき、一人の個人の意志がどうであったかというようなことで、歴史は動くものではない……もう今では、影響力はなくなったかと思うが、唯物史観にたつならば、個人の意志で歴史を動かすということは、ありえないことになる。とはいえ、時代の転換点では、個人の判断が、歴史の方向を変えるということもありうる。
歴史と個人、という論点からは、かなり興味深い事例ということになるだろう。
この回では出てこなかったが、孝明天皇の死因はなんだったのだろうか……まあ、これは、幕末維新を題材にしたドラマで、いろいろと描かれるところではある。
気になっていることとして、江戸時代、庶民の意識として、幕府はどのような存在だったのだろうか。天領であれば、まず、お代官様がいたはずである。藩の領地であれば、その藩に属するという気持ちはあったかもしれない。全体として、江戸時代の庶民……その圧倒的多数は農民であったろうが……にとって、江戸の幕府や将軍という存在は、どのように意識されていたのだろうか。江戸市中の人びとにとっては、御公儀ということだったかと思うが、それを、支配・被支配という感覚で、うけとっていただろうか。
日米修好通商条約は不平等条約であった、ということであるが、これについても、その当時の幕府としては、可能な限りの交渉の結果であったということもあるかもしれない。
日本語学の観点からは、この時の条約の交渉や条約の文書が、どのような言語でなされたのかということが問題になる。研究のあることは知っているが。
2025年3月20日記
NHKスペシャル「創られた“真実” ディープフェイクの時代」 ― 2025-03-21
2025年3月21日 當山日出夫
NHKスペシャル 創られた“真実” ディープフェイクの時代
最後のクレジットを見ると、NII(国立情報学研究所)の名前があった。専門家の協力で作ったのだろうと思う。
だが、フェイク動画に、メタデータが埋め込んであって、それを解析すれば、それを作ったPCのシリアルナンバーが分かる……というのは、どうだろうか。もし、そうであったとしても、そんなものは、消去するか、改竄するか、暗号化するか、ということになるだけのことである。ここはドラマとしての都合で作った部分であろう。
AIによるディープフェイクが氾濫するとどうなるか、最終的には、人間は、もっとも素朴な現実……身体的な現実ということになるかと思うが……しか信じなくなる。ようするに、産業革命以前の生活にもどることになる。これは、ユートピアかもしれないし、ディストピアかもしれない、いや、そのような区分すら意味のない状況をむかえることになる。せいぜい楽観的に考えて、これぐらいである。
AIの技術に歯止めがかけられないことの一つの要因は、これが軍事的に利用可能であり、敵対する側により高性能のAIを開発されてしまうと困ったことになる。だから、政府としても、強引な規制ということに踏み切れない。こういうこともあるだろう。
その一方で、人間の技術の開発というのは、いったん動き始めたら、自律的に動く、あるいは、暴走することを、止めることができないものである、ということもある。
たとえば、生命倫理をめぐる、ここ半世紀のほどの流れを思ってみるならば、技術的に可能なことであるならば、なんとか理屈をつけて容認する方向にむかってきたのが、人間の歴史でもある。はじめのころは、人工授精であっても、自然の摂理に反するものであると拒否していた時代があった。将来、クローン人間の是非をめぐる議論が過去のものとなる時代がくるかもしれない。
ディープフェイクを、人間の倫理観で制御しようということは、そもそも無理だろうと思う。人間は、ウソだとわかっていても、ウソを好む……これは無視できないことにちがいない。
できることとしては、それが犯罪に使われないように、また、軍事的に使われないように、可能な限りで対応していくだけのことかと思う。これは、技術のイタチごっこにはなるが、これ以外の有効な手立ては思いつかない。
WEB会議が、AIとディープフェイクによってのっとられるということを防ぐには、実際に人と会って話しをする、昔のスタイルにもどすしかない。そして、それだけの手間暇をかける価値のあることが何であるか、判断することが求められる、ということになるだろうか。最重要機密は、人と人があって、盗聴器のないところで、直接、話しをするしかない、これは昔も今も変わらないことであろう。
ある程度予想できることとしては、世の中がディープフェイクだらけになってしまうと、その価値も下落する。それを作る意欲が減退し、手間暇をおしむようになるかもしれない。今は、まだ、本物と見間違えるものとして価値があるから、作ろうとする。
だが、これも、人間の意志をはなれて、AIが勝手に作るようなときがやってくるかもしれないが。
2025年3月19日記
NHKスペシャル 創られた“真実” ディープフェイクの時代
最後のクレジットを見ると、NII(国立情報学研究所)の名前があった。専門家の協力で作ったのだろうと思う。
だが、フェイク動画に、メタデータが埋め込んであって、それを解析すれば、それを作ったPCのシリアルナンバーが分かる……というのは、どうだろうか。もし、そうであったとしても、そんなものは、消去するか、改竄するか、暗号化するか、ということになるだけのことである。ここはドラマとしての都合で作った部分であろう。
AIによるディープフェイクが氾濫するとどうなるか、最終的には、人間は、もっとも素朴な現実……身体的な現実ということになるかと思うが……しか信じなくなる。ようするに、産業革命以前の生活にもどることになる。これは、ユートピアかもしれないし、ディストピアかもしれない、いや、そのような区分すら意味のない状況をむかえることになる。せいぜい楽観的に考えて、これぐらいである。
AIの技術に歯止めがかけられないことの一つの要因は、これが軍事的に利用可能であり、敵対する側により高性能のAIを開発されてしまうと困ったことになる。だから、政府としても、強引な規制ということに踏み切れない。こういうこともあるだろう。
その一方で、人間の技術の開発というのは、いったん動き始めたら、自律的に動く、あるいは、暴走することを、止めることができないものである、ということもある。
たとえば、生命倫理をめぐる、ここ半世紀のほどの流れを思ってみるならば、技術的に可能なことであるならば、なんとか理屈をつけて容認する方向にむかってきたのが、人間の歴史でもある。はじめのころは、人工授精であっても、自然の摂理に反するものであると拒否していた時代があった。将来、クローン人間の是非をめぐる議論が過去のものとなる時代がくるかもしれない。
ディープフェイクを、人間の倫理観で制御しようということは、そもそも無理だろうと思う。人間は、ウソだとわかっていても、ウソを好む……これは無視できないことにちがいない。
できることとしては、それが犯罪に使われないように、また、軍事的に使われないように、可能な限りで対応していくだけのことかと思う。これは、技術のイタチごっこにはなるが、これ以外の有効な手立ては思いつかない。
WEB会議が、AIとディープフェイクによってのっとられるということを防ぐには、実際に人と会って話しをする、昔のスタイルにもどすしかない。そして、それだけの手間暇をかける価値のあることが何であるか、判断することが求められる、ということになるだろうか。最重要機密は、人と人があって、盗聴器のないところで、直接、話しをするしかない、これは昔も今も変わらないことであろう。
ある程度予想できることとしては、世の中がディープフェイクだらけになってしまうと、その価値も下落する。それを作る意欲が減退し、手間暇をおしむようになるかもしれない。今は、まだ、本物と見間違えるものとして価値があるから、作ろうとする。
だが、これも、人間の意志をはなれて、AIが勝手に作るようなときがやってくるかもしれないが。
2025年3月19日記
フロンティア「宇宙の夜明け 何がおきていたのか?」 ― 2025-03-21
2025年3月21日 當山日出夫
フロンティア 宇宙の夜明け 何がおきていたのか?
こういう宇宙にかんする科学番組を見るとき、いつも思うことなのだが、天文学者は、(人間にとっての)可視光線の範囲で分かること、あるいは、その範囲で観測データをビジュアライズすること、このことについて、そもそもどう思っているのだろうか、ということがある。人間にとっての可視光線の範囲、そしてその範囲で色彩を認識するというのは、人間の進化において、たまたまそうなっているだけのことだと私は思うのだが、そこに、宇宙の誕生にかかわる、根本的な必然性のようなものがあるのだろうか。(色彩学の本を読むとよく書いてあることだが、モンシロチョウの見ている光や色彩の世界は、人間とは違っている。その光や色彩を感知して生きることが、モンシロチョウにとっての生物としての進化の結果である。)
だからこそ、可視光線での観測データ、赤外線のデータ、電波望遠鏡のデータの、総合ということになるにちがいないとは思うが。
天文学の歴史は、ざっくりいえば、人間が観測できる事象と、観測技術、そこから得られたデータの信頼性、これらと、総合的に説明できる理論と、全体としてどう考えるのが合理的で、サイエンスの方法論として妥当であるか、ということだと理解している。この意味では、太古の人間が、天動説を思ったのは、それなりに意味のあることで、決して荒唐無稽な妄説を信じ込んでいたのではないとするべきである。現代では、ジェームズウエッブ宇宙望遠鏡や、アルマ電波望遠鏡がつかえ、また、宇宙物理学の理論的な研究の進展がある、ということになる。そして、サイエンスの方法論というものの考え方のルールがある。
この番組の中でも使われていたが、宇宙について語るとき、進化、ということばはどういう意味で使っているのだろうか。生物における進化論の進化とは、ちょっと違うかと思う。ただ、時間が経過するに従って変化してきたことを、進化というのは、どうなのだろうか。(だからといって、他の適切なことばがすぐに見つかるということではないかもしれないが。)
これから宇宙についての研究がどう変わっていくか。私が生きている間に、宇宙の誕生から138億年という定説がくつがえるときがくるだろうか。
どうでもいいことかもしれないが、日本の大学で天文学をこころざす若い人たちに、希望のいだける世界であってほしい。
2025年3月19日記
フロンティア 宇宙の夜明け 何がおきていたのか?
こういう宇宙にかんする科学番組を見るとき、いつも思うことなのだが、天文学者は、(人間にとっての)可視光線の範囲で分かること、あるいは、その範囲で観測データをビジュアライズすること、このことについて、そもそもどう思っているのだろうか、ということがある。人間にとっての可視光線の範囲、そしてその範囲で色彩を認識するというのは、人間の進化において、たまたまそうなっているだけのことだと私は思うのだが、そこに、宇宙の誕生にかかわる、根本的な必然性のようなものがあるのだろうか。(色彩学の本を読むとよく書いてあることだが、モンシロチョウの見ている光や色彩の世界は、人間とは違っている。その光や色彩を感知して生きることが、モンシロチョウにとっての生物としての進化の結果である。)
だからこそ、可視光線での観測データ、赤外線のデータ、電波望遠鏡のデータの、総合ということになるにちがいないとは思うが。
天文学の歴史は、ざっくりいえば、人間が観測できる事象と、観測技術、そこから得られたデータの信頼性、これらと、総合的に説明できる理論と、全体としてどう考えるのが合理的で、サイエンスの方法論として妥当であるか、ということだと理解している。この意味では、太古の人間が、天動説を思ったのは、それなりに意味のあることで、決して荒唐無稽な妄説を信じ込んでいたのではないとするべきである。現代では、ジェームズウエッブ宇宙望遠鏡や、アルマ電波望遠鏡がつかえ、また、宇宙物理学の理論的な研究の進展がある、ということになる。そして、サイエンスの方法論というものの考え方のルールがある。
この番組の中でも使われていたが、宇宙について語るとき、進化、ということばはどういう意味で使っているのだろうか。生物における進化論の進化とは、ちょっと違うかと思う。ただ、時間が経過するに従って変化してきたことを、進化というのは、どうなのだろうか。(だからといって、他の適切なことばがすぐに見つかるということではないかもしれないが。)
これから宇宙についての研究がどう変わっていくか。私が生きている間に、宇宙の誕生から138億年という定説がくつがえるときがくるだろうか。
どうでもいいことかもしれないが、日本の大学で天文学をこころざす若い人たちに、希望のいだける世界であってほしい。
2025年3月19日記
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